職場でのポジション
惑わされずに――これが社会人になってからの志郎のモットーだ。
33歳の派遣社員である志郎は、スーツを着ると自動的に、無意識にこのモットーの支配下となる。普段の
なぜほどほどにやるのかと言えば、あまり仕事ができてしまったりやる気があると思われると、より責任の重い仕事を任されてしまうからだ。志郎の手取りは基本的に月20万円を超えないが、そんな生活にも慣れていたし、残業も少ない今の生活が心地よかった。昇進を拒んでいる以上、昇給の見込みはほとんどないがあまり気にならなかった。
昇進はせずとも、ミスが少ないので志郎は課長から新たな仕事を教え込まれる。志郎はできる範囲でそれをやる。その結果に対し、課長は志郎を褒める。一方で、新しく部署に入ってきたが仕事ができずミスの多い別の課長の愚痴をつぶやく。志郎は怖ろしく思うと同時に、優越感と面白みを感じる。
「○○さん(新入の課長)、今日も部長に相談事らしいな。最近体調も悪いとか。この前部長に訊いたら、辞めるかもしれないとさ。グズグズしてないで、サッサと辞めりゃいいのに」
志郎は、少し笑みを浮かべて「はあ」としか答えられない。「そうですね」と答えるのは新入課長に対して失礼だし、目の前の課長もそんなことは期待していないだろう。もちろん課長の言うことを否定もできない。結果、「はあ」になる。だがこれでいい。あくまで謙虚に。感情に流されず――惑わされずに、だ。
そんなとき、話の流れで昇進を促されることが多い。しかし、自分のタスク処理スピードがあまり速くないことやプライヴェートで別にやっていることがあるなどを理由に、志郎はその話を遠慮している。
その日、フロアのあちらのほうでは、周囲から「取扱注意」のレッテルを貼られたベテランの女性社員が、今日もある課長やある部長やある新人への批判をクドクドとこぼしている。それに同意を示す、これまたベテランの女性社員や若手の男性社員たち。あいかわらずだなと志郎は思う。だがそれだけだ。
初めのうちは裏で会社を動かすような彼らの存在に脅威を覚えていた。いつ自分がターゲットになるか分からない。この職場では、口の立つアグレッシヴな者の批判の対象となり、直接もしくは無言のプレッシャーで居心地が悪くなり去っていった人間がたくさんいる。ああはならないように、と思っていた。
だが今周りを見まわすと、ベテランから新人まであまり仕事ができず
それから残っている彼らのことを考えた。なぜ残っていられるのか。おそらく彼らは、去った者たちより神経がタフなのだ。粘り強い。もしくは鈍感。もし自分が彼らのようなポジションにいたら……周囲からそんな目で見られるのは屈辱的だろう。だがそれでも『惑わされずに』だ。万が一落ちぶれても、挽回できるはずだ。そういう状態に自分を置いておけばいいのだ。
そうして志郎は、より優れたビジネスロボットへと自分を磨き上げていった。しかし時は絶え間なく流れ、志郎も歳を取る。たとえ昇進しなくても老いていくし、それにともなって職場での存在的ポジションは変化していく。
老いてなお昇進を拒みたいが、自分より若い者に対してなど屈辱感を味わうこともあろう。自分で選んでおきながら。そこいらはその都度マシなポジションを選んで存在を移動させていくしかない。何かを得れば何かを失うのだ。そして失ったことによって『惑わされずに』。それと引き換えに何かを得ているのだから。
だからこそ、何を得たいかをハッキリさせる必要がある。志郎にとってそれは、『身軽さ』や『自由』だった。これを失うのは人一倍キツい。だが、今やそれが常態となりキープできそうなので、他にも何かを得たいと思った。そして新たに見つけたのが『充実』だった。
気付いたとき、ようやくこの段階に来たと志郎は思った。これまではマイナスの穴埋めだった。ようやくプラスに積み上げることができる。だが、基盤となる『身軽さ』を失ってはいけない。慎重に、『惑わされずに』だ。しかし休日の静けさのなか、微かに鳴る胸騒ぎは認めざるをえない。
志郎は本棚の奥から『1984年』を取り出してバッグに入れ、久しぶりに電車を乗り継いで遠出しようと、いつもより少し子どもっぽい表情で玄関を出た。
(了)
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