第20話 萎えかけ



 葵は直ぐに三砂に謝った。しかし逆に迷惑をかけたと謝られてしまい、時を改めて謝った重連には悪いのは俺だの一言で済まされ、心の置きようが分からないまま仕事を始めた。



「なんでキングフィッシャーが外にいないんだ?」



 親次の声がした。空いた龍房を掃除していた葵は、事情を説明しようと表に出る。



「私のミス」



 そこで言葉が詰まった。キングフィッシャーの龍房の前にいる親次の眼が血走っている。葵を見た。つかつかと歩み寄ってくる。手首を掴まれた。引っ張られる。



 事務所に連れ込まれた。



「遊びじゃないんだぞ!」



 怒声。葵の肩が竦む。親次の顔は紅潮し、息を大きく乱して眼光鋭く葵を睨みつける。



「辞めろよ、厩務員」



 葵の心臓は激しく鼓動していた。親次が烈火の如く怒っている。その事実が何より葵を動揺させる。何か言わなければ、そればかりが先に立って言葉が出てこない。



「何か言えよ」



「……ご、ごめん」



 なんとか、一番大事な言葉だけは口に出せた。しかし親次の怒りは治まらない。



「謝るぐらいなら最初からちゃんとしろよ。たかが毛引き症なんて甘く考えるな。そのたたかがで、何十万、何百万て損害が出るんだぞ。分かってるのか!」



 何の言い訳もできなかった。



 親次は競龍に命を懸けている。そこまで親次を熱くさせる競龍に失礼を働いた。何より、キングフィッシャーを頼むと言った親次の期待を裏切ってしまった。



「良いか! 競龍はギャンブルだ! 競翔龍は経済動物だ! 金を稼げない龍に存在価値なんてないんだよ! それをお前は、全部台無しにしたんだよ!」



 それは、ほんの小さな違和感だった。



「今のキングフィッシャーは穀潰しだ。存在価値がないどころか、龍主にとってはいるだけで迷惑な存在なんだよ! そうしたのはお前だ、葵!」



 瞬く間に違和感が大きくなる。それは申し訳なさを飲み込んで、親次への敬意すらどこかへ押しのけていく。



「……チカにとって、競龍って何?」



「金だ」



 即答。断言。尊敬が、音を立てて崩れていく。



「チカは……お金の為に龍に乗ってるの?」



「当たり前だろ。勝って勝って稼いで稼ぐ。その為に競龍騎手やってるんだよ」



 親次は変わってしまった。



 競龍という大金の動く世界に変えられた。そこに、憧れた人の姿は影も形もない。



 全ては葵の勘違いから始まった。親次は情熱という綺麗なものに命を掛けていたのではない。薄汚れた金欲しさに命を懸けていた。



 あれほど知りたかった事が、最悪の時に最悪な理由として判明した。



 もの寂しく、奇妙にすかっとした気分だ。なぜか周りの音がはっきり聞こえ、しかしどんな音も喧騒のように通り抜けていく。視覚に映る全てはぼんやりとし、水彩画の背景のように見えてきた。



「……もう良いかな」



 呟いて、葵は踵を返した。親次が何かを言っているが、言葉として認識できなかった。競龍場を離れて、無意識に動く足に任せて歩いていく。



 自宅にいた。



 気付けば陽も暮れている。駐車場には母の車が停まり、家から照明の光りが漏れている。母と会えば色々とうるさく言われるのだろうか。それでも良いか。今はとにかく、久しぶりに自分のベッドで横になりたい。



 家に入る。ややって、おかえりという母の声が聞こえた。葵が何も返さずに自分の部屋にいこうとすると、リビングから母が飛び出してきた。



「葵……あなた」



 顔を見る気にもなれなかった。



「……何?」



 声を出すのも億劫で、辛うじてその一言が葵の口から零れる。



「その……何かあったの?」



 会話をする気にはなれない。葵は無言で自分の部屋に入った。ベッドに倒れこみ、眼を瞑り、眠りに落ちる。



 翌朝、最近の習慣から空が白んだ頃に眼を覚ました。



 今から一萬田厩舎に向かえば始業時間には間に合う。不意にそう思うが、行ってどうなる。重連からは事実上、いてもいなくても同じだと言われた。厩務員を始めた理由でもある親次は、金の亡者に成り下がっていた。



 これ以上厩務員を続ける意味はあるのか。続けなくてはいけない責任はあるのか。しばらくベッドでまどろみながら悶々とし、ふと、大学の存在を思い出す。



 今日も大学の講義はある。このままベッドで悩んでいても前に進める気がしない。それなら、気晴らしに大学に行くのもありか。



 葵はしばし考えて、大学に通った。



 厩務員になる前より退屈な時間だった。講義も詰まらなければ、この先に続いているのが金の道かと思うと余計に身が入らない。ただただ昨日から続くうたた寝にも似た朧げな感覚のまま、全ての講義を受け終わった。



 久しぶりに会う大学の友人と記憶に残らない会話して大学を後にする。しかしすぐに家に帰る気になれずに寄り道をしてみる。



 結局、帰りたくないだけだ。母との関係も改善したわけではない。自宅には帰り辛く、一萬田厩舎に行くわけにもいかない。葵は途中にある海沿いの公園に行き、ベンチに座った。呆然と海を眺める。



「志賀さん、だっけ?」



 目の前に青年が立っていた。吉弘純景だ。白シャツに駄菓子屋の茶色い袋を両手に抱え、妙に子供っぽい恰好をしている。



「やあ、食べる?」



 ビーフジャーキーのような駄菓子を貰った。小学校の遠足前日、親次が好きだと言って何枚も買っていた駄菓子だ。



「それ、親次が好きなんだよね」



 言いながら純景は葵の隣に腰を下ろした。二人の間に駄菓子の袋を置き、中から十円ガムを一つ取って口に投げ入れる。



「落ち込んでるみたいだけど何かあった?」



 一度しか会ってない人間にも気付かれるほど、態度が表に出ているのか。どうしようか悩んだが、純景は中央競龍の厩務員だ。キングフィッシャーにどう対応すれば良かったのか、それぐらいは相談しても良いかもしれない。



 葵はキングフィッシャーを任された事、自分のせいで毛引き症を発症した事を話した。



「あー、ハンドレアードは難しいからね。初めてならそういう事もあるよ」



 慰め。三砂も、厳しくはあるが重連もそう言っていた。



 今になっても疑問に思う。そこまで難しいと言われるタイプの龍の世話を、何故三砂に任せたのか。重連が厳しいのは間違いないが、やはり三砂への優しさは本物だ。キングフィッシャーのせいで三砂が体調を崩すのも想像できていたろう。それなのに何故、もっと世話が簡単な龍を任せなかった。



「それはさ、安全だからだよ」



 尋ねてみると、純景は棒状のゼリー菓子を咥えてそう答えた。



「ハンドレアードは人間に育てられた個体だから、人間を仲間だと思ってる。だから普通の龍が人間相手に見せない変な行動をするけど、人に慣れてるからよっぽどの事がない限り危害は加えない。対してペアレントレアード、龍に育てられた個体は一見すると大人しくて扱いやすいけど、実際は野生だからふとした瞬間に命の危険がある」



 安全でも難しいハンドレアード、危険でも扱いやすいペアレントレアード。



「最初にどっちを任せるかはテキの考え方によって違うけど、一萬田さんは優しい人なんだろうね」



 やっぱり、そうなのか。



「……吉弘さんなら、キングフィッシャーをどう世話しますか」



「志賀さんと同じような状況だとしたら、できるだけ慣れてもらうようにするかな。寝る時も龍房の前で寝たりとか。とにかく、お互いの事を知るのが先決だと思う」



「そうすれば良かったのか……」



 純景は微笑する。



「正解なんてないけどね。若いハンドレアードなんて問題児だから問題なんて起きて当然、気にはしても引きずる事じゃないよ。というかさ」



 純景は駄菓子を食べるのを止め、ベンチに跨り葵に向き直った。



「落ち込んでるのって、親次に怒られたからでしょ?」



「……チカに聞いたんですか?」



「うん、昨日調教後に会ったらめっちゃ怒ってたね」



 そう言って、純景は心底楽しそうに笑った。



「競龍学校でもあんな感じだったんですか」



「いいやあ、多分だけど志賀さんが知ってる親次と同じだと思うよ。変わったのは騎手二年目になる頃だと思う。俺も連絡は取ってたけど道が違うから、何があったかまでは知らないけど」



 その頃の親次に何があったのか。



 あの時はまるで金が全てと言わんばかりの口ぶりだったが、中学卒業までの親次はそうではなかった。家は中流家庭で、良くも悪くも金に左右されない人生だった。積もり積もった金への執着など欠片もない筈だ。



 親次のあの発言は、明らかに不自然だ。



「競龍って、そんなにお金が大事なんですか」



「夢はあっても商売だからね、間違いなく大事だよ。親次がそう言ったわけ?」



「はい。勝って勝って稼いで稼ぐ、その為に騎手をしてるって」



「なるほどね……」



 純景は座り直し、海に眼を向けた。夏の海面はきらびやかでも穏やかに、防波堤に寄り掛かるようにぶつかって、何事もなかったかのように引いていく。



「俺は誰よりも龍が好きだ」



 静かに、純景は宣言した。



「そう思って競龍学校に入った。でも、上には上がいた。それが親次だ」



 当時を思い出したのか、純景の表情が柔らかくなる。



「競龍とは無関係に育ったっていうのもあったけど、乗るのも世話するのも誰よりも熱心に時間を掛けて丁寧にしてた。俺たちと一緒に馬鹿な話をしてるより、龍と一緒にいる方が楽しそうだった。それで思ったよ。こいつには敵わないって」



 その様子が、ありありと脳裏に浮かんだ。



 親次はいつも楽しそうに何かをしていた。怒った事なんて滅多になかった。親次は、そういう人だった。



「親次が変わったのは事実なんだろう。でも、あの龍好きだった親次が龍を傷付ける危険騎乗を繰り返すようになった理由だ。尋常な理由じゃないだろう。だからさ」



 純景は立ち上がり、葵に笑いかける。



「俺たちの知ってる親次を信じてみようよ」



 この人も自分と同じだ。



 今の親次が信じられず、信じたくないと思っている。親次は変わった、それはもう間違いない。たが、どんな理由で変わったのか。そして、根本まで変わってしまったのか。



 ここで脱落するわけにいかない。



 友人として、幼馴染として、憧れた人だからこそ、ここで勝手に見限って袂を分かつわけにはいかない。



「ありがとうございます!」



 葵は頭を下げ、駆けた。



 向かう先は扇山競龍場の一萬田厩舎。無断で一日仕事をさぼってしまった。許してもらうまで謝って、もう一度厩務員の仕事をしよう。



 親次が競龍の命を懸ける、本当の理由を知ろう。

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