この世の鍵

ひろみつ,hiromitsu

スーパーで逡巡

 彼は近所のスーパーに向かった。休日の夕方。寒くて出かけるのも億劫おっくうだったが、『100円割引券』は今日までしか使えない。どうせヒマだし何かしら買ってこよう。


 で、何にしよう? ――とりあえず彼は、明日の朝食用の食パンを買うことにした。彼はもうすぐ40歳になる。独りアパートに暮らす彼は、料理などほとんどしない。食べるものもあまり健康的なものとは言えない。


 面倒さにやや苛立いらだちつつ寝ぼけたような意識で歩いていると、いつの間にかスーパーが見えた。1階部分は駐車場になっている。いつものことだが、陰気な自動車たちが自分を値踏みしているように感じた。エスカレーターで2階へ上がると売り場が広がっている。このワンフロアですべてだ。なんて陰気な建物なんだろう、と彼はいつもに増して思う。


 自動ドアを抜けて店内に入った瞬間、久しぶりに納豆でも買おうと思った。前日に納豆がいかに健康にいいかを伝えるYouTubeの動画をたまたま見て、それを思い出したのだ。久しぶりに炊飯する気にもなってきた。


 黄色いカゴを手にし、納豆のありそうな方へ向かった。納豆らしいものが遠くに見えてきたところで、すでにパン売り場を通り過ぎていたことに気付いた。ここに来るまでの通り道にパン売り場があったのならば、先にパンを見ておけば良かったじゃないか――


 彼は納豆に気を取られ、パン売り場を通り過ぎるという効率の悪い店内の廻り方をしたことがしゃくだった。だがよく考えると、レジに戻りがてらパン売り場に寄るのも悪くはなかった。どうしようか悩む。納豆らしきものは見えているが、パン売り場はすぐそこだ。どうしよう……?


 結局、彼はパン売り場に戻ることにした。パン売り場の場所は確かに知っている。しかし、さっき遠目に見た辺りに納豆があるかは分からない。納豆があると思って行ったのに納豆がないような悔しさを味わうよりは、確実にあるパンを手に入れたい。もうできるだけ悔しい思いをしたくない。


 パン売り場で彼は無事に食パンを手に入れた。まだ割引にはなっていなかった。当初は厚切り2枚のものを買う予定だったが、それは売り切れていたので、やや割高だがライ麦入りのパンにした。そしてそれは3枚切りだった。


 彼は電子レンジのオーヴン機能でパンを焼くのだが、1度に2枚しか入れられない。3枚あっても、あと1枚は後で別に焼くか、そのまま食べるかだ。そのうえ2枚切りほどの厚みもなく、味気ない。だが仕方ないとあきらめた。


 そして、残りの1枚を別に焼くのはどうも電力の無駄のような気がした。この余分な1枚のために電気代を支払うのも癪だ。明日の朝、2枚を焼いているあいだに残りの1枚はそのまま食っちまおう――彼はそう決めると、鼻で笑った。


 それから、さっき納豆がありそうだと目をつけたところに行って見ると、意外にたくさんの種類の納豆があった。充実している。そして、その多くは月間だか週間だかの割引になっていた。期待以上の歓迎ぶりに彼は喜ぶよりも動揺した。


 割引商品の価格表示は、他の一般的な白地と違って黄色地だった。その上に値段が黒字でポップに書いてあった。その黄色と黒が、むしろ何らかのわなに対する注意喚起ように感じられ、彼の右手はそれらの前で躊躇ちゅうちょし小さく震えた。頭の中が混濁こんだくした。ふと、こんなせせこましいことをこれからも延々続けていくのかと思い、心の奥のほうで何か金属製の重い物が床にドシンと落ちたような感じがした。


 やがて彼は現実に戻り、「まあ、せっかくだから」と、割引商品ではあったがそのとき初めて目にした『豚生姜味タレ』の納豆をカゴに入れた。


(了)

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