30.コードルモールの惨事(3)

 ぞろぞろと場内を離れていく人の群れ、それは風に吹かれた木の葉のように蠢いて見えた。ルクス競馬場から場外に出る唯一のゲートにも整然と人波が流れ込んでいく。いままさにテロリズムの被害にあっているとは思えないほど。

 ――気味が悪い。

 と孝太郎が思うのも無理がなかった。銃声を打ち鳴らし威圧的に自己の主張を進める彼らテロリストに対し、人々は完全に無関心といえる。命の危機がそこにあるにも関わらずまったく意に介していない。まるで幼い子供が包丁を見つめているかのようで、つまりそれほど、危うく思えた。

 イングリットが口元を抑えて言う。


「はやく進まないですかねー? 人が多すぎて息しづらいんですけど」

「……どういうことだ?」

「あれですよ、二酸化炭素濃度が上がってて酸素が取り込めてないってことです」


 彼女は景気よく指を振って口の中に入れる仕草をした。


「ちがう」

「あれ? ああ、確かに気分的な問題かもしれませんけど、私的には……」

「その敬語はなんだ」


 孝太郎は様子のおかしいお姫様に頬をかく。さっきまでの勝気な様子は息を潜めて、いまはしおらしく、まるで普通の少女のようだ。


「なんだかゾワゾワして、気持ち悪いぞ」

「……まぁ、お気になさらないでください」

「えぇ……。なんだその反応。おまえらしくない」

「前にも言いましたけど」


 突然、イングリットが立ち止まり孝太郎を横目にキッと睨んだ。後ろに歩いていた数人が迷惑そうな顔をこちらに向けて横を通り抜けていく。


「たった数時間程度の交わりで人を知った気にならないでください」

「……そうだな」


 ――中身が変わったわけじゃない、と。

 とにかく、何やら心情の変化があったらしい。


「よし、歩くぞ」


 孝太郎はイングリットの肩を押した。


「ちょっと! 気安く触れないでください。ロリコンがうつる」

「おまえまだそんな風に思ってたのか……」


 二人、そうして出口に歩いていた。もうすぐそこに空が見える。

 夕方を越えて、この色は黄昏の色だろう。遠く赤く燃えている空と、それに続くように紫に引き伸ばされた空が見える。外から流れ込んだ涼やかな風が髪をくすぐってくる。

 孝太郎はふと体をこすった。イングリットを見ると薄着とはいえないが暖かいともいえない格好で、彼は彼女に提案することにした。

 ――服を買う金くらいあるだろ。

 イングリットは競馬で持ち金を全て溶かしたと言っていた。何とも愚かしいが、彼がここに来た時点で全て使い切るつもりだったらしい。

 なんにせよ主人に風邪をひかせるわけにいかない。孝太郎はその懐の厚さに触れつつ彼女を見た。

 その時だった。



――エアデゼーゲン



「えっ!?」


 イングリットが短く声を上げ、孝太郎はすでに彼女を抱きかかえようと腕を伸ばしていた。


「っ前か!!」


 孝太郎の目前、前を歩く人が崩れるように倒れこんできたのをイングリットを引き寄せた勢いで避ける。

 そして紅い液体が彼の視界の半分を塗りつぶした。


「ひっ」


 悲鳴はイングリットが上げた。少し震えていた。

 彼女がその瞳に捉えているのは、出口だ。

 そこは地面が壁となり、空を千切っていた。

 その土と人工の天井の狭間に、人であった肉塊が見える。秒と経たずに盛り上がった土塊つちくれに、巻き込まれた人の残骸が見える。今もそこからゆったりと垂れ下がる片腕が、土壁を滴り落ちる血液とともに彼か彼女の結末を暴力的に教えてくれる。きっと何を思う間もなく死んだであろう。


 ――運がいい。


「キャアアアアアアアア!!」

「た、たすけてくれぇええ!」


 誰かの叫び声が聞こえる。その中にいて死体である彼らは恐れを知れず逝けたのだ。それはきっと、救いだろう。


「ちょ、ぼさっとしてないで!」

「いたっ」


 イングリットが孝太郎の頭を叩いた。彼の衣服を引きちぎる勢いで強く引っ張ると、元来た道を戻ろうと足を動かしている。彼はそんな彼女の肩を抱くようにして守っている。彼女もおとなしくそれを許した。

 整然と流れていた人波はいまや完全に濁流と化した。押し合いへし合い、力任せに誰もが競馬場内へとなだれ込もうとしている。

 この流れに従うのは危険だが、従わないのはそれより遥かに愚かな選択である。二人も全身にぶつけられながら、逆にぶつかりながら、奥へ奥へと舞い戻るほかなかった。

 イングリットが息を切らしながら言う。


「はぁ、はぁ、っ! いったぁ! ちっ、やっばい。――絶対これあいつらじゃないっ!」

「反魔人派のせいじゃないって?」

「そうよ!」


 イングリットの唾が孝太郎の顔を濡らした。噛みつかんばかりに続ける。


「あいつらなら絶対にこんな真似しないし! それにあの呪文!」

「エアデゼーゲン、だったか」

「そうそれ! そんなの、私知らない!」


 必死な顔で言われ、孝太郎は眉をしかめた。


「それが、何かまずいのか?」


 イングリットは一瞬逡巡した。真剣に、言いづらそうに口を開く。


「……私、これでも魔法に自信があるのよ。古今、世界中のの魔法を知ってるつもり」


 孝太郎の背筋に冷たいものが流れた。やけに『人間』の部分を強調するではないか。


「まさか」

「知ってる? とにかく血が欲しいって魔人のグループもいるのよ」

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世界平和はムリなので、世界統一しましょうっ! 幸 石木 @miyuki-sekiboku

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