複雑な呪文 3

 土のついた手で汚してしまわないように、力を入れて握ってしまわないように、細心の注意を払って人形を腕に抱えると、アレックは移動の魔法を使ってひとっ飛びに家へと帰った。今までの疲れなんて一気に吹き飛んでしまうほど、人形が見つかったことが、シルマ王女が見つかったことが嬉しかった。

 人形は、確かにアレックがよく知るグライフィーズの魔法がかけられていることはわかるものの、それ自体が実は本物の人間だということ、まして一国の王女であることなんて微塵みじんも感じさせない姿だった。日だまりのような明るい黄土色の柔らかい毛糸の髪に、布製の丸い顔。二つの青いガラス玉が目となっていて、鼻はなく、口は刺繍でにっこりと笑みを浮かべている。汚れきった姿ではあっても、その形は実に可愛らしいものだった。とてもじゃないが、あの魔法使いが呪いをかけた姿だとは思えなかった。

 その正体がシルマ王女だと知っている以上、アレックなら他の人にはわからない王女の言葉や感情がわかるはずだった。それなのに、何も聞こえてこないのはどういうことだろう。

「……シルマ様?」

 急に不安になったアレックは、家に入るとおそるおそる人形に声をかけてみた。

 腕に抱えた人形はただくたりとしているだけで、アレックの声に何も返してはこない。そのガラス玉に反射した自分の顔があまりにひどいものだと気づいて、そっとソファーの上に人形を置いた。

 子どもたちは学校へ行っているし、フローナには昨日頼んだ使いがある。閑散としたリビングで、緊張のあまりアレックの心臓は大きく脈打っていた。

 手を洗って、改めて人形を見下ろす。

 どうして反応がないんだ。警戒しているのか。

 それにしても何ひとつ彼女の意識が感じ取れないのは妙だった。呪いを解けばわかることだったが、最悪の事態を想像するのも怖かった。

 この呪いの魔力は強すぎる。他に何かかけられているのかもしれない。少なくとも一つ別の魔法が絡んでいるのにアレックは今になって気づいた。これについてはグライフィーズに関係ないような気もするが、これもまた呪いを解くのに邪魔になるのは確かだった。

 もう一度その名前を呼んでみても、やっぱり返事はない。考えあぐね、元の姿に戻してみなければわからないと決心して、客間からブランケットを持ってくる。ソファーごと、人形の上にそれを広げて覆うと、アレックはじっと見つめて呪いに集中した。反発する力を無理やり抑えこんで、本来の姿に戻るよう力を込めてこぶしを握る。

 長く息を吐いて力を抜くと、ブランケットがふわりと膨らんで、ソファーの端から長く柔らかな髪が流れるように落ちた。

 心臓がどうかなりそうだった。こんなに緊張したのは初めてかもしれない。

 ソファーに横たわる彼女の足元の方から、水色の裾が見えることを確認すると、アレックは震える指先で顔の辺りのブランケットをそっと避けてみた。

 ゆったりと波打つ髪の合間から見える白い顔に、はっと息をのむ。長い睫毛まつげに、血色の良い唇。あまりにもきれいな顔をしていて、一瞬また別の人形が現れたのかと見紛うくらいだった。

 その顔は、まさしくクアラーク国の王女、シルマ・クォールティーそのものだった。

「——シルマ王女」

 おそるおそる声をかけてみる。反応はなかった。呼吸をしているのかすらアレックにはわからない。

「シルマ様」

 思い切って肩を小さく揺すってみても、閉じたまぶたは動かない。

 息をしているか確かめるのに膝をついたところで、彼女の閉じた目から涙がひとつこぼれ落ちたことにアレックは気づいた。

 シルマ……?

 声にならない声で問いかけると、さらに涙がもう一つ。どうやら彼女は眠りながら無意識に泣いているようだった。

 アレックはそっとその涙を拭うと、立ち上がってソファーに背を向けた。

 無事なことに心の底からほっとして、今までシルマ王女に感じていた不愉快なんてどうでもよくなっていた。嫌味も言われず、こんな近い距離に彼女がいるなんて、どう信じられたものだろう。きっと目を覚ましたら、また元通りなのはわかっている。どうして彼女が自分を嫌うのかはいまだにわからないが、自分のせいでどれだけ怖い目に合ったのか、それを考えたらもう甘んじて嫌味でも何でも受け入れるしかないとアレックは思った。生きていてくれただけで十分だった。

 一息つこうと、お湯を沸かしにかまどへ向かったその時、後ろで衣擦きぬずれの音がしてはっとソファーに顔を向ける。

 半身を起こしたシルマ王女が手の甲で涙をぬぐっていて、それからこちらを凝視した。目が合って、途端にその青い瞳が睨みつけるような形に変わる。

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