第38話 天皇賞



 決戦の秋が来た。



 天皇賞六千メートル。スタートからゴールまでのコーナーは二回。直線は長く、旋回の上手さより速さや力強さといった純粋な能力の高さが求められる。出翔数は十六騎。絶対王者のメテオライトを除いても良いメンバーが集まった。ダテノアジュールは十四番人気になり、人龍共に終わった扱いされている。



「……好きに乗ってこい」



 好連さんから手綱を受け取り、俺はダテノアジュールに跨った。本龍場に飛んでいき、目立たないよう隅の方でウォーミングアップを済ませる。それでも十二分に分かった。俺もダテノアジュールも調子は最高だ。



 不意に、競龍場の雰囲気が変わった。



 メテオライトが返し龍をしている。その龍体は燃えていた。調教の時はどす黒い赤だった龍体が、今は陽光を浴びて透き通った紅に煌めいている。それは、闘争心を剥き出しにしたような激しくも美しい輝きだ。



 向こうも調子は最高か。でも、勝つのは俺たちだ。



 各龍の返し龍が終わり、山頂に陣取るスターティングゲートに龍たちが集まる。ファンファーレが鳴り、観客が盛り上がる。何機かの龍が興奮するが、ダテノアジュールやメテオライトは落ち着いたものだった。勿論、俺や頼安も冷静だ。



 誘導員に促され、俺たちはゲートに入った。ダテノアジュールは二枠四番、メテオライトは四枠八番。特に可もなく不可もなくの枠順だ。G1の舞台らしく各龍のゲート入りはスムーズに行われ、間もなく全龍がゲートに収まる。



 ダテノアジュールはゲート内で落ち着きすぎるきらいがある。俺は身体を揺らして常に重心を移動させ、小刻みにダテノアジュールの肢を動かした。



 スタートした。



 理想的に端を切れた。即座に最内を取って最短距離でコーナーを目指す。視界の隅には同じくロケットスタートを切ったメテオライトが映っている。



 行きたいなら行け。俺はシミュレーション通りに飛ぶだけだ。俺は頼安に顎で合図を出す。しかし、メテオライトは動かない。先手を取るでもなく後ろに控えて風の抵抗を抑えるでもなく、俺たちの横にぴったり着いている。



 そのままコーナーに突入した。メテオライトに不気味なものを感じつつ、俺たちは上昇旋回を行った。同じく小型龍のメテオライトも上昇旋回を決め、俺たちの横をキープする。その隙に大型龍が突っ込んできて、下降旋回から持ち前のパワーを生かして低空から勢い良く斜面を登っていく。



 ここだ。



 俺は鞭を左手に持ち替えた。手綱を咥え、そこに右手を引っかける。足腰だけで自分の躰をダテノアジュールに固定する。全力で鞭を振るおうとした。



 左手が、動かなかった。



 鞭が振るえない。ここで先頭の大型龍の後ろに着き、体力を温存して山を登り切る。その為には今、ここで無理をして好位を取るしかない。



 行け、動け、俺は叫び、左手に力を入れた。



 だが、動かない。



 無理をさせて翼が折れたセヴェリンが頭に浮かぶ。墜落するダテノアジュールの姿が浮かぶ。その二つが重なり、俺の左手を雁字搦めにする。そうこうしている間に状況が悪くなっていく。



「……クソっ」



 俺は仕方なく手綱を引き、四番手の龍の後ろに着ける。何故かメテオライトは俺たちをぴったりマークしていた。



 山頂を超える。麓の景色が広がった。大型龍はさらに高く上がり、俺たち小型龍は早々と下降を始める。



 長い直線下り。形の優れた龍たちが真価を発揮する。あっという間に最高速に達し、並ぶ暇なく俺たちを抜き去っていく。さらに上空から勢いをつけた大型龍が落ちてきて、凡庸なダテノアジュールは七番手まで下がった。メテオライトはやはり、俺たちの隣から動こうとしない。



 頼安は何を考えている。あいつが俺をマークするのは理解できる。でも、ダテノアジュールを警戒する理由はない。好メンバーが揃ったこのレース、俺たちより気にするべき相手は大勢いる。一体、何を企んでいる。



 思案している内に最後のコーナーに差し掛かる。それぞれが好位を取ろうと急激に龍群がごちゃ付き、競龍の中でも最も墜落が発生しやすい場面になった。



 俺には勿論、行くべき道がはっきり見えていた。



 手綱を操り、鐙を踏み込み、やや上昇気味の水平旋回に移った。面白いように龍群が割れ、目の前がぽっかり開く。そこに、俺たちは突っ込んだ。



 いや、メテオライトも来た。



 しかも旋回が激しい。俺たちに急激に寄ってくる。ぶつかる。墜落。それらが頭を過った瞬間、俺は僅かに手綱を引いていた。



 ダテノアジュールが横に逸れる。その分スピードがガタ落ちする。後ろの龍たちに抜かれていく。俺たちはどんどん位置を下げていく。



「まだだ!」



 他龍の位置は全て把握している。丁度真下に、出翔龍の中でも最もパワーのある雌龍がいる。それに着いていけば今のロスは十分カバーできる。



 視界に目的の龍が映った。巨体に巨翼、一回の羽ばたきでぐいぐい斜面を登り、エンジンでも積んでいるように軽々と登っていく。えげつないパワーだ。ただ飛んでいるだけではダテノアジュールは置いて行かれる。



 俺は鞭を構え、そこで、また動けなくなった。



 ダテノアジュールは大丈夫なのか。中年ぐらいの年齢に差し掛かり、骨の硬化は始まっている。思いっきり鞭を奮って急き立てても無事でいられるのか。セヴェリンのように翼が折れ、墜落したりしないのか。



 負ければダテノアジュールは処分されるかもしれない。だから行くしかないのは分かってる。翼が折れる可能性を無視しても無理強いさせる必要があるのは理解してる。



 でも、鞭を持った左手がどうしても動いてくれない。



「どうすれば良いんだよ……」



 俺は項垂れた。



 もう龍の死なんて見たくない。俺の手で龍を殺すような真似なんてしたくない。引退レースがなんだ。勝ったからって何がある。天皇賞を取ってからと言って、ダテノアジュールが処分されない保証なんてあるのか。



 所詮競翔龍なんて、龍主の声一つでその後が決まる道具でしかないのに。



 ふと、風が弱くなった。



 なんだ。俺は頭を上げる。眼の前に、例の大型の雌龍がいた。俺たちはぴったりとその龍に後ろに着いている。下がりきった位置も九番手まで上がっていた



「……そうか」



 ダテノアジュールは賢い龍だ。俺が指示を出さなくても、レースの進め方は分かっている。この大型龍に着いていくのが唯一の勝機だと見抜いている。



 良い龍だ。こんな龍、死なせたくない。



 上りが終わる。先頭の龍たちがひと塊になって最後の直線を下っていく。俺たちも大型龍に続いて下降を始めた。



 ダテノアジュールに余力はばっちり残っていた。役目を終えた大型龍を交わし、八番手に踊り出る。前の七騎はそれぞれが前方を確保して散らばり、俺たちが抜き去るスペースは埋まっている。体力的には十分行ける。しかし、通る場所がない。



 墜落覚悟で突っ込む。勝つにはそれしかない。



 行くのか。



 また接触して、今度は死ぬかもしれない。俺が死ぬのは別に良い。でも、俺が無理をさせたせいでダテノアジュールが死ぬのは絶対に嫌だ。



 分からない。勝たなければダテノアジュールは救えない。でも、勝たせる為に負うリスクはとてつもなく大きい。



 分からない。分からない。



「俺は、どうしたら良い……」



 その時、天啓が降ってきた。



「……そうだよ」



 勝たなくて、良いんじゃないのか。



 龍主が処分すると言っても、俺がダテノアジュールを引き取ろう。一騎の龍の面倒を見るだけの金はある。自由に飛ばせてやることはできないけど、それは種牡龍になっても同じだ。それならここでレースを諦めて、ダテノアジュールを引き取る方が賢明なんじゃないのか。それならダテノアジュールは絶対に死なない。俺はもう、龍を殺さなくて良い。



 ふっ、と躰が軽くなった。



 何かから解放されたような気分だった。それはプレッシャーか責任か。良く分からないけど、清々しささえ感じる心地良い気分だ。



「……お疲れ様」



 自分自身に言ったのか、ダテノアジュールに言ったのか。ともかく、俺はレースを止めようと手綱を引いた。 



 ぐい、とダテノアジュールが抵抗した。



「……おい」



 手綱を引く。ダテノアジュールが抵抗する。それどころか力強くはばたき、急加速して進出する。上りでバテた龍たちを次々に抜き、どんどん順位を上げていく。風切音が迫力を増していく。



「おい……もう良いって」



 手綱を引いて速度を落とそうとしても、却ってダテノアジュールは速度を上げた。仕方ない。俺は思いっきり手綱を引っ張った。ダテノアジュールの首が曲がる。



 眼が合った。



 勝ちたい。このレースに勝ちたい。



 そう、言われたような気がした。ダテノアジュールはさらに速度を増して、ついに四番手にまで上がった。前方には三騎、真横にはメテオライトがしっかり着いてきている。



 声が聞こえた。



 風切り音に交じって、歓声が轟いている。十万を超える観客が山肌を埋め尽くし、声にならない音を上げている。それぞれがそれぞれの思いを胸に、必死に声を出して声援を送っている。



 何故か、胸が高鳴った。



 今まで何度も見てきた光景なのに、初めて見たような気がする。



 検量室前には関係者が集まっていた。ここからじゃ見えないけど、好連さんたちもいる。龍主、調教師、厩務員、それぞれが最大限にできる事をして、天皇賞という大レースに競翔龍を送り込んだ。



 麓の街並みが眼に入る。



 綺麗だった。山の頂上から凄まじい速さで滑空しながら見る景色の良さは、実際に龍に乗ってみないと分からない競龍騎手だけの特権だ。



 思い出す。



 子供の頃、競龍騎手が頭に付けたカメラで撮った映像を見た。苦しい斜面を登り切り、ばっと広がる麓の街並み、どこまでも続く空と海、そこかしこで上がる湯けむり、そこに勢い良く突っ込んでいく圧倒的な迫力、あれを見た瞬間、俺は競龍騎手になろうと思った。



 あれほど憧れていた景色が、久しぶりに見たように思える。いや、見ていたけど何も感じていなかった。それぐらい、周りが見えていなかった。



 俺は、手綱を緩めた。



「行けよ」



 ダテノアジュールが加速する。俺は、補佐するだけに留めよう。



 前方はニ騎。ゴールまでそう距離はない。いちいち迂回している暇はない。進むべきは一点、僅かに空いた最内最低の経済コース、前方の龍と地面を擦るような狭い道だ。



 手綱を操って行先を教えてやる。ダテノアジュールは俊敏に反応する。地面と龍の隙間に潜り込り、影のように潜伏する。勝負の一瞬まで完全に気配を殺す。



 ダテノアジュールが行きたがる。まだだ、俺は手綱を抑えた。先頭の二騎は俺たちの存在に気付かずデッドヒートを繰り広げている。でも、二騎とも限界が見え隠れしている。必ずどちらかが先に音を上げる。その瞬間、勝った方は気を緩める。そここそが、俺たちの勝機だ。



 真上の龍が、僅かに沈んだ。



 今だ。俺はゴーサインを出した。ダテノアジュールが一気に突出する。後はもうゴールだけ。我慢した分だけ弾けるように一瞬で先頭に踊り出る。



 気配を感じた。



 頼安とメテオライトが、俺たちの真横にいた。



 疑問が膨れ上がる。



 何故、メテオライトは俺たちをずっとマークしてる。途中はまだしも今は最後の直線下り、とっくに先頭に立って後続をぶっちぎるなり、大外上空一気を決めるなりしている筈だ。それなのに、何故しない。何故、俺たちをマークしている。



 頼安の手が動く。



 背筋に寒気が走った。まずい。考えるより前に危機感が躰を動かし、メテオライトから離れようとする。最初に反応したの利き手の右手、でもこっちじゃ対応しきれない。遅れて左手で手綱を引こうとする。メテオライトが迫ってくる。



 これが俺の、行き着く先か。



 妙に冷静だった。頼安が俺をずっとマークしていたのは、俺にぶつかって墜落させる為か。コーナーで一気に寄ってきたのもそうか。競龍界の至宝と言われるメテオライトと頼安の命を失う事になっても、城井は俺を潰そうとしている。



 今なら分かる。俺はそうされても仕方がない事をしてきた。申し訳ないのは、それにダテノアジュールを巻き込んでしまった事だ。



 メテオライトがぶつかってくる。もう避けられない。ごめん、お疲れ、そんな気持ちを込めて俺はダテノアジュールの首を撫でる。



 瞬間、ダテノアジュールが翻った。



 人間よりも遥かに早く反応して、メテオライトを華麗に避けて上昇する。それだけじゃない。メテオライトは寄れた分速度を落とした。ダテノアジュールも避けた分減速したけど、高さを得た。



「……まだ、だよな」



 俺は笑っていた。



 競龍において、高さは速さだ。ゴールは目前。高さを得たダテノアジュールが再度加速する。直ぐに、メテオライトも態勢を整えて追ってきた。ゴール板はもう目前、しかしメテオライトの実力なら寸前で交わされるかもしれない。



 騎手の俺にできる事は、もう何もない。



 最後の直線下り、競龍騎手はどうしようもなく無力になる。道中と違ってペース判断もポジション取りもなくなり、鞍に張り付いて空気抵抗を減らすしかする事がない。



 視界にゴール板とメテオライトが同時に映る。凌ぎきるか、交わされるか。俺はできるだけ邪魔にならないよう鞍にへばりつき、ダテノアジュールの力を信じた。



 俺はどうしようもなく無力だ。今更になって痛感する。



 それが、最高に嬉しかった。



 俺は一人じゃない。無力になって身を任せられる相手がいる。無力になっても助けてくれる人がいる。頼安だってそうだ。自分の身を危険に晒してでも俺を止めようとしてくれている。



 空気中の塵が顔に当たってチクチク痛む。聴覚は風切り音に支配されている。猛烈な向かい風で呼吸ができなくなる。全ての感覚が中心に集まり、酸欠で薄れゆく意識の一点だけが強烈に覚醒する。



 そして、ほとんど同時にゴール板を駆け抜けた。



 着順は写真判定にもつれ込んだ。競龍場は静まり返り、さざ波のようにどよめいている。でも、騎手なら判定を見なくてもどちらが勝ったかは分かっている。



 頼安とメテオライトが本龍場を去っていく。俺たちはウイニングフライトをする。



 山が、思い出したように震え上がった。

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