告解 ~鱗の生えた処女の殺人告白~

砂漠のP

第1話

――あら。すみません、私、眠ってしまって。

 だって、誰かに手紙を書くのって、初めてなもので……。こうして紙を前にすると、何を書けばいいのか、何て書けばいいのか、頭が真っ白になって何も浮かんでこないんです。……私、こんなに穏やかな気持ちになったことがありません。かつて、浅ましい言葉と卑しい媚態を繰り返したのが嘘のよう。あの人はいつだって、私を変えてくれるんです。

 ええ、手紙はあの人に書きます。他に書くべき人なんかいません。必要ありません。あの人がいるから。だから本当は、こんな手紙いらないんです。あの人が私を変えてくれたように、私もあの人を救ってあげた。だからこうして離れていて私達、お互いがお互いの一部なんです。……こんなに幸せなことがありますか。世の中にはたくさんの男女がいるけど、人と人とがこれ以上に通じ合うなんてことないじゃないですか。だから本当は、私たちの間にはもう何の言葉も確認もいらないんです。夜空の月がどれだけ満ち欠けしても正体は一つの丸であるように、私達には何の欠けたところも隙間もないんです。

 ……でも、そうですね。あの人に宛てたこの手紙を、もしかしたら別の誰かが読むかもしれない。今ではないいつか、私とあの人の愛を信じられない誰かがこの手紙を探し当てるかもしれない。私は、こんなにも完璧な愛がこの世界に存在するという事を理解できないその人に、親愛と誠意をもって語りかけるために。あの人に宛てるこの手紙に、私とあの人の間に起こった出来事の全てを書き留め、確認しようと思います。だからこの手紙は、過去現在未来、私達に向けられる全ての無理解への抗議であり、そうすること自体、私があの人に向けられる永遠の愛の宣誓なのです。その場合においてのみ私は、手紙を書くことにやぶさかではありません。

 それでもよろしいですか?――ええ、ではお話ししましょう。

 信じ難い話かもしれません。恐ろしい話かもしれません。それでもどうか、最後までお付き合いください。これこそが、私とあの人が直面した、世にも不思議で忌まわしい愛の試練の話なのですから。


 それでは、どこからお話ししましょうか――。


 ――あの日、私は夜中の鈍行で東京駅にたどり着きました。女優になりたかったのです。私は北の港町に生まれました。そこは田舎特有の必要以上の大らかさと、秘密に対する過剰なまでの開示主義の根付いた土地で、私はそれをひどく嫌っていました。そこでは、男はみな開襟から男性的欲求を覗かせ、局部よりもふしだらな顔をしていました。女は魚と赤子と体液とを同じ手でまさぐり、消えない臭いを隠すために宝石を欲しがっていました。私はそんな田舎を見限り、テレビの中に見る俳優の、はだけた裸体の隅々にさえ謎を隠し持つに秘密主義に憧れたのです。

 やっとたどり着いた東京は、雨が降っておりました。無数のタイヤが濡れたアスファルトを掻き毟って、街路灯の赤い光は、見てはいけないものを曝け出すかのように雨粒を映し出していました。私はその足でじゃりつく地下鉄環状線に乗り込み、池袋の裏通りの一番安そうなネットカフェで宿を求めました。私はそこの個室で、温めていた壮大な計画をスタートさせたのです。やるべき事ははっきりしていました、私に欠けていたのは何よりもまず情報です。私は昼は都心部でスカウトやテレビ中継を探し、夜はインターネットから私という人間を発信し続けました。私の活動は昼夜を問わず、私は東京中の芸能広告を網羅しました。中でも私が注意したのが、オーディションの有無です。オーディションだけは、何としても回避しなければなりません。都会にはそれこそ、女優になるための投資を続けた人間がごまんといるのは想像に難くありませんから。そんな人々と北の港町出の私が比較され、勝るところが何か一つでもあるでしょうか。私はあくまで、何にも比較されない私自身の可能性によって見出されなければならなかったのです。

 ……2、3週間経って、私の活動は行き詰まりを見せたました。スカウトやテレビへの接触は思うような効果を上げられず、そうしたきっかけ無くしてはSNSでの自己発信も無意味でした。私はあるいは、自分の計画は間違っていたのではないかと思いはじめました。でも田舎上がりの儚い小娘に、これ以上にどんな手段が取れたでしょう。となると私の希望とも言えた夢は、実現不可能な世迷言だったのでしょうか。巣から落ちる雛鳥でさえ、地面に叩きつけられる間際には空を飛ぶ夢を見ます。私には、そんな夢すら許されないのでしょうか。私は絶望し、雨ふる夜の街に歩きだしました。


 その夜です。私が、1人の男から声をかけられたのは。顔は、今となってはよく思い出せません。男は、私をスカウトしたいと言いました。その時、私の心がどれほど踊ったか……。私はすぐに返事しました。男は私を寮という場所に連れて行きました。私に求められたのは住み込みでの撮影の手伝い兼、助演女優の役割でした。助演ではありましたが、それでもスカウトによって選ばれたことには意味がありました。現に初めて主演の女優を見たときも、私は少しの嫉妬も覚えることなく、その姿、立ち居振る舞い、演技を観察するのに集中できたんです。だって、私が彼女と比較できない何かを持っているという事は明らかなのですから。

 私は希望をもって、撮影に臨みました。寮には生活に必要な一切のものが揃っていたので、撮影期間中、私は一歩も外に出ることなく撮影の勉強と演技の研鑽に集中することができました。そしてスカウトの夜から一月後、撮影は終了しました。私は勤勉でよく気が回ったので、その頃には多くのスタッフの男性と親しく言葉を交わすようになっていました。だから撮影終了の夜、寮で開かれた打ち上げでも、多くの男性が私のグラスにお酒を注ぎに来たんです。その夜は私も気分が高揚していたので、人生初めてのお酒を、何杯も、何杯も頂いてしまいました。だからでしょうか、私はすぐに前後不覚になり、促されるままに隣の部屋に移動すると、そこで意識を失ってしまいました。心は、自分が夢への一歩を踏み出したという多幸感に満たされてーー。

 ――どれだけ時間が経ったでしょうか。私は、私ではない何者かが近くにいる気配に目を覚ましました。……いえ、目を覚ました、というのは適当ではありません。身体の自由は依然取り戻せず、私の上で蠢く何者かを払いのけることも、正体を確かめることもできませんでした。それは、私の服をはだけさせていました。指とも舌ともつかぬ『ぬめらか』な何かが私の胸の上を這っていて、その感触だけで私の正気は砕け散りそうで――ずっ……ずっ……と重く生温かい何かが私の身体と擦り合っていました。

 私は、私は恐ろしいものを目の当たりにする覚悟を決め、目を見開きました。――果たしてそこにあったのは、私の想像をゆうに超えたものでした。仰向けに寝そべった私の真上には、何度か言葉を交わしたことのある男性スタッフが、上裸になって覆いかぶさっていました。しかし私を本当に恐怖させたのはそのことではなく、いえ、その事自体も非常に深く生々しい爪痕を私の心に刻みはしたのですが――その男の裸になった胸元には、テカテカと反射する親指の爪ほどの欠片が生えていたのです。――それは、鱗でした。悪臭を発する、鱗でした。――私は人間にあるまじきおぞましいものを見ました。同時に、強い生理的嫌悪に突き動かされ、その男を突き飛ばしました。私は部屋を飛び出し、手当たり次第近くの扉を開けました。隣の部屋では何人もの男が裸になって、テーブルを囲んでヒソヒソ話するように向かい合っていました。私が部屋のドアを開けると、全員が睨みつけるようにこちらを見ました。その身体には……やはり、鱗が生えていたのです。生えている場所も、大きさも色も違いますが、その部屋は鱗の発する異臭に満たされていました。私は、最早この建物に人間はいないと確信し、着の身着のままでそこを飛び出しました


 ――その日、私は初めて、この世界には人間に巧妙に擬態した怪物達が存在することを知ったのです。私が迷い込んでしまったのは、怪物が無防備な獲物を誘き寄せ、罠にはめ、捉えるための狩場だったのです。そいつらの目的が何であるのかは分かりませんでした。私を食べようとしたのか、はたまた子供が虫の足をもぐように戯れようとしたのか。しかし間違いなく言えたのは、こうして人と人ならざるものの存在が分かった上は、私にはそれらを見分ける方法が必要だったということです。これは非常に困難です。だって一ヶ月もの間、同じ屋根の下に暮らしたあの男達でさえ、私は最後まで気付くことができなかったのです。あいつらの鱗はどうやら決まって傍目からは分からないところに生えるらしく、道行く人を一見して服の上から見分けるのはどう考えても不可能でした。


 私は東京のいたるところで人を見ました。上野の改札前で、桜木町の地下道で、渋谷の交差点で、冷たいアスファルトを素足に感じるまで立ち続け、通り過ぎる人間を凝視し続けました。その中の誰もが人間であるかのように思え、そして人間でないものかのようにも思えました。私は夢への架け橋を身勝手にも奪われたという絶望と、この東京中で人間が自分一人であるかのような疎外感を覚え、もう自分が真から通じ合える人などどこにでもいないのだと、ならばいっそ何にでも縋り付きたいような、そんな寒さに震えていたのです。

 私は来る日も来る日も、人間に出会えるのを待ち続けました。そんな私に、何故か男達が集まってきました。最初に声をかけてきたのは、上野の公園前の裕福そうなサラリーマンでした。その男性は優しそうな声で、私に泊まるところはあるのかと尋ねました。その温かさに触れ、私は遂に求めていた人に会えたのかもしれないと思ってその男性に着いていきました。しかし私に夕食を食べさせると男は急変しました。……その臍のあたりに、例の悪臭を放つ銀色の鱗が光っていたのは言うまでもありません。同じような事が、何度も、何度も起き、その度に私は裏切られたような思いで着の身着のまま逃げ出したのです。

 実を言うと私は最初から、男達の仕草と表情に隠し用のない下心を感じていました。彼らの顔面に、あの北の港町で見たような局部より正直な猥褻さを思いました。しかしそれでも、彼らのうち誰かの服の下が、もしかしたら恋焦がれた人間の素肌かもしれないと、その一縷の可能性に縋るのをやめられなかったのです。そうして私は、男達に付いていきました。いつしか私はより確実に、より効率的に、そしてより安全に男達の服の下を確認する術を身につけていました。私が服を脱がせた男の数は、数え切れないほどになっていきました。


 そんな時です、私の身体に異変が起こったのは。そして、私があの人にであったのは――。あの日、私は神楽坂のあたりで、いつものように道行く人々を見分けようとしていました。その頃私は、常に背中に引きつるような、痺れるような違和感を覚えていました。それが何かは分かりませんでしたが、夢を絶たれ、職も失った私に身体を気遣う余裕などありませんでした。そうして放置していた違和感が――あの日、急に、ストーブを押し当てたような痛みと熱さに変わって襲いかかってきたのです。私は、人目を忍んだ暗がりに蹲りました。体全体が強く発熱しているのも感じていました。ああ私は、こんなところで死んでしまうのかと。故郷から逃げ出し、都会の中で一人孤独に戦い続けたのに、誰にも報われずに死んでしまうのかと。私はそう覚悟しました。それにしても、いったい私が何をしたと言うのでしょう。どうして私だけがこんな目に遭わなければいけなかったのでしょう。それだけが皆目見当がつきませんでした。死への覚悟を決めても、その口惜しさと、暗い路地での寂しさと冷たさが、目蓋の裏からぼろぼろ、ぼろぼろと溢れる続けていました。……その時、大きな手が差し伸べられました。私は顔を上げました。すると、そこに――熱と涙で歪んだ視界の先に――あの人がいたのです。あの人は言いました、あなたを助けたい、と。でもその時期の私は、最早目に入るもの全て奴らの仲間だと諦めていたので。あの人の言葉でさえ素直に信じることができず、私はその場を逃げ出しました。

 走って、走って……神楽坂を転がるように走って、ドブの様に濁った川のほとりで私は力尽きました。目の前のアスファルトに、瞬く間に黒いシミが広がり始めました。ああ、どうして雨というものは、いつだって過剰なまでに私を責め立て蝕んでいくのでしょう。そのとき、警官が私に声をかけました。――その瞬間まで私は、大変な事に思い至っていませんでした。つまりは目に入るもの全てが奴らの仲間であるなら、公権力を有し、屈強で武装した警官こそが最も恐るべき敵だという事です。私は足が竦んで動けませんでした。雨に打たれ、帽子のつばを黒光離させながら近づいてくる警官は、ドブ川から浮かんできた水死体のように不気味でした。

 その時、私に降りかかっていた雨が止みました。そして振り返ると――そこに、あの人がいたのです。あの人は私に傘を差し伸べていました。全てが雨に濡れた世界で、あの人は肩のシミ一つ作らず、そこに立っていました。私は急に、直感しました。この人こそが狂った世界で唯一の、私の味方なのだと。今まで何度も繰り返し、その度に裏切られてきた希望を、再び胸に抱きました。不思議と、それが愚かな事だとは思えませんでした。むしろ、この世界にはまだ希望がある、その事実だけで、崩れ落ちそうな私の四肢は再び血を通わせ、私の心は皮一枚のところで持ち直したのです。あの人は警官と二、三喋ると、私に乾いた上着を羽織らせ歩きはじめました。私は濡れた世界から解放され、あの人の温もりに包まれていました……。

 朦朧とする意識で、私はあの人について行きました。あの人は私を真っ白な――床も壁も天井も真っ白なあの人の家に通しました。あの人は私に乾いた服を与え、部屋を出ました。着替えようと服を脱いだ時――私は、鏡に映された自分の背中を見たのです。そこには、鱗がありました。あの怪物と同じです。忌まわしい、青痣のような紫色のあの鱗が、私の背中にも広がっていたのです。私は気が狂いそうになりました。あの人はすぐに駆けつけ、私を抱きしめました。そして優しく、羽毛を愛でるより優しく、私の背中を撫でました。すると、それだけで、あんなにも私を苛んでいた痛みと熱さが、嘘のように消えていったのです。――ああ、こんな事があり得るのでしょうか。私は、奇跡を目の当たりにしたような気持ちでした。もう一度鏡を見ると、私の背中からはあの忌まわしい鱗が跡形もなく消え去っていたのです。私はあの人に、あなたは誰なのと尋ねました。あの人は答えました。僕はずっとあなたのような人を探していた、と。僕とあなたが出会ったのは運命だ、と。その言葉で、私達は真にお互いがお互いに必要な人間だということに気付いたのです。その夜は私もあの人も、やっと出会えた片割れを愛しむかのように抱き合いました。言葉も、口付けも交わさず、ましては肌を重ねることもなく、ずっとずっと、お互いをギュッと抱きしめていました。……こんなにも無垢で慎ましやかな幸福があるでしょうか。私は確信しています、あの夜、私たち二人は、世界中あらゆる恋人達が願ってもたどり着けない幸福の頂で寝屋を共にしていたのだと。世界中が羨む幸福の中で、私とあの人は、お互いのただ一つの居場所を見つけました。私はその一晩だけで、東京に来てからの全ての苦労が、いや、私の生きてきた時間の全てが報われた気がしたのです。最早私の胸には、かつての夢も、不気味な世界への憤りもありませんでした。やっとたどり着けたこの場所で、永遠の温もりをこの人の傍で感じていたい。それだけが、私のささやかな望みでした……。

 それからの日々は本当に幸福でした。私はあの人の家で部屋を与えられ、一日中そこで過ごしました。もう、恐ろしい場所に出る必要はなくなったのです。あの人は日に何度か私に会いにきて、私の背中をさすりました。背中は時々痛みました。私はその度に、また鱗が生えてきているのではと恐怖しましたが、私が耐えられなくなる前に、必ずあの人が来て私の痛みを取り除いてくれるのです。私にはもう、気掛かりなことは何もありませんでした。

 ――いえ、正直に言うと、当時の私には唯一不服だったことがあります。不服と言うのも不適切な、取り止めもない不安というか、あの人に愛されている実感が、私を少しだけわがままにさせた程度のものではあるのですが。あの人が訪ねてくるのは、決まって朝の7時以降から、夜遅くなるまでの間でした。そして私の背中を癒すと、あの人は決まってそれ以上私の素肌を見ることはなかったのです。つまりは、あの人は一度も私を女として抱くことはなかったのです。最初はそれも、私があの人に安らぎを覚える理由でした。しかし日を経るにつれ、私とあの人との愛が確かなものになるにつれ、私はあの人の肌に触れたくなってしまったのです。白状すると、私はそれまで幾人もの怪物に体を貪られてきました。そのように汚れた身体と分かっていても、いや、だからこそ、私は狂おしいほどにあの人の体温を欲していたのです。ある日、私は堪えきれなくなってあの人を誘いました。ああ、なんと卑しいことでしょう。なんと浅ましことでしょう。今思っても、自分が忌まわしい。あの人の真心を弁えず、肉体を求めてしまった私。しかもあろうことか、小賢しい媚態を晒してあの人から私を求めるように意図した私。そんな私に、罰が与えられるのは至極当然のことです。――あの人との別離は、それから間もなく訪れました。


 ある日、真っ白な男達が何人も何人も私の部屋に押し入ってきました。いずれもが巨大な眼鏡にごわつく防護服を装着していて、まるで今まさに宇宙船から降りてきたかのようでした。彼らは、私をあの人の家から引きずり出そうとしました。私とあの人は、最後の時まで互いの手を取って、彼らに抗いました。あの人は言いました、怖がらなくていい、すぐにまた会える、と。私は言いました、必ずあなたを見つけ出す、と。あの人は涙して、何度も頷きました。しかし最後には私もあの人も、白い人々に引き剥がされるようにして、手を離してしまったのでした――。

 それからどれだけの時がすぎたか分かりません。月が雲で隠れた暗い夜、私は奴らの、鉛の壁で閉ざされたような重く静かな実験室から逃げ出しました。私はすぐにあの人の家を探しました。ただただ、あの人のことが心配で……。記憶に従い神楽坂から南、川沿いに西へ。私はすぐにあの人の家を見つけました。しかしようやく帰り着いたその家は、温かかったその家は、今や静まり返って門には重い錠が降ろされていました。ああ、あの人は、どこに連れ去られてしまったのでしょうか。しかし私はすぐに気を取り直しました。どこにいるとも知れなかったあの人を探していた頃に比べ、この程度の困難が何だというのでしょう。私はあの人を見つけたのです。そしてあの人は、必ずこの地上にいるのです。それだけの希望を与えられ、私の足が止まるはずはありません。


 私は不穏な大都会を走り続けました。目に入る人全て鱗の生えた怪物だと知っても、恐れも躊躇いもなく走り続けました。1000万の怪物が蔓延るこの都会で、ただ一人のあの人を見つけるのがどれだけ無謀なことか――しかし、奇跡は起きたのです。一度私とあの人とを巡り合わせた奇跡は、再び私達を導いたのです。……私は、あの人を見つけました。あの人は女に手を引かれていました。いや、女と形容するのも忌まわしい――あの人と出会い、私は既に奴ら怪物と私達人間との区別がはっきりとつくようになっていました。あの女は怪物の仲間でした。巧妙に隠していても鱗は首筋まで迫っていて、悪臭はその姿を見るだけで鼻をつきました。その女が、余人には見破れぬような万力のような力であの人を引きずっていたのです。ああ、可哀想なあの人。どれほど恐ろしかったでしょう。どれほど口惜しかったでしょう。私には分かります、忌み嫌う怪物に命を握られ、言いなりになる屈辱は言いようもありません。


 私はこっそりとあの人の跡をつけました。二人は奇妙な形をした屋形に入っていきました。私は窓をこじ開けて中に侵入すると、あの人を探しました。あの人の気配を追ってたどり着いた部屋で――私は、おぞましいものを目にしました。女が――服に隠れる場所全てを鱗に覆われた女が――裸で、あの人に跨っていました。あの人は、目に涙を浮かべ歯を食いしばっていました。女はそんなあの人を嘲笑うかのように、卑しく腰を振ってあの人を貪っていました。その瞬間、私は我を失いました。正気を失うとは、正にあのようなことを言うのでしょう。私はとにかく、手近にあるものをその女に叩きつけました。女は最初、激しく抵抗しましたがやがて大人しくなりました。――はじめて、私は奴ら怪物に勝ったのです。終わってみれば、何と単純なことだったのでしょう。私は、今まで奴らに怯えていた自分が急に滑稽なもののように思えてきました。

 あの人は、未だ泣いていました。私は共に過ごした長い間にも、こんなにも弱気なあの人を見たことがなかったので、戸惑いました。私は言いました、あなたのために何ができますか、と。あの人は泣きながら、自分の腹を指差しました。その場所を見た時、私は目を覆いました。今思い返しても、こんなにも残酷な光景は考えつきません。あの人の腹には――汚れなき人間の柔肌だったはずのそこには――あの化物達と同じ鱗が十枚、百枚と生えはじめていたのです。

 その時、私ははっきりと理解しました。この鱗は、あの化物達と繋がった者の不浄の証なのだと。あの人の肉体は汚れてしまいまったのです。私は言葉を失いました。どうして、どうして私達だけがこんな目に。聡明なあの人は決して、肉体的快楽を求めはしませんでした。私は結局あの人に抱かれることはありませんでした。なのに、奴らに無理強いされた行為一つで――。私は足元が崩れるほどの悲嘆に暮れ、築いてきた温かな世界が久遠の彼方に消え去ってしまったように思えました。あの人は言いました、助けてほしい、と。自分が汚れてしまったことに耐えられない、と。ええ、気持ちは痛いほど分かります。でも私は言いました、汚されたのは身体だけ、あなたの心は少しも汚れていない。気休めにもならない言葉を吐いて、私はあの人がしてくれたように、心を込めて鱗をさすりました。しかし、私の力では鱗を消すことはできませんでした。それはそうでしょう、私にはあの人のような力は無い。あの人はこんなにも多くの物を私に与えてくれたのに、私はあの人に何もしてあげることができない。私は、己の無力さを呪いました。そして赦しを乞いました。あの人は言いました、もういい、と。自分にはもう、あなたしかいないのだから、と。……ああ、こんなになっても、あの人なはんて優しい。こんな私を赦してくれたあの人を、どうしても救って差し上げたい。――もう私に残された手段は一つしかありませんでした。私はあの人に話しました。あの人は言いました、それでいい、と。ありがとう、と。

 そして私は包丁で、あの人に生えた鱗を削ぎました。方法は弁えていました。故郷である北の港町で習った魚のおろし方で、ゆっくり、丁寧に……一枚一枚削ぎ落としました。あの人の肌に刃を当てる度に、私は涙しました。同時に、初めて魚を捌いた時のように高揚していた事だけは否めません。だって、あの人が私にしてくれたことのお返しを、形は違えどもしてあげられるわけですから。一枚、一枚と鱗を剥がしていく度に、その後に真っ赤な花が開くたびに、あの人の顔は安らかになっていきました。あの人は何度も何度も、ありがとう、ありがとう、と言いました。……その時思いました。もしかしたら、初めてあの人に出会った時の私も、こんな風だったのかもしれない、と。だとしたら――ああ、あの人は、なんてずるいんでしょう。こんなにも満ち足りた気持ちを、一足早くに味わっていたのですから。自分があの人を癒している、自分の力があの人の助けになっている、その実感はどんな夢よりも明るく、どんな達成よりも強く、私の心を埋めてくれました。最早、私達は平等でした。そして私達はその晩、海よりも深いところで通じあったのでした――。


 ――あの人との思い出でお伝えできるのは、ここまでです。それからの事?何を仰います。その後すぐに私達を引き剥がして、私をずっと閉じ込めていたのはあなた達ではありませんか。分かってますよ、あなた方も奴らの仲間なのでしょう。残念でしたね、私はもうあなた方なんて恐れません。私達はあなた方の不浄に打ち勝ちました。なるほどあなた方は、大がかりな舞台装置まで作るほど、周到で狡猾なんでしょう。あの寮での出来事にはしてやられました。でも、私の前では全てが台無しです。私の背中が痛むことも、もうありません。……あなた方には分からないでしょう、あの人と引き離されてなお、どうして私の心がこんなにも強いか。それは、私が今この瞬間もあの人を感じているからです。正直に言いますと、再びあの人と引き剥がされた私の心は折れそうになっていました。でも引き離され、一度失われたあの人の存在は、ある日はっきりと私の中に蘇ってきたのです。あの人と過ごした時間、感じた温もり、いや、それよりも深いところで感じたあの人の存在が、朝日のように暗闇から蘇ってきたのです。その体験は、まさしく奇跡でした。そしてこれこそが私が深くあの人を愛し、またあの人が強く私を想っている事の証でした。

 私はあの人のおかげで、本当の愛というものが何であるかを知りました。それは交わした言葉でも、曝け出した肌の広さでも、ましてや股と股の間で響き合うものでもないのです。本当の愛というものは、奇跡なのです。願っても届かない、奇跡のようなものなのです。あるいはごく僅かな男女は、その正体に気付きながら間違った道を選んでいます。でも、この世界で私達だけは、その奇跡に触れたのです。だから私、もう何も怖くありません。あの人が蘇ったように、私も蘇るのです。他でもない、あの人の心に。

 ――やめなさい、触らないで。生娘の身体に馴れ馴れしく触るなんて、卑しい男。私はもう、あの人の物なんだから。ねえ、貴方。ああ、そこにいらっしゃいますか。聞こえていますか。貴方。ああ――今、御許に参ります。





********





蛇足的某年某月某日謀新聞記事の抜粋


『○○年○○月○○日 ○○紙


都心を脅かした連続強盗殺人娼婦、本日死刑執行


昨日、○○死刑囚(28歳 女性)について、東京拘置所にて死刑が執行されたと法務省が明らかにした。同氏は○○年に都心部にて、主に男性を標的とした強盗殺人を繰り返した罪で○○年最高裁判決で死刑宣告。同氏は男性を性的行為を名目に誘い出し無防備なところを殺害する手口で、判明しているだけで14人を殺害したとされている。同氏逮捕のきっかけとなった日本橋医師夫婦殺人事件をはじめ、事件に至る動機には未だ不明なところが多く一時は精神鑑定の必要性が訴えられた。しかし検察側は同氏に十分な責任能力があったとし、裁判所もその判断を受け入れた形となった。なお匿名の関係筋が明らかにしたところによると、裁判時に明瞭であった同氏の精神は死刑執行が近づくにつれ変調をきたしていたとのこと。死刑廃止団体からは、今回の執行は明確な人権侵害であるとして――。』

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