♬6 不可視の現象を夢想する
「いかにも頑丈そうなのに、洒落てますね」
圧倒され、ようやく出てきた言葉がこれだ。
隙間なく積み上げられた横倒しの六角柱には、巨大な六角形の窓がずらりと敷き詰められ、さながら昆虫の複眼のように通りを見下ろしている。通りから店内の様子が透けて見える窓、薄暗い窓、何も見えない窓と様々である。カーテンやブラインドの類は見当たらない。
壁には蔦植物が絡み始めており、刻々とその
地上フロアは全て穴抜きで窓がなく、車や自転車などが詰まっている。もちろん穴の形状は全て六角形だ。
「カフェや雑貨店、BARにギャラリー……ここって店舗兼住居なんだよね。働き蜂たちの。一番上のフロアに、これを設計した
説明しながら、ずんずんと進む
カランコロンと音を立ててドアを開けると、待ってましたとばかりに店主と思しきずんぐりと大柄な人が出迎えてくれた。「お好きな席にどうぞ」と促されるまま、窓際の席に着く。
早速差し出されたグラスをグイと呷ると、中身はほのかに香る檸檬水で、身体中に染み渡るようだった。スッキリと爽やかな心持ちでメニューを眺め、カレーの種類、スープ、辛さ、ライスの量を選んでいると気分がワクワクと高揚する。
注文を終えて、沈み込むように座席の背もたれに身体を預けた。
「あの人が店主の
露樹はキッチンの方を見やった。つられて私の視線も移動する。
キッチンでテキパキと動きまわる黄色っぽいTシャツと腰に巻いた黒いエプロンは、まるで熊蜂のようだ。
観葉植物に溢れる店内にゆったりと流れるジャズに耳を傾けると、悠久の時の川を揺蕩っているような気がして心地いい。
「お待たせしました。こちらが『ホロホロ豚の薬膳角煮スープカレー』です」
「あ、私です」
間もなくして目の前に置かれた石鍋の中で、スープがグツグツと音をたてて沸いている。たっぷりの野菜に豪勢な角煮が添えられ、抜群のインパクトだ。
露樹の前には『やわらか鶏の薬膳スープカレー』が置かれ、熊八さんはそれぞれの石鍋に花椒をミルでごりごりと削って振りかけた後、「ごゆっくり」とキッチンへ戻っていった。
ごはんをスープに浸して一口。海老出汁の香りと旨味が口いっぱいに広がってゆく。続いてビリビリと追いかけてくる花椒のシビレ。これは堪らない。
「どう? 店長オススメの大辛は」
「美味しいです」
その先の言葉を紡ぐよりも、口にスプーンを運ぶ方を優先してしまう。露樹もまた、ココナツベースのスープを掬ってご満悦だ。チキンレッグの身をほぐしながら、追ってピーチラッシーを運んできた熊八さんに愛想を振りまいている。
しっかりとスープに浸したカボチャを頬張った後、スプーンと共に用意された箸で、オクラを摘み上げる。次から次へと野菜を発掘し、時折とろっとろの角煮の柔らかさを堪能すると幸せな気分になる。
少し手を止めて、蜂蜜ミントレモネードを飲むと、これまたミントの爽やかさに癒やされた。この地で暮らすようになって、夢見心地のような気分に浸ることが多いのは、こうして美味しいものをゆったりと食べているからだろう。
如何に安くお腹を満たすかに心血を注いでいた頃には、想像もできなかった。
どうやら随分とお腹が空いていたらしく勢いよく食べ進めていたけれど、少し落ち着いてきたからか、ずっと気がかりだったことを聞いてみる気になった。
「この間、沙羅沢池の畔でフルクサスさんという人に会ったんです。ベンチに座って五重塔の先端の飾りをスケッチしていて……。何か治療院をやっていると言って、名刺をいただいたんですけど、突然風が吹いて、名刺が溶けるように手をすり抜けてしまって。気づいた時にはフルクサスさんの姿もなくて。余程疲れていたのでしょうか」
一気に絞り出すようにまくし立てた。
笑われる気がして、これまで言い出せなかったのだ。時折感じる、自分がこの世の存在でないような不安。そこから生まれた幻覚だったのだろうか、などとここ暫くモヤモヤと考えていた。まるで、せき止めるものが無くなった時の濁流だ。
「……私は……何か〈治療〉が必要、とか。そういう話なのかなって」
露樹は食べる手を止めて、こちらをじっと見た。珍しく
「フルクさんが、リュカの前に現われたの?」
「え? はい。名乗ったわけではないけれど、名刺にはフルクサスと書いてありました。何の治療院をやっているのか尋ねたら、『必要な時に自ずと僕の元に導かれるはずだ』って」
「……そう」
微妙な間と沈黙。
無意識にグラスに手を伸ばした私は、清涼なミントのおかげか、自分の中に溜め込んでいたものを吐き出したからか、不安は残りつつもスッキリとした気分だった。でも、再びコーンのツブツブが見え隠れするスープを掬い始めた露樹は、心なしか少し傷ついたような、焦燥感に駆られているような顔に見えた。
「フルクさんは四弦獣の一人なんだよね」
「し、死幻獣!?」
それって、死神とかそういう類の……?
「そうそう。獣なんて言っても、不可視の現象、つまりフィノマナンの象徴的な存在というだけで、実際は人の姿をしているんだけどね。少なくとも、私達の前に現れる時には」
超常現象とかそういう……いや、信仰の話なのか?
「フルクさんは
確かに私は髪も瞳も真っ黒だ。露樹の髪は明るいミントグレージュだし、フルクさんは榛色の髪に蒼い瞳だった。あの餅をくれた人は狐色の髪に焦げ茶の瞳で……やっぱり私はどこか違う世界へと迷い込んだのだろうか。
この記憶にあるような無いような曖昧な場所、私が『異都奈良』と呼ぶこの街は、もしかすると異界の地なのかもしれない。
ハッと気がつくと、頬杖をついた露樹がにっこりと微笑んだ。ずっとこちらを眺めていたのだろう。
「あ、この角煮、食べてみますか? ホロホロ柔らかくて凄く美味しいですよ」
なんとなく視線を受け止めきれずに目を逸してしまう。食べたことあるからじっくり楽しんで、と露樹にはやんわり断られた。
そりゃそうだ。
美味しい店があるから、と露樹に連れてきてもらったのだから。
***
「という夢を視ました。はじめは朧げで、夢を視たことすら忘れていましたけれど、毎夜、断片的な光景を繰り返し視るうちに、どうも一繋がりの鮮明な記憶のように思えてきて。でも、
一体どこからそんな発想が……?
左手に茶碗、右手に箸。
味噌汁を啜り終えた露樹は椀と箸を置き、湯呑に手を伸ばす。
「じゃあさ、行ってみよう。その薬膳カレーを食べに」
「え? 本当にあるんですか?」
「あるよ」
「
「うん」
「そう……ですか」
「行きたくない?」
「えっ……いや別にそういう……」
「夢ってさ、無意識の意識だなんて言うし、きっと君はカレーが食べたいんだ。君の身体がスパイスを欲している」
「まあ、スパイスは好きですけど。でも……」
実際のところスパイスは好きだし、
「近いうちに……いや、今日行こう! 善は急げと言うし?」
露樹はいたずらっぽく視線を寄越してから、追加の茶を湯呑に注いだ。ようやく朝食の中盤に差し掛かった私は、ぱりっとした味のりを白米に巻きつけて口に押し込んだところだ。
怖いもの見たさというか、夢で視たものが本当に実在するのか、という興味が優勢でもある。件の
ただ、この時の私はある違和感に気づいてすらいなかった。
夢に視た光景に付随する味覚や香り、音や温度といった感覚が、まるで既に体験したかの如く、自分の中に残っていることに。
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