5-4 静岡


 二日後、静岡駅のコンコースに降り立った喜一は「天草ぁー」と自分を呼ぶ声に最初のうちは気がつかなかった。

「ちょっと、天草ってば!」

 何度も呼ばれてやっとそれが自分のことだと気がつき、振り向いてみると恋空が手を振っていた。

「ああごめん、何だか自分の本当の名前が未だにピンと来ていなくて……」

「そうよね。それに私も天草って呼び捨てにしないって穂香さんに約束したんだった。でも慣れるまでは今まで通りでいいかな」

「どっちみち今まで通りがわからないんで、好きなようにして」

「わかった、好きにする」

 どこかホッとしたような恋空に、喜一はフォローする。

「穂香さんてさ、何だか恋空さんにはムキになって突っかかるところがあるみたいだけど、普段はあんな子じゃないんだ。ちょっと気の強いところはあるけど、根は優しい子だからそこはわかってあげて」

 喜一がそう言うと恋空はプッと吹き出した。

「どうしたの?」

「どうしたって、ははは。天草……君、変わってないよね。わかってないのは天草君よ」

「どういうことだよ」

「さあ? そういうことは自分でお気づきなさい」

「何かイラッとするな。穂香さんの気持ちが一瞬わかる気がした」

「ふふ、女心の理解なんて百年早いわ」

 喜一の不可解な顔つきも意に介さず、恋空は駅構内から出た。

「さて、ここからは高校生の足なら歩いて行けないこともないけど、バスで行った方が無難ね。いや、三人ならタクシーでも料金に大差ないか」

「三人? 僕たち二人しかいないよ」

 すると恋空は後ろを振り向き、大声で言った。

「そろそろ出て来たら? いるのは分かってるんだから」

 喜一が不思議そうに振り向くと、物陰から見慣れた制服姿の女子高生があらわれた。

「穂香さん! どうして?」

 穂香は恥ずかしそうに顔を赤らめて言った。

「……来ちゃった」

「来ちゃったって、安っぽいドラマの台詞じゃないんだから! まあいいわ。こうなったらみんなで行くしかないわね」

 そうして三人はタクシーに乗り、あんと高校へと向かった。三人も乗ったというのに何故か全員後部座席に座り、喜一を挟んで左右に恋空と穂香が座った。そのことに三人共、妙な平等感を感じていた。

 まもなくタクシーは釈弓高校に到着し、三人が車を降りると、生徒たちのワイワイ騒ぐ声が聞こえて来た。

「恋空さんだって今日は授業の日だったんじゃないの、私にあんな偉そうなこと言っておきながら」

「私は昨日ちゃんと先生たちに断わっておいたのよ。天草……君を連れてくるからってね」

「あらそう」

 雁屋刑事なら「争うな」と言いそうだ、と喜一は思いながら二人の女子より一歩後をついて行き、職員室に入った。すると一人の教師らしき男性が歩み寄り、喜一の肩を叩いて言った。

「天草ぁ、聞いたよ。色々大変だったんだってなぁ」

 大変という単語に喜一はピンと来なかった。記憶を失うことは世間ではそんなに大変なことなのだろうか。

「あの、もしかして担任の岡部先生ですか?」

「そうだよ、思い出してくれたのか?」

「すみません、思い出したわけじゃないんです。ただ、こういう時真っ先に声をかけるのは担任の先生かなと思って」

「ああそうか」

 岡部はバツが悪そうに頭をかいた。

「岡部先生、僕たちがいなくなった時の状況を教えていただけますか?」

 すると岡部は遠くを見つめるように語り出した。

「あの日は月曜日だったな。週が明け早々、朝出勤すると君のいた施設から電話がかかってきた。天草君が失踪していると。それで私はそのことをどのようにクラスの生徒たちに伝えたらいいか考えていたのだが、その日二年B組の授業を受けもった先生方から五人の生徒が欠席していると知らせてきた。それが天草の他のメンバーが匠、宮地、田辺、新田と聞いて私は嫌な予感がしたんだ」

「どうしてそのメンバーだと嫌な予感がするんです?」

「それは……」

 岡部が口を噤むと恋空がキッとなった。

「先生、はっきり言って下さい! 新田は匠たちにイジメられていたって」

「イジメ? もしかして僕も新田という生徒をイジメていたんですか?」

「いや、天草はどちらかと言えば匠たちをたしなめていた。新田に対しても『言いなりにならないで、嫌ならちゃんと言い返せよ』などと忠告していたと聞く。ともかくこのメンバーの名前を聞いてあの事件を思い出して身ぶるいがしたんだ」

「何かあったんですか?」

 またもや岡部が言いにくそうに口を噤んだので、恋空が代わりに答えた。

「新田はホラー系の話が大の苦手でね、それを面白がった匠たちがわざと怖い話を聞かせて揶揄ってたりしてたんだけど、そのうちそれがエスカレートして肝試しみたいなことをやり出したの。ある時、明治トンネルに新田を連れてって置き去りにしたことがあったの。そうしたら、新田が恐怖のあまり気を失ってしまって、翌朝、高熱でひどい状態で倒れているところを通りがかりの人に発見されて、教育委員会は出て来るわ新聞は嗅ぎつけるわの大問題となったの。新田はそれから不登校になった。匠たちも謹慎処分で新田に謝罪もして流石に反省したみたいだけど……今回の失踪もまたあの時みたいなことがあったんじゃないかってみんなで思ったの」

「その新田の不登校と僕たちの失踪と、何か関係あるんですか、先生?」

「いや、直接関係はない。新田のご両親に連絡したところ、また引きこもりが再発したとのことだった。その前の金曜日、学校から帰ってから引きこもりが始まったということだから夕方まで在宅が確認されていた匠たちの失踪とは無関係だと分かった」

「ちなみに新田が不登校から立ち直ってからは匠たちのイジメはなかったんですか?」

「……新田にも直接そのことを聞いてみたよ。だけど『大丈夫です』とだけ言っていたから、私はその言葉を信じた」

 岡部は伏目がちに小さな声でそう答えた。多分自信がなかったのだろう。喜一は岡部の事勿ことなかれ主義的な姿勢が気に入らなかったが、今責めたところで何も始まらないと思い、岡部へのインタビューを切り上げようと思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る