第3話 ほったらかしの水槽


 いのちの夜が終わった。ぼくたちの新しい日々がはじまった。

 ぼくたちのおうちは、ほったらかしにした水槽みたいなものだった。いつも暗くてじめじめしていてさ、かび臭くて、ほこりっぽくて、胸がつまってしまうんだ。

 ぼくは空気の味を忘れ、お日さまの匂いを忘れてしまったよ。でも、それは全然いやなことじゃなかった。というのも、この部屋のじめじめした暗さがだんだん心地よくなってくるんだ。とおくに聞こえる梢の音、鳥の声……でも、いつまで経ってもまっくらな夜。とっても静かなんだ。お母さんのお腹のなかで、心臓の音を聞いているみたいなんだ。




   三、ほったからしの水槽




 さて、新しいおうちでの生活を書きつける上で欠かせないのは、やっぱりドロボーさん自身に関することだと思う。こいつはなんというか……ぼくがうまく表現できないだけで、不思議と魅力的な、いいやつなんだよ。


 たとえばさ、彼は、時々狂ったように自分自身を傷つけていたんだ。それはたいてい早朝か深夜だった。

 ぼくとぼくの家族の寝場所は、積み上げられた湿った藁の上。藁と毛布のなかで、まっくらな夜の、さらにまっくらな夜に突入しかけるそのとき、目を閉じていると、ばち、ばち、と炎のはじける音がかすかに聞こえてくる。居間の暖炉が使われているんだ。

 あたたかな音だった。ぼくの大好きな音。まっくらな夜空に、ぽつりぽつりとみえるきれいな星をさ、寝ぼけ眼でかすかに眺めているような、そんな心地よい音。


 だけど、そのあたたかい音に混じって、ときどき人のうめきが聞こえてくるんだよね。さいしょは風の流れる音とか、動物の鳴き声とか、家のきしむ音とかと勘違いするのだけれど、それはあきらかに静かで秘密な苦悶だった。低くて、地鳴りのするような声なんだ。


 ウ・ウ・ウ、ウ・ウ・ウ


 って、誰かが暖炉にあたりながら、炎に向かってうなっているんだ。


「あくま……?」


 と、藁のなかで、青白い顔をしたぼくの家族が、ぼくをみつめる。


「あいつのなかに、悪魔が入り込んだのかも」


 と、ぼくが言うと、ぼくの家族の顔が恐怖にゆがむ。そうして、


「カミサマ」


 ぼくの家族はつぶやくと、藁のうえできちんと正座をして、ちいさな手をぴったり合わせて、背をかがめて、たどたどしく祈りはじめるんだ。悪魔から私たちを守ってください、私たちに悪魔を跳ね除ける力を与えてくださいってね。

 それは押し殺した祈りの声だったよ。泥棒の小さな呻きにさえかき消されてしまうような、かすれ声だったよ。


 ぼくの家族の祈りはぼくにとっても救いだった。ほとんどなんにも見えない暗闇のなかで、かび臭い藁と毛布のなかで、ほっからしにした水槽のなかで、ぼくはぼくの家族とおでこを合わせ、秘密の儀式を一晩中執り行うんだ。


 熱心に祈っているとさ、ときどき、ざらりとしたものが口に入る。それはたいてい砂だったし、あるいは藁だった。でもね、ぼくらはそんなことにはいっさい構わず、よだれを垂らしながら夢中で祈ったよ。それでいつしかお互い寝入っていてさ、朝起きると、ぼくの家族のぱっちり開いた瞳がみえるんだ。髪の色と同じ、茶色のかわいい瞳。まっかに充血している瞳。


 汚れがつきはじめたぼくの家族のほっぺたには涙の跡が残っていて、窓からびみょうに差し込む朝の光が、ぼくら二人の姿をきれいに浮き上がらせるんだ。ぼくの家族は天使みたいににっこり微笑んで、そうして、


「おにいちゃん、カミサマがまもってくれたよ」


 そんなことを言う。



 こうした日の朝、ドロボーさんの髪はいつにもましてばさばさで、なにかの液体で固まっているようだった。顔は血だらけだった。血とかうみがこびりついていて、見るのも不憫なお顔になっていた。

 爪の奥には血と皮とが挟まっているようだった。笑顔をつくると、顔が引きつって痛むようだった。あんまり喋っていると、半透明の黄色い液体がじくじくなめくじみたいに彼の顔を伝っていくんだ。それが、どうも、傷にしみるようで、


 ウ、ウ、ウ


 ドロボーさんはうめきながら、黄色く変色した布切れで、お顔をぎゅっと押さえ込んで、そのまま三十分は動かない。


 ぼくはそういう彼の引きつった笑顔がだいすきだった。黄色い液体を垂らして、必死につくる懸命な笑顔が好きだった。彼は、笑顔をつくることにいのちをかけていたんだよ。わかるかい。これはすごいことなんだ。暴力的で、無学で、ぼくたちに変てこなことを一生懸命教えてくれたドロボーさん。彼はやっぱりぼくたちを愛していたんだよ。それも、いのちをかけて。

 


 ところで、さっき変てこなことを教えてくれたと言ったけれど、ぼくたち二人はほんとうに色んなことを教えてもらったんだ。人の殴り方や罵り方、動物の殺し方やさばき方、乞食のやり方、ドロボーのやり方。学校では教えてくれないことを、いろいろ教えてくれたんだ。

 ドロボーさんはぼくたちのお父さんになろうと一生懸命だったんだと思う。また、お母さんになろうと頑張っていたんだと思う。

 ぼくたちの教室は、たいていはドロボーさんのおうちのなか。いつ見ても変わらない、ほったらかしの水槽のなか。

 暖炉のある居間には、油がこびりついていて、もともとは何色だったんだろうという大きなテーブルがあった。そこにはいつも酒瓶や食器、ナイフや縄、お金とかがばら撒かれていた。

 ときどきさ、そういうのが大きな音を立てて床に落ちるんだよね。そしてさ、くさった床板をさらに傷つけてさ、湿らせてさ、触りたくもないような、絵の具をぐちゃぐちゃに混ぜた色合いにしちゃうんだ。ちょいと触っただけで指先が溶けてしまいそうになる、ぼくらのおうちの新しいいのち!


 そう、ぼくらがドロボーさんの教えをうまく再現できないと、ドロボーさんは肩をいからせて、目をちかちか燃え上がらせて、机の上をざっとなぎ払うんだ。耳をふさぎたくなる、あの機械をこすり合わせたような音が家のなかに響いて、そうしてドロボーさんはは叫ぶんだ。


「もっと本気でやれ。ホラ、ホラ、言ってみろ。お前なんか死ンじまえって言うんだよ。可愛いあの子に向かって、言うんだ。お前みたいなやせっぽっちで、みにくい、汚いいろをした人間は、出来損ないの、生きていくのがかわいそうな人間なんだって。とっとと死んじまったほうがお前自身のためだし、そうすりゃお前のお父さんもお母さんも胸がすかっとするんだって。死んじまえ。そうでないと、みんなが迷惑するんだぞって」


 ドロボーさんは、怒りにぶるぶる震えているそのお顔を、ぼくとぼくの家族に向ける。ぼくの家族は立ち尽くしていて、泣いている。で、泣きながら、たっぷんたっぷん酒瓶から漏れ出る透明な液体が、床に黒い染みを広げていくのを、じぃっとみつめている。


「ホラ、きみ。きみも言うんだよ。お兄ちゃんなんて大嫌いだって。お兄ちゃんは、わたしが指をぎこぎこ切りとられるときも何もしてくれなかったし、わたしが頭をかじられているときも何もしてくれなかった。そんなお兄ちゃんなんて、いらないんだって。いてもいなくてもどっちでもいいって。そんな弱いひと、大っ嫌いだって。顔をみるのもいやだ。さっさと死んじまえってさ。そうすればさ、きっとお兄ちゃんは強くなれるんだよ」


 言われたとおり、ぼくたちは何度も罵りあったよ。ぼくの家族はぼくの言葉を泣きながら聞いていたし、ぼくを罵るときも、目をまっかにして泣いていた。

 でも、不思議なもんだよね。はじめは悲しかったし、大事なぼくの家族をののしっているとさ、自然と涙があふれてきたもんだったよ。でも、一月も経てばだんだん何ともなくなってくるんだ。ぼくの家族がぼくのことを罵っても、ぼくはぜんぜん聞き流すことができたし、大事なぼくの家族をののしるときでさえ、ぼくは何とも思わなくなっていたんだ。


「お前なんかが生まれてきて、お父さんもお母さんもがっかりしてたんだ。ぼくは知ってるんだ。お父さんとお母さんが、ほんとうに心の底からお前のことが嫌いだったってことをね。というのも、お前があんまりみにくくてさ。さっさと死んだほうがいいよ」


 というような言葉を、ぼくはまったく問題なく言えるようになったんだ。もちろん、ぼくの家族もそうだったよ。


「おにいちゃんのことなんて、だいきらい」


 ってね、ほんとうにいやそうな顔で、怒鳴ってくるんだよ。ぼくはそれを受け止めてさ、


「ぼくのほうが嫌いだ」


 なんて、やり返すのさ。ドロボーさんはほほえましそうにそれを眺めて、よし、よし、いい子だ、いい子だよ……と褒めてくれるんだ。



 ぼくらが思う存分罵ることに慣れたら、さて、次の授業に入ったんだけれど、それは殴り合いだったり、ナイフで切り合ったりする、暴力に関する授業だった。とにかくぼくたちは、暴力というものを体験しなけりゃならないんだ。

 たとえばさ、ハアハア言っているぼくたちの首を、荒縄で、お互いがお互いを絞め合っていくんだ。顔と顔とを向かい合わせて、ゆっくりと、ロープを握った手に力を込めていくんだ。


 ぼくの家族の首は白くって細かった。縄が蛇みたいに首に巻きついていって、食い込んでいって、ぼくの家族の血管を圧迫していくようだった。その感触が手のひらにじかに感じられて、なんだか気色悪かったのを覚えているよ。で、その手の感触が深まるのと同時に、もちろん、自分の首も絞められていくんだ。


 時間が経つと、目が砂漠みたいに点滅してきて、げえ、げえ、と変な音が喉の奥のほうから聞こえてくるんだ。ぼくの家族の首に巻き付けられたロープを、思い切り左右に引っ張るのと同時に、ぼくの家族の手によってぼくの首が絞まっていくもんだから、面白いことに、自分で自分の首を絞めているようでもあったよ。不思議な気持ちだった。大丈夫。窒息する前に、ドロボーさんがぼくたちを止めてくれる。


「お子さんたち、よくやったよ」


 彼は笑う。


「これで天国に一歩近づいたんだよ。自分で自分を殺すのは難しいかもしれないけれど、自分が他人だったら、案外殺せるもんだろう。なあ。でも、おれはね、お子さんたちが、自分で自分を殺せるほどの、ほんとうの勇気と思いが与えられるよう願っているんだよ。本当にそう願っているんだよ」


 彼は、ぐったり横たわるぼくの家族の頭を優しくなでながら、誰にともなくそんなことを言うんだ。

 で、ぼくのほうはといえば、酸欠で頭がくらくらしてる。一度目をつぶって、静かに、なにかのおもちゃみたいに、ドロボーさんの言葉にうなずくだけ。そうしてぼくの家族の首周りの、あの、青黒い縄目の跡を見てみようと、ちょっとだけ目を開けるんだ。


 ぼくの家族は死んでしまったみたいに、ぴくりともしていない。からだ全体が青白くなってる。ちいさな足の指も、ほっそりしたすねも、指先も、腕も、みんな青白い。

 首をみると、紫色の蛇がぼくの家族の首を這っていた。あの蛇が、ちょっと前までぎゅうぎゅうぼくの家族の首を圧迫していたかと思うと、不思議な感じがした。


 ふと、ドロボーさんが身じろぎをした。それにあわせて、ドロボーさんのからだに隠れていた、ぼくの家族の顔が見えた。ぼくの家族は充血した茶色の瞳をぱっちり開けて、ぼくを見つめていたんだ。ぼくの首筋を見つめていたんだ。


「おにいちゃん、だいじょうぶ?」


 と、ぼくの家族がつぶやいた。


 ハ、ハ、ハ、ハ、ハ


 ドロボーさんがぼくの首をみて笑った。


 ア、ハ、ハ、ハ、ハ


「お前さんの首は、ほんとにやわだなあ。首がべっこりへこんでいるよ」


 触れてみると、縄目に沿って、たしかに首がべっこりへこんでいた。鏡でみてみるとさ、ぼくの家族の首に巻きついている例の蛇とは、ちょっとだけ違う色の蛇がそこにいるんだ。


「きみ、やるじゃないか」


 と、ドロボーさんはぼくの家族を褒めて、そのちいさなからだをぎゅっと抱き締めた。


「さすが、おれの子だなあ」



 ドロボーさんとのいのちの歩みをすべて書こうとすると、さすがに紙が何枚あっても足りないね。

 これからのことを考えて、てっとり早く言おう。

 ぼくたちはいろいろなことを教えてもらいながら、きっちりまっすぐ歩きだしたんだ。野イーヌを斧でたたいたし、皮を剥いで煮て食べたし、町に下りて無邪気なこどもたちを小突いたし、おれの言うことを聞けば生かしといてやる! なあんて、偉そうなことを言ってさ、お金を出してもらったりした。

 あとはさ、露店で売ってる不味そうな果物とかソーセージとかあるじゃないか。あれなんかをよく盗んだりしたよ。ぼくの家族がお店の人と話しているうちにさ、多いときには、なんと十個近くも、獲物をお腹のなかに入れたりしたんだ。

 もちろん何度も失敗して、何度もお店の人に殴られたよ。ドロボーさんは腫れ上がったぼくたちの顔を見て、怒ってくれた。で、ぼくらの復讐を手伝ってくれたりもした。


 ぼくたちはいつの間にか、どこに出しても恥ずかしくない、立派なドロボーさんになっていた。

 外に出ると、ぼくらはいつも二人で行動した。お互いを助け合った。でも、もちろんそれは外にいる間だけさ。ドロボーさんのおうちに戻ると、やっぱりぼくたちはお互いを罵り合うんだ。ぼくの家族を思いっきりぶん殴るんだ。


 ぼくの家族もぼくを殴った。ぼくを罵った。風船みたいに膨れ上がったぼくの家族のちいさなからだがうさぎみたいにぴょんぴょん跳ね回って、野イーヌみたいにぐるぐる回って、ぼくのほっぺたをびしゃりと叩く。

 ぼくもまた、ぼくの家族のまわりをぐるぐる回りながら、僕の家族の首をぎゅっと絞めあげる。ぼくの家族はげえげえ空気を吐いて、ぼくの顔を爪でがりがり引っかいて、髪をぶちぶち引っこ抜く。


 あっはっは。でも、やっぱり、ぼくたちはとっても仲良しなんだよ。


「ぼうやたち。今日はその辺でいいよ」


 という声が上から聞こえたらさ、ぼくたち二人はぴたりと暴力をやめ、お互いを抱きしめ合うんだ。ごめんね、ごめんねってとだれにも聞こえない声でささやき合うんだ。暖炉の前にふたり肩を寄せ合ってさ、ドロボーさんのやさしい言葉にうっとり耳を傾けるんだ。


 夜が深まれば、ドロボーさんが自分の顔を掻き毟り、


 ウ・ウ・ウ・ウ


 ってうめいているその声を、星空を眺めるように聞きながら、かび臭い藁のなかで眠りにつく。そんな夢のような毎日。それがぼくたちの新しい歩みだった。

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