最終話 彼女との始まり





いつも通りに帰宅して、足元に彼女の小さな姿を見つけるのだろうと思っていた。でも、彼女はそこにはいなかった。それから俺は、部屋の奥から走ってくる彼女を思い浮かべながら、そちらの方を見る。そして、そのまま俺は、体も、頭も、動きがまったく止まってしまった。



ピンクの長いワンピースの腰に白いリボンを巻き付けて、長い黒髪を豊かに下げ、彼女が俺を振り返る。大きな黒い瞳が俺を見て、どこか悲しげに光った。その瞳の高さは、俺よりほんの少し下にある。



つまり彼女は、キコちゃんは…普通の人間と同じ大きさになっていた!



「え…キコちゃん…それって…!」


俺はすごく驚いたけど、嬉しかった。彼女の美しさは元のままで、俺と同じような背の高さなのだ。これなら、「人々の好奇の目に彼女が傷つけられるのではないか」なんてことを気にして、彼女をここに閉じ込めっぱなしにしなくていい。堂々と街を歩かせてあげられる。それに、キコちゃんが行きたがっていた、海にも、山にも、レストランにも、それこそどこにだって、彼女を連れて行ける!


俺は靴を脱ぐのも忘れてしまって、思わず笑い声が途切れ途切れに口から漏れた。なんと言葉にしたらいいかわからないほど驚いて、そして嬉しかった。でも、俺が見つめているキコちゃんは、いつまでも悲しそうな顔をしたままだった。俺は喜びが落ち着いてきたとき、それに気づいて少し不安になった。


俺が彼女の悲しみを感じ取るのを待っていたように、キコちゃんがやっと一言口を開く。


「一也さん、ごめんなさい…」


キコちゃんはとても残念そうで、それにさびしそうだった。俺はどうして彼女がそんな顔をするのかがわからない。だって、大きくなれたなら、彼女ができることはたくさん増えるのに。


「…なんで謝るの…?」


そこでキコちゃんは俺に背中を向けて、部屋の窓際へと歩いていった。そして、顔だけで俺を振り返る。どうしてそんなに悲しそうに、俺に謝るんだろう。なんだか俺は、不安で仕方ないじゃないか。彼女が大きくなれたことの喜びが、少しずつしぼんでいく。


キコちゃんは何度か何かを言おうとして、そのたびに唇を噛んだ。でも、彼女は話を続ける。


「私、もう行かなきゃ…」


“行く”?どこに?それに、そんな“もう帰ってこない”みたいな言い方、しないでよ。


「…どこに…?」


俺はだんだんと不安が高潮して、息が苦しくなってきた。そして心の中に、少しだけ焦りが生まれる。


なんとかしなくちゃ。彼女をここに引きとめないといけない。キコちゃんは急に大きくなったから、きっと何か考え違いをしていて、ここから離れないといけないと思っているだけだ。だからちゃんと大丈夫だと言って、彼女を引きとめなくちゃ。


俺は慎重に彼女の次の言葉を吟味して、説得にかかろうと思った。彼女はうつむいて顔を伏せ、また言いにくそうに言葉を途切れさせる。


「…自分の家がどこなのか、思い出したんです…それに、そこで自分が何をしなきゃいけないのか…」


“家”…?


キコちゃんにはやっぱり家があったのか!そこに帰りたいんだ!でも、どうしよう?彼女が家に帰りたがるなら、俺は止める権利があるんだろうか?でも、でもきっと、外で会うことだってできるだろう!


「それは、どこ…?」


俺は、“あまり遠くないといいな”と思った。遠くなければ、俺だって頻繁に会いに行ける。


キコちゃんは俺の様子をちらりと見て、ますます悲しそうな顔をした。そして俺に、こんなふうに話した。


「驚かないで、聞いてくださいね…驚くと思うんですけど…」


彼女は今までで一番気が進まないように口を開き、こう言った。



「私、天使の試験の最中だったんです。…合格だそうです。だから、帰らなくてはいけません…」



「…は…?」



人間は、あまりに想定していなかったことに出会ったとき、頭が働かないという。もちろん、俺もこのときそうだった。そりゃそうだ。“天使の試験”ってなんだよ。聞いたこともねえよ。それに、天使なんて、神話のなかの架空の存在じゃないか!


俺はこう考えた。


“キコちゃんは体が大きくなって、俺がいなくても生活していけるようになったから、俺と離れるためにいい加減な嘘をついてるんじゃないか?”、と。だって、「天使の試験」なんて、そんなものがあるはずがないんだから。


そのとき俺の心に、ちりっと怒りが湧いた。その怒りは鋭く、皮肉で毒々しかった。俺はそれを、思わず彼女に向けてしまう。


「キコちゃん…そんなに俺が嫌なら、素直にそう言ってくれたほうが、俺も気が楽だよ…そんな嘘に、普通は騙されないし…」


「嘘じゃないです!」


彼女のその叫びは、まるで内緒話をしているような大きさだった。でもそれは多分、精一杯喉の奥に押し込めたからだ。


そして、とうとう彼女は泣き出す。その涙は嘘ではできないほどの激しさで、彼女は肩を震わせて、一生懸命に次から次へと溢れてくるそれを拭った。


「だって、私…たくさんものを増やしたり、未来のことを当てたりしたじゃないですか…!そんなこと、人間にはできないじゃないですか…!信じてください…嘘じゃないの…!」



どういうことだ…?


キコちゃんはこんなふうに演技ができるような子じゃない。むしろ彼女は、今までで一番素直に泣いているように見える。つまり、ものすごく悲しんでいるんだ。


それに、確かに彼女は一瞬にして部屋中を千円札でいっぱいにしたり、試験の問題をすべて当てたりしていた…。


本当なのか…?でも、“天使の試験”って…一体どういうことなんだ?



しゃくりあげていたのが治まってくると、彼女は下を向きながらもう一度話し出した。


「…天界に昇り、“見込みがある”と選ばれた者たちには、試験を受ける権利が与えられます…」


俺は、大きなショックを受け続けていた。だって、とても信じられないような荒唐無稽なことが、信じるべき形で差し出されているのだから。


「どういうこと…?じゃあ、君は一度、死んだの…?」


キコちゃんは頷いた。俺はそこで、何度目かわからない大きすぎる驚きに頭を叩かれる。



待ってくれ。そんなに次から次に、俺はそんなことを頭に詰め込めないよ。


それなのに、キコちゃんはまた喋り始めてしまう。


「…天使の試験は、仮試験からです。本試験前の仮試験では、“すべての記憶を剥奪されても、人を幸せにできるか”…それが見定められます…。だから、合格した私は、これから本試験に進まなければいけません…地上からは離れて…」


そのとき、俺はこちらに向けられたキコちゃんの背中に目を見張った。彼女の背中は、肩甲骨のあたりがむくむくと盛り上がってきて、ワンピースの生地がもぞもぞと動いている。俺はそれを見て、「あっ!」と叫びそうになった。



そして、彼女が窓ガラスを大きく開けたときには、彼女の肌を貫いて広げられた白く大きな翼が、部屋を覆い尽くすかのように見えた。


部屋の中には、ばさりと彼女が大きく翼をはためかせたときに散らばった、柔らかな羽が降っていた。それは美しかったけど…。



キコちゃんがいなくなってしまう。なんで。どうして。


たった今朝まで、ずっと一緒で、これからもそうだと彼女自身も言ってくれていたのに。



俺は思わず首を振った。初めはゆっくりゆるゆると。それから、彼女が見逃せないくらいに、大きく。


「…やだ。…やだ!行かないで!絶対やだ!」


俺は、彼女を止める術を自分がほとんど持っていないのを知っていた。だって、背中に翼が生えてるんだ。彼女がもうここにいるべきじゃないことくらい、俺にだってわかってた。でも止めたい。だから俺の言葉は、とても幼く、拙くなった。



駄々っ子でも、わがままでもいい。そんなのはいいから、どうか行かないでほしい。



「ごめんなさい…」


少しずつ、彼女の翼は羽ばたいて、足がふわりと浮いた。俺はそれを見て、靴のまま慌てて窓辺に駆け寄る。


「謝ってもダメ!だって君、俺を好きって言ったじゃないか!君がいなくなったら、俺の幸せはなくなっちゃうんだよ!?そんなの絶対ダメだからね!キコちゃん!」


俺は彼女の腰に縋りつき、なにがなんだかわからないままに叫んだ。



いやだ。いやだ。いやだ!絶対にいやだ!



「一也さん!放して!危ないです!」


キコちゃんの体はどんどん宙に浮き上がり、部屋の外へと飛び立とうとしていた。俺の体も、それに引きずられていく。


「ダメです!放してください!…お願い!危ないから!戻って!」


ここは3階だ。落ちたらひとたまりもないだろう。でもそんなことは俺にはどうでもよかった。


「嫌だ!君に置いていかれるくらいなら、ずっとつかまってる!落ちなきゃ死なない!どうしてなんだ!好きなんだ!だから行かないで!君が行っちゃったら、俺…また一人になっちゃうじゃないか…!」


俺は幼いころの情景が思い浮かんで、そして、今また同じことが起きようとしているかのような錯覚に陥った。俺の頬を涙がはらはらと落ちていくのがわかる。



翼の羽ばたく音は突然消えた。



すると、俺たちの体は急にぐるっと反転する。


「わあっ!?」


「きゃああっ!」


窓の外のキコちゃんも、彼女につかまって体の半分を引きずり出されていた俺も、一気に下へと落下しそうになった。でも俺はすんでのところでなんとか窓枠に手をかけて、滑り落ちていくキコちゃんの手をつかんだ。


俺が下を見ると、キコちゃんの背中にさっきのような大きい翼は見えなかった。でも、鉄の窓枠が俺の指にぎりぎりと食い込む。二人分の体重がかかった腕も、長く力がもちそうにはなかった。


なんとかつかまっている俺の息が切れてきて、手の痛みに苦しくなる表情をキコちゃんから隠そうとして、俺は彼女から顔を逸らす。でも、彼女はそれに気づいて叫んだ。


「一也さん!落ちちゃいます!放してください!」


「大丈夫!今、配管に足を掛ければ…」


俺は、自分の足より30センチほど上を横に通っている、アパートの配管に狙いを定めた。そこに足をかけてつかまり立ちができれば、彼女を引っ張り上げて、二人で窓まで這いあがれるはずだ。



キコちゃんの翼がないなら、俺の手と足があるじゃないか。俺は彼女のために、今できることをすればいいだけなんだ。



俺はなんとか配管につま先をひっかけた。靴底が滑って何度か足は落ちたけど、限界まで膝を上げたとき、かかとから体を引きあげることができた。そして、キコちゃんに声をかける。


「キコちゃん…俺につかまって!二人で配管に立てれば、部屋に戻れるから!」


彼女はとても不安そうにしていたけど、俺は精一杯の力で彼女の体を引き上げ、彼女は俺の肩に手を伸ばしてくれた。


「そう…ゆっくり…」


そこから、足を滑らせやしないかとぶるぶる震えながら、俺たちは少しずつ窓枠の真下まで体を横に滑らせた。そして俺はキコちゃんを片手で抱きかかえたまま思い切り窓枠を引っ張る。


俺たちは部屋の中に向かって、二人してどたーっと倒れ込んだ。




「ああ危なかった…死ぬかと思った…!」


俺は肩につかまっていたキコちゃんを抱きしめていた。なんとか命が助かったと思うと、なかなか腕の力はゆるめられず、ぎゅうっと彼女を胸の中に閉じ込めたままだった。


「あ、あの…一也さん…」


「そうだ、背中見せてキコちゃん!」


俺は起き上がってキコちゃんの手を引き、後ろ向きにさせようとして、腰に手をかけた。


「きゃあっ!何するんですか!」


俺は夢中になって彼女の背中を手のひらで何度か叩いてみたけど、何もなかった。見渡してみると、部屋の中に落ちたはずの彼女の羽根も、あとかたもなくなっていた。


「ご、ごめん…翼がまだあったらって…」


「ふふ、もうないです」


「そっか…」



俺はそのとき、気まずかった。だってキコちゃんは天使になりたかったんだろう。でも、おそらくだけど、その機会はもうなくなってしまったのだ。多分、そうだと思う。俺は、それを彼女に聞いて確かめるのが怖かった。もしそれで、キコちゃんが失った望みを悲しんだりしたら。



多分、俺たちは一緒にはいられなくなってしまう。


俺は、何もない彼女の背中を見つめていた。でも、くるりと振り向いたキコちゃんは、予想に反して明るい笑顔だった。


「そうだ、大きくなれたら、したいことがあったんですよ」


「え…何…?」


彼女は前を向いて、俺をふわっと抱きしめた。温かくい彼女の腕と体に俺は包まれる。俺は女の子に、好きな子に抱きしめられるなんて初めてだった。それに、キコちゃんにそんなことができるなんて今まで思っていなかったから、一気に爆発しそうな緊張と感動に包まれて、体の自由もなくなってしまった。


「私の手で、一也さんを抱きしめて、それから…」




彼女の唇は、温かかった。柔らかかった。俺の世界はそれでぐるっと一回転した。そのあとのことなんて何も考えられなかった。


俺の体中ですべての細胞が歓喜に震え、叫びを上げた。俺はそれを必死に止めて、一瞬のキスのあとで下を向く。



こんなの、背中に翼が生えるより心臓に悪い!



しばらくうつむいたままおろおろしっ放しだった俺の頭に、優しい声が降ってきた。


「責任とって、ずっと一緒にいてください」


はっとして顔を上げると、彼女が微笑んで俺を見つめていた。



その静かな微笑みは、少しも揺るがなかった。


そのとき俺は、自分の幸せは確かな地面に足をつけていて、もう奪われることなんかないと、知ったような気がした。


どうしようもなく、涙がこみ上げる。


返事をしなくちゃ。早く。そう思うのに、きっと二度とは口に出せない幸せがもったいなくて、なかなか言えない。


「…はい」


涙を止めることさえ忘れながらそう言うと、彼女は俺をまた抱きしめてくれた。俺は彼女にあやしてもらいながら泣き、新しい始まりに足をかけた。






おわり

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キコちゃんはちょっと小さい 桐生甘太郎 @lesucre

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