第6話 昭和50年、名もなき小さなモノの章 1


 うずくまることしかできない。



 〈其れ〉は、自身の元へ戻ってきた〈ソノモノ〉の魂を黙殺して、ただ固く目を閉じ、耳を塞いでいた。


 魂を次に継がなければ、〈ソノモノ〉は腐って朽ちて、二度と輪廻の輪には戻れない。


 そうすると、〈ソノモノ〉は、今の〈其れ〉と同じように、ただただ虚無を漂うだけの存在となる。


(それは嫌じゃ。せめて天寿を全うさせたりたい。)


 そして〈其れ〉という呪いから解放させてやりたいのだと、〈其れ〉は心底願っていた。


『わかっとる、わかっとるのに、』


 だが、そのために今、〈ソノモノ〉の魂を、次の命の器に移す行為が、どうしてもできない。


『…わかっとるんじゃ、けど、』


 もう〈ソノモノ〉の死を目の当たりにすることが、純粋に、耐えられなかった。



『典子、ごめんな、ごめんな、』


 〈其れ〉は未だにいつまでも泣いている。


『……う、うう、』


 感情を知らず、魂をぞんざいに扱っていた昔が懐かしい。

 できればいっそのこと、感情など捨て去ってしまいたかった。


「…もう、そんなに泣かんで、ナナシ。泣いてばっかりじゃ、いけんよ。ナナシはこのままじゃ、嫌なんじゃろ?」

『………』


 〈ソノモノ〉の中で、光る玉になった典子が、〈其れ〉に無邪気に語りかける。


(もう、……助けてくれ……)


 だが、語りかけてくる「典子」は、〈其れ〉にとって都合のよい、ただの幻想であり幻聴であることを〈其れ〉は知っていた。


『…誰か、助けてくれ…』


 自分の罪の根深さを、〈其れ〉はようやく自覚して、慟哭は枯れることなくいつまでも続く。


     ※ ※ ※



 昭和50年。


 夫婦が結婚8年目にして、待望の赤子を授かった。


 母親は、祖母たちの勧めもあって、妊娠直後に10年勤めた縫製工場を辞めた。

 今は得意の裁縫で、布オムツや産着を繕う日々。


「痛っ!んもう、今日はホント、よく動くなぁ」


 母親は笑いながら、愛おしそうに大きなお腹を何度も撫でる。

 公営住宅最上階の五階、開け放たれた窓から吹き抜ける風に、先日新調した小熊柄のカーテンが揺れた。



 家賃一万の公営住宅は、10年前に建てられており、壁紙も畳も比較的新しい。

 

 結婚と同時に応募した公営住宅に入居が決まったとき、親戚一同本家に集まり結婚の祝いも込めた宴が催された。若い母親も若い父親も、顔を赤らめながら、酌を受けては感謝を述べた。


 それから8年。

 夫婦は新たな命の誕生を急かされ、次第に焦燥感を募らせるようになっていった。

 自然と本家からは足が遠退き、特に母親は、固定電話が鳴ることにさえも怯えるようになっていた。


 そんな矢先の懐妊だった。


「よかったな!よかったな!律子!」

「…ええ、ええ、」


 涙を流しながら喜ぶ旦那の姿を、同じく涙を流しながら見ていた妻では、少し心持ちが違う。


「…本当に、よかった…」


 子供が出来た喜びよりも、親戚からのプレッシャーから逃れられることに、母親は心底安堵していた。




「あ、しまった!今日ダイエーで醤油が特売だったんだわ!」


 時計を見遣ると、針は午後四時を指している。


 めっきり寒くなった気候は夜の帳も早めに下ろす。

 急ぎ、母親は赤い半纏に袖を通すと、厚めの靴下を履いて、つっかけでそのまま外に出た。


 カランコロンと木底のつっかけがアスファルトを軽やかに弾く。


 少し足早に路地の角を曲がった時、


「……あ!」


 不意に飛ぶ込む目映い光に思わず目を瞑る。


 キキキキキーと、青い車の甲高いブレーキ音が、静観な住宅街を引き裂くように無慈悲に鳴り響いた。


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