4-8 悪夢からの目覚め

 韓国・大田テジョン……

 裏通りの怪しげな両替屋の立ち並ぶ一角に、미술품ミスルプム 감정カムジョン(美術品鑑定)と書かれた看板が見える。石角秀俊はその看板の下をくぐり、薄暗い店舗の中へ入って行った。店の奥では店主と思しき老人が、客に目もくれずに机の前で何やら祈りの言葉を唱えていた。埃っぽい店内で、その机の上だけがきれいに磨かれている。

 石角はその祈りを遮るように、大きな封筒を店主の前にポンと置いた。

「……これの鑑定を頼む。やり方は聞いてるだろ?」

 店主は無愛想に石角を見上げた。

「〝パイン〟の依頼だな。本物と偽物、二通りの鑑定結果を出せとは、まったくバカにしてやがる」

 店主は流暢だが訛りの強い日本語を話しながら封筒の中身を確認した。「北斎の武州千住むさしせんじゅ。……本物に間違いない」

「一眼見ただけでわかるのか」

「ああ、しかも状態がいい。これはなかなかの上物だぞ」

「欲しかったら、あんたに買い取ってもらってもいいだがな」

「バカ言うな。そんな金があればパインの言いなりになどならん」

「だろうな……しかしあんた、こんな依頼受けるとは、パインにどんな弱みを握られてるんだ?」

「ふん。あんたもどうせ同類なんだろ」

 店主は不機嫌を隠そうともせず、仕事に取り組んだ。そして石角は出来上がった二つの異なった鑑定書を素早くバッグに仕舞うと、大田駅まで歩き、そこから電車でソウルに向かった。


      †


 吉村と別れた雁屋はしみじみと呟いた。

「しかし、松田祐也君の父親がパインだったとは、やっ縁だに」

 直戸は駄洒落を適当にスルーしながら、相づちを打った。

「そうだな。……しかしそうなると、松田花菜の身辺も探る必要がありそうだ。石角はきっと何か考えがあって花菜に近づいている」

「松田家も警官張り付かせるだに」


      †


 石角秀俊が帰国したのはそれから数日後のことだった。その翌朝、雁屋は部下からその報せを受けた。もしかしたら行方をくらますかも知れないと危惧していた直戸や雁屋は、石角のあっけない帰還にいささか拍子抜けした。が、同時に今にも何かをやらかしそうな石角からますます目を離せなくなった。


 一方、石角の方も帰国以来、四方八方かや見張られていることに気がついていた。それで花菜との接触も慎重に行なった。

「花菜さん、僕たちは見張られています。だから出来るだけにこやかに、世間話をしているように振舞って下さいね」

「こんなグラウンドで話していて大丈夫ですか? 場所を変えた方がいいのでは?」

「いえ。密室で話していたらかえって怪しまれます。敢えて彼らの目の届くところで話していた方が安全なんです」

「そうですか、私、秀俊さんを信じます」

 花菜はそう言って笑顔を向けた。秀俊にはそれがとても眩しく思えた。

「ところで、決行の日なんですが、ご都合の良い日はありますか?」

「そうですね……夫は仕事で帰らない日もありますが、毎週水曜日はゴルフのレッスンがありまして、その日だけは必ず帰ってきます」

「それでは今度の水曜日に決行しましょう。僕は行動を見張られているので、お水の方はドア・ツー・ドアで宅配便に運ばせ、僕もそれに紛れて花菜さんのお家に入り、洗面所に隠れて待機します。あとはご主人が帰ってきて手を洗うのを待つだけですだけです」

「わかりました。きっとうまくいきますよ!」



 そしていよいよ水曜日。石角は出かける前に窓から見張りの人間がいることを確認した。そして家を出ると、わざと見張りの側をゆっくりと歩いた。ちゃんと尾行されているのを確認しながら浜松駅行きのバスに乗った。追っ手と思しき男も一緒に乗ってきた。

(尾行は一人か……これなら簡単にまけそうだ)

 石角は駅に着くと入場券で新幹線ホームに入り、東京行きの電車に乗った。追っ手が同じ車両に乗り込み、席に着いたのを確認すると石角は入口に近い席へと移動した。そして発車ベルが鳴り、それが止んだ時、石角は即座に席を立ち、電車から降りた。追っ手も慌てて石角の後に続こうと思ったが、その頃には電車が動き出していた。

(次の停車駅は新横浜か。これでかなり時間が稼げるな)

 石角はバッグから帽子とサングラスを取り出してそれを着け、ゆったりと駅から出た。そして、宅配便の配送センターに向かった。


 石角を載せた配送車が松田家に近づいた。石角は宅配便の制服を着用していたので、一見業者のように見える。到着後、石角は降りる前に二万円のチップを運転手に渡した。

「荷物は僕が運びます。僕が家の中に入ったら、すぐに車を走らせて下さい」

「わかりました」

 石角は車の荷物室から大きなポリタンクを取り出すと、それを持って松田家の玄関まで歩き、インターホンを鳴らした。


「はい」

「宅配便です。判子お願いします」


 花菜は玄関に駆け寄り、ドアを開けた。そして石角は家の中に入った。


      †


「ただいま……」

 泰造が帰ってきた。当然のことながら普段と何も変わらない。花菜も「おかえり」と言って出来るだけ普段通りに振舞った。

「ごはんにしますか? それとも……」

「飯は食ってきた。とりあえず手を洗ってくる」

「ええ……」

 あまりにも順調に行き過ぎて昂りそうになる気持ちを花菜は押さえつけ、努めて冷静にいつもの弱々しさを演じた。

(もうすぐよ、長年の悪夢から目を覚ます時が、もうすぐ訪れるのよ……)

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