5-2 アマクサとレイラ
歩夢は楽器博物館にヴィオラ・ダ・モーレを届けた後、浜松駅の自販機で缶コーヒーを買い、ベンチに座って飲んだ。
(何だか洒落たカフェでお茶するよりも、こっちの方が落ち着くんだよな。お金もかからないし。記憶を失う前の僕もそうだったのかな)
こういう時、歩夢は記憶を失う以前の自分はどんな人だったのだろうかと、まるで生き別れの家族のように思いを馳せるのであった。そして缶コーヒーを飲み干して立ち上がろうとした時、少し離れたところから見知らぬ女子高生がこちらをじっと見ているのに気がついた。
(誰だ? あいつ)
そして空き缶を専用のゴミ箱にしてると、その女子高生がツカツカと近寄ってきた。
「アマクサ……アマクサだよね? いったい何してたの? みんな心配してたわよ」
「アマクサって……君は一体誰なの?」
「何言ってるのよ、レイラよ。エリクレイラ」
「……クラプトン?」
すると女子高生は深くため息をついた。
「アマクサ、初めて会った時もそう言ってたわね。何、それ。ギャグのつもり?」
「ええとね、ちょっと説明した方がいいかもしれないな。僕は少し前にトラックにはねられて、記憶喪失になっているらしいんだ。自分がどこの誰だか思い出せない。君はアマクサって僕を呼んだけど、それが僕の名前なの?」
「本当に思い出せないの? クラスの子たちのこととかも?」
「うん」
「そうか……。君の名前はね、アマクサキイチっていうの。漢字で書くとこうよ」
レイラと名乗る少女は紙に「天草喜一」と書いた。
「
今度は「江梨久恋空」と書いた。
「へえ、恋に空で『レイラ』と読むのか。素敵な名前だね」
「え? ふふふ」
「どうしたの? 笑い出したりして」
「だって、初対面の時も同じこと言ったんだもん。記憶はなくてもやっぱり天草は天草なんだね」
「その天草喜一って、どんな人だったの? って変な質問の仕方だけど」
「うーん、ひとことで言うと普通ね。むっちゃいい奴でもないけど特別悪くもない。本当に『これが普通です』の見本みたいな」
「なんか少しいけてないなぁ……まあいいや。ところで
「うん、二時間後の電車で静岡に帰ろうと思ってるから。あ、私たち静岡市民なのよ。静岡の安東高校二年生」
「そうか。電車が出るまでの間、僕が居候している家に寄ってもらえないかな。僕の記憶が戻るように色々力を尽くしてくれているので。恋空さんから僕の過去について話して欲しいんだ」
「うん、わかった」
歩夢……もとい、天草喜一は彼女を綾小路家へと案内した。家には穂香がいたが、恋空を見るなり鋭い視線を投げかけてきた。
「誰? そのかわいい子……」
「ああ、僕の同級生の……と彼女が言ってるんだけど、さんだよ」
「はじめまして、天草の同級生の江梨久恋空です」
「天草?」
穂香が訝しげな顔をしたので、恋空が説明した。
「そうか、本当の名前をまだ知らなかったのね。この人はね、天草喜一っていうの。天の草に喜ぶの喜に数字の一よ。それにしてもねぇ、ふうん……」
「何よ」
「天草、こんなきれいな女の子と一つ屋根の下暮らしていたんだ。へええ」
「だから何?」
何となく恋空と穂香の間が険悪になりそうな様子を見て喜一は間に割り入るように言った。
「ちょっと二人共、もう少し穏やかに話そうよ。とにかく穂香さんや直戸さんに僕の過去について話してもらいたいと思って恋空さんに来てもらったんだ」
「そうだったの。でもお父さん、今ちょっと出かけていて……」
そう言っている間に直戸が帰って来た。
「お父さん、ちょうど良かった。歩夢君の同級生って子が来ていて、歩夢君の過去について話してくれるって」
「ほう、同級生か……道下君、過去の話なんて聞いても大丈夫かね? 内容によってはフラッシュバックでショック症状を起こしかねない。一応島田先生に付き添ってもらった方がよくないか?」
「そうですね……」
ところが恋空はトラウマなど歯牙にもかけない様子だ。
「心配しないで、さっきも言ったけど天草って絵に描いたような普通の人だから、これと言って恥ずかしい話はないわよ。逆にこれと言った武勇伝もないけど……」
その言葉に喜一は少なからず失望した。むしろ恥ずかしい話が混ざってもいいから武勇伝の一つや二つは欲しいと、この年頃の男子は思うものだ。
「そうか。では恋空さんと言ったかな、道下君……いや、天草喜一君の過去について知っていることを話してくれたまえ」
「はい、わかりました」
恋空は直戸に促されて天草喜一のことを語り始めた。
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