第15話 はじめての君との遊び





夏休みがやってきた。そして、俺の仕事はかきいれ時だ。


居酒屋が夏に儲かるわけではないけど、学校に通っている間は、俺は夜の短時間しか働けない。だからこの夏休みに、普段の生活費とそれ以降に上乗せする分を、できるだけ稼ごうと思った。そうしないと多分キコちゃんのお菓子も買えないし、冬に使う灯油も買えない。俺の住む街は雪国というわけではないけど、けっこう寒い。キコちゃんを凍死させないためにも、この夏が勝負なのだ。


ところで、キコちゃんは死んだりする存在なのだろうか?妖精とか妖怪だった場合、死ななそうだけど…。と、そこまで考えたけど、前にキコちゃんが「自分がなんなのかわからない」と言っていたし、俺にもわからない。


とにかく、頑張らないとな。




「じゃあ、行ってくるよ」


「はい…気をつけて…あの、一日中お仕事なんですよね…」


俺の手のひらに乗ったキコちゃんは、どこか心配そうにこちらを見上げる。うう。そんな目をされると、ずっとうちで君を撫でて過ごしたくなってくる…。


「そうだね、お仕事しないと、これから先が大変だから」


彼女はもじもじといつものように、言葉に惑って切なげに頬を染めた。こういうとき俺は、どうしてなのか聞きたくても聞けない。


「じゃあ…一也さんが帰ってきたら…やりたいことが、あります…」


そう言って彼女は恥ずかしそうに俺をちらりと見上げてから、目を伏せて、まつ毛を震わせていた。


「…わかった」





俺はその日、仕事に俄然やる気を燃やし、ほとんど殺気立っているような心を押さえつけながら、皿を洗い、注文を取り、レジを叩き、そして店長にどやされた。しかし俺は落ち込まなかった。


“ふふん、店長。あなたは知りませんがね、俺は「やりたいことがある」と言った恋人が、家で待っているんですよ”


俺は内心でそう店長につぶやきかけ、叩かれたのをなかったことにして、注文がどの卓だったのかを忘れたことについては、「次からそんなことはないように」と、しっかり自分に言い聞かせた。




「あー終わった~…」


俺はエプロンの紐を首から外し、大きく伸びをした。店長が調理補助の人たちと明日の仕込みをし始めると、俺はそこで解放となる。店の掃除はその前に全員でやるけど、雑用アルバイトの俺がやるのは主に客席だ。そして、俺が更衣室に行くためにキッチンを通る頃には、油跳ねなどの汚れはすべてさらわれて、もうまるで新しい店舗かのように綺麗になっているのだった。「あれも料理修行の一環なのかな」と思うと、凄まじいと思う。


「お先に失礼しまーす、おつかれさまでしたー」


店長の背中にそう声を掛けるけど、毎回返事はない。でも挨拶をしないで帰ると、翌日店長にまた頭をどやされる。うちの店はまったくの縦社会である。まあでも仕方ない。お客は8割が常連で、「店長の酒選びと料理の腕は間違いない」とみんな口を揃えて言う。それじゃあ文句も言えないな。


「児ノ原君、夏休みの予定とか決まってるの?」


俺ははっとして振り向いた。更衣室には誰もいないと思っていたのに、この間入ったばかりの新人アルバイトの、林さんが声を掛けてきた。林さんは俺より1つ年上で、大学生だ。彼女は背が小さく、長い髪をいつも後ろ頭で束ねて揺らしている。春を過ぎた頃、うちの店に入ってきた。俺はもちろん人と自分から会話をすることはないので、話をするのもこれでまだ3度めくらいだった。


「はあ…まあ、そこまではないですけど、家族と出かけたりとか…」


一応俺はキコちゃんといろいろなところに出かけたいと思っていたので、それは予定として数えていた。ただ、「彼女と」と口にするのが恥ずかしかった。


「へー、どこ行くの?」


「あ、それはまだ、考えてないんですけど…」


「ふーん。じゃあさ、その合間に一緒にカラオケでも行かない?キッチンの竹中さんも誘ってあるんだけど」


「えっ…」


困ったな。キコちゃんを置いてどこかに遊びに行って、夜遅くに帰ることなんてできないぞ。でも、「実は家にさびしがりの彼女がいて…」なんて、もう言い出せない。仕方ない、ここはなんとかごまかすか。


「うーん、俺、学校の課題もあるんで、また今度誘ってください。いつ終わるかわかんないし…」


「そっか。そうだよね。ごめんごめん」


「すみません」


「大丈夫。じゃあまた。おつかれさま」


林さんは鞄を小脇に抱えると、事務所へのドアをすり抜けていった。


「おつかれさまです」


俺は更衣室で、独りため息を吐いた。これから先、こうやって人からの誘いを断ったり、あるいは人に事情を詮索されたりすることも、もしかしたらあるだろう。まあでも、今まで通りにやるだけだ。「上手くごまかす」。その技術なら任せておいてくれ。





「ただいま~」


俺は胸をどきどきさせ、わくわくさせ、そして足取りも軽く家に着いた。玄関にはキコちゃんが出てきてくれていて、ついこの間新しく買ってあげた、人形用の黄色い縞模様のパジャマを着ている。


「おかえりなさいませ!一也さん!早くやりましょう!」


彼女はそう元気よく叫んで、床から25センチくらいの間を、小さな体でぴょんぴょん飛び跳ねた。


「え、えっ!?」


俺は焦った。まだ玄関のドアも閉めていないのに「早くやりましょう」とは、キコちゃんも大胆だなと思った。とりあえず後ろ手にそっとドアを閉めてから、彼女を拾い上げて、顔を近づける。


目の前にはハムスターほどの大きさの女の子が、俺の手の上でにこにこ笑ってくれていた。


俺は今から、“キス”をするのだ。はじめての。まだなかなか心の準備ができていないけど、そんな意気地のないところは彼女には見せられない。緊張していることは態度に出さずに…さり気なく…。



そうは言っても、心臓が痛いくらいにどくどくと鳴っていて、俺の耳にはそれが大きく響いている。だからどうしても、“彼女にも聴こえてしまっているのではないか”と思ってしまう。耳まで熱くて、体が震えそうになる。


もう仕方ない。言い訳や我慢なんてしなければいいんだ。“君が好きだからこんなふうになってしまうんだ”と、俺は言ってやる。世界中に言ってやる。


そんなことを考えながら、俺は、目を閉じた。


そして、キコちゃんの優しい声が聴こえてくる。



「一也さん……“しりとり”」



……ん?


俺が目を開けると、何かを期待して俺の言葉を待っているようなキコちゃんがいた。まさか…。


「キコちゃん…「やりたいこと」ってまさか…」


そう聞くと、キコちゃんはちょっと首を傾げたけど、思い出したようにこう言う。


「あ、“しりとり”です!そうでした、一也さんにはまだ言っていませんでしたね、すみません!でも一也さん!ほら、“しりとり”!“しりとり”ですよ!」




俺は何かおかしいなと思ってキコちゃんに詳しく聞いてみた。すると、彼女は昨日テレビドラマを観て、初めて“しりとり”を知ったのだと話してくれた。確かに俺も、そのとき一緒にテレビを観ていた。そのドラマでカップルが暇つぶしに「しりとり」を始めるシーンに、キコちゃんは何かいたく感銘を受けたらしい。そしてどうやら、“「しりとり」はカップルがやるものだ”と思っているようだった。



俺は思い切り脱力した。それから、やり場のない残念さやもどかしさを背中に隠し、「「しりとり」は誰とでもできるんだよ」とキコちゃんに教えてあげた。




「ゴリラ」


「え、えっと…ラッパ、さっき言いましたよね…あ!ラーメン!…あ。…あー!」


「はいまたキコちゃんの負け」


「どうしてですか〜!」


「ふふふ」



その晩は眠るまでの間、俺たちはしりとりをした。





つづく

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