7-4 乾杯

 阿部は雁屋と直戸を誘って有楽街の居酒屋で打ち上げを行った。

「取り敢えず、事件解決に乾杯!」

「乾杯!」

「しかし雁屋さん、一応湖の事件の犯人は分かったが、正直どこか腑に落ちない気持ちじゃないのかな?」

 阿部が雁屋にビールをつぎながらきいた。

「まあな。だけんが、犯人突き止めて逮捕するまでが刑事の仕事だもんで、それ以上の深追いは禁物だに」

「だけど阿部さんにはしこりの残った事件だったろう。B県の北田知事は結局無傷でのうのうと政治家に収まっているが、放っておくつもりか?」

 直戸の問いにビールで顔を赤らめた阿部がこたえる。

「もちろんいつか首根っこを掴むつもりだ。しかし外濠を埋めていかなければ返り討ちに遭う。闇雲に拳を振り回すようなことはしないさ」

「そうか、二人共健闘を祈る。私は当分ヴァイオリンの鑑定に専念するよ」


 その後、雁屋は再び捜査一課に戻ってきた。村下や佐伯を殺害した犯人を突き止めただけでなく、阿部に協力して影山徳治逮捕に結びついたことも評価されたのだった。雁屋が久々に古巣に戻ってデスクの整理をしていると、突然携帯が鳴り出した。生活環境課の阿部からだった。

「もしもし」

「そこ、テレビついてるか?」

「いや、つけてないだが、何かあったんけ?」

「先を越されたよ……特刑に」

「特刑? 連中がやりたいようにさせというわけにはいかないのか」

「悪いがくだらん駄洒落に付き合う気分じゃない。ともかくニュースを見てもらえればわかる」

 雁屋は携帯を置いて、刑事部屋のテレビのスイッチを入れ、ニュースのチャンネルに合わせた。

──それでは次のニュースをお知らせします──

 次の瞬間、雁屋は目を丸くした。


      †


 石角秀俊がふと目を上げると、街頭ビジョンのニュースが目に入った。


──B地検特別刑事部は、北田隆二B県知事の強制捜査に入りました。B地検によれば、北田知事は政治資金を私的流用していた疑いがあり、捜査に踏み切ったとのことです。なお、強制捜査を前にして、当知事秘書の津田泰男が自宅で首つり自殺を遂げており、私的流用事件との関連についても捜査中とのことです──


 石角は画面に表示された津田泰男の顔写真を見て眉をひそめた。そこに写っているのは、長年の宿敵パインこと松田泰造だったからだ。

(……射殺されたんじゃなかったのか、それとも他人の空似か?)

 この報道は松田泰造の死の真相に波紋を投じるものに違いなかったが、石角はそれ以上関心を寄せなかった。

 息子の晃弘が亡くなって以来、石角は松田泰造の寝首をかくことばかり考え、心血を注いできた。しかし、今はあれほど執着していた仇のことさえどうでも良くなっていた。

 

 石角が帰宅して郵便受けを開けると、一通の手紙が届いていた。差出人は中原花菜となっていた。松田から中原に姓が戻ったのである。石角は丁寧に封を切った。封筒を開くと微かに花菜の香りが漂った気がした。便箋を開くと達筆な美しい文字でこのように書いてあった。



拝啓

 爽秋の候、小春日和のおだやかな日々がつづいております。

 秀俊さん、その後もお変わりなくお過ごしでしょうか。

 私は実家に帰ってから両親に松田の暴力のことなど家庭の事情を全て話しました。最初は別れずに済む方法はないか、と両親から言われましたが、もはや限界だと訴えたところ、「わかった。こちらのことは何とかするから、花菜にとって最善の道を選びなさい」と言ってくれました。結果的に松田は亡くなり、影山の家も傾きましたが、父の会社の方は業績改善が見込まれて銀行からも融資を受けられることになり、まさに諍い果てての契りです。

 秀俊さん、あなたは私にとって憧れの存在であり、慕わしい心の拠り所でした。でも、私は元夫の暴力で身も心も傷だらけになって、その痛みを癒したい一心で秀俊さんに寄り添っていたのではないかとも思ったのです。あの頃の私は秀俊さんの優しさに甘えるだけの浅ましい女でした。

 今になっても夫婦生活で受けた傷が癒えず、時々夢にも出てうなされることさえあります。そんな時、秀俊さんの優しさに甘えたいと思ったことは幾度もありました。でもそれではいけない、ちゃんと一人立ちして自分の心に向き合わないと。そしてまたいつかどこかで秀俊さんにお会いする時、全てを乗り越えて明るい気持ちでもう一度出会いたいと思うのです。

 それまで祐也と一緒に頑張って日々生活していきたいと思います。秀俊さんの前に立った時に恥ずかしくない自分自身でありたいと願うばかりです。

 末筆ながら一層のご自愛のほどよろしくお願い申し上げます。 かしこ

 中原花菜



 読み終わった手紙を机の上に置いて、石角は畳の上に寝そべった。すると花菜のことが頭に浮かんできた。花菜……はじめは復讐のために近づいた筈が、いつのまにか心の中にいて、……そして去った。石角は埋めようのない心の空白を、ただあるがままに受け止めた。

 と、その時「パパ、サッカーしよう!」という声が聞こえた。

「晃弘!?」

 石角は跳ね起きて辺りを見回した。しかし部屋の中には誰の姿も見当たらなかった。そして、部屋の隅に転がっていたサッカーボールが目に入った。

「久々に……外に出てみるか?」

 言葉をかけられたボールが喜んでいるように見えた。そして晃弘も……きっと喜んでいるに違いない。そう思いながら石角はボールを抱えて家を出た。外に出ると容姿なく降りかかる陽射しに、石角は手をかざして目を細めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る