第2話 龍の厩舎



 珍しく、諦めようとは思わなかった。



 直接聞いて駄目なら周りから情報を集めるしかない。葵は急いで家に帰り、腰を落ち着けて戸次親次についてインターネットで検索した。



 墜ちた怪物。



 それが、親次のあだ名だった。一年目に新人としては優秀な成績を収め、二年目で大化けした。危険を辞さない荒っぽい騎乗から怪物と呼ばれ、しかし墜落して大怪我を負った。さらに地方競馬に所属を移した事から、二つの意味で墜ちた怪物と名づけられたらしい。



 ここまではなんとなく知っていた。物理的な距離が開いて少し疎遠になったが、幼馴染の活躍は度々調べたり、本人からも聞いていた。さらに調べてみる。



 親次の話題は競龍界でも一番の盛り上がりを見せているようだ。即引退レベルの怪我を負っても現役を続ける理由、その騎乗スタイル、技術の高さ、色々とあるが、気になったのは親次の移籍問題だ。



 何やら、中央競龍所属の騎手が地方競龍に所属を移すのは前代未聞らしい。移籍自体は度々あるが、全ては地方から中央への移籍で、その逆はあり得ないという。その荒っぽい騎乗もあってダーティな理由で移籍するのではないか、そんな噂も流れていた。



 つまりは、金絡みの問題だ。



 親次と金、どうにも結び付かない。親次の実家は普通の家庭で、良くも悪くも金に振り回される人生ではなかった。当の本人は取材に対し、移籍理由をリハビリの為として、いずれ中央競龍に戻ると答えている。



 ネットで調べて分かるのはその程度だった。真実は分からない。はっきりしているのは、親次が異常なまでの熱意を競龍に注いでいる事だ。



 異常な熱意。それこそが志賀葵に足りないもの、知らなくてはならないものだ。



 だが、本人には聞けそうにない。どんなに問いただしても結果は同じだろう。周りの人に聞くか。共通の知人で親次の熱意を知ってそうな人物と言えば、まずは親次の親だ。



 早速電話して聞いてみた。



「ごめんね。ほら、あの子って大事な事に限って隠すから。一度帰ってきたけど、厩舎街って言うの? そっちの方に家を借りたらしくて。悪い事してるわけでもないから止めたり問い詰めたりするのも、ねえ?」



 うっすら想像していた答えが返ってきた。



 他にも共通の知人や友人はいるが、親次がそんな大事な話をする人間がぺらぺら話すわけがない。親次と同じぐらい口が堅いだろう。



 結局、良いアイディアが浮かばないままベッドに入り、朝を迎えた。



 セットしていたアラームが鳴り、寝ぼけた頭で躰を動かしていつものように大学に向かう。しかし勉強する意欲が湧くわけもなく、二日連続で講義をサボり、敷地内のベンチに腰を下ろして曇り空を見る。



「……何してるんだろう」



 昨日も同じ事を言った気がする。いや、二日前も三日前も言った気がする。何をするわけでもなく時間が過ぎていく。一番良くない状況だ。



「あれ、葵ちゃん?」



 聞き覚えのある声がして、葵は反射的に挨拶を返し、それから声の主に眼を向けた。



 一萬田三砂。



「何で、ここに?」



 三砂がにかっと笑った。



「それはこっちの台詞だって。なんだ、葵ちゃんって同じ大学に通ってたんだね。ちなみに私は四年、葵ちゃんは三年で良いんだよね?」



 突然の再会に困惑しつつ、葵は頷いた。



「って、厩務員じゃなかったんですか」



「それはバイト。私のお爺ちゃんがここの競龍場で調教師をやってて、その手伝い。あ、親次君が所属するのがそのお爺ちゃんの厩舎ね」



 そういう繋がりか。



「チカ、親次とは前から知り合いなんですか」



「直接会ったのは昨日が初めてだよ」



 その割には妙に馴れ馴れしかった。いや、三砂がそういう性格なんだろう。葵は妙な安心感を覚え、ふと閃いた。三砂は親次の関係者だ。



「チカはどんな感じですか」



 三砂の意志の強そうな眉が曲がった。



「どんな感じって言われてもねえ。葵ちゃんの方が知ってると思うけど……」



 質問が悪かった。葵はしばし口を噤み、もう一度質問した。



「どんな騎手なんですか」



「あーごめん、申し訳ないけど映像以上の事は知らないかな。私はちゃんと龍の勉強した厩務員じゃないし、親次君もまだ龍に乗ってないから」



 改めて考えると当然の答えか。昨日今日会った人間が知る由もない。それも厩務員とは言え、龍の勉強していない人間だ。



「あれ?」



 声が漏れる。三砂が不思議そうに見てくる。



「競龍の厩務員って、簡単になれるものなんですか」



「中央競龍は資格が必要だけど、地方競龍は調教師がうんって言えばなれるよ。何、競龍に興味があるの?」



 三砂の顔の血色が明るくなる。葵はそれに気付かず、手がかりの発見に歓喜した。



 親次が競龍に掛ける思いを知りたければ、競龍を知れ、だ。そして、見るよりも体験する方が何倍も良い。葵は、三砂の両手を掴んだ。



「私も厩務員になれますか?」



 三砂が呆気に取られる。しかし直ぐに、葵の両手を握り返した。



「なれるよ! 良し! 善は急げ、葵ちゃんまだ講義ある!?」



「ありません!」



 即答で嘘を吐いた。気にしない。気にしてなんかいられない。



 競龍場のある扇山に向かった。その麓には市街地から隔絶して小さな街が出てきている。厩舎街と呼ばれる競龍の関係者が住む区域だ。存在は認識していたが、立ち入るのは初めてだ。外見は普通の住宅街と変わらない。そこを突っ切ると、体育館のような建物がいくつも並ぶ広大な一画が見えてきた。



「あれが厩舎、龍がいるよ。眼、合わせないでね」



 そう言った三砂の声は、少しだけ低かった。葵は無意識に唾を飲み、三砂の背中に張り付くようにして後に続いた。



 龍が歩いていた。厩務員に手綱を引かれて、向こうから歩いてくる。



 大きい。



 龍を初めて間近で見た感想は、その一言に尽きた。



 地面から頭までの高さは葵の背丈の倍、三メートルは優に超えている。その巨体を支える二本の脚は象のように太く、爪はナイフそのままで、嘴は葵の頭を丸呑みにできそうだ。



 まさに恐竜。



 襲われればあっさり殺される。視線は合っていないのに、存在感だけでも冷や汗が流れてくる。本能が逃げろと騒いでいる。龍が近づき、すれ違いそうになる。龍の鋭い眼が、葵をしっかり捉えている。



 不意に、三砂が手を握ってきた。



「大丈夫。龍はヒトの次に賢いから襲ってこないよ」



 あやす様な声。高ぶった葵の心が落ちていく。龍が視界から消えていく。葵の口から、どっと息が漏れた。それから龍に会う事はなく、目的の場所についた。



 体育館のような建物の隣にある家の玄関を、三砂は躊躇なく開けて声を上げた。



「お爺ちゃーん。厩務員のバイト雇ってほしいんだけどー」



 返事はなかった。三砂は待たずに家に上がり、葵は黙って着いていく。畳の敷かれた狭い休憩室のような部屋に入ると、老人が新聞を読んでいた。



「お爺ちゃん聞いてた?」



 それが三砂の祖父の一萬田重連だろう。



 歳は七十手前というが、若者のように背筋は伸びていた。厳しい眼に神経質そうな顔付き、やせ型で背も高く、いかにも取っつきにくそうな外見だ。



「志賀葵です」



 重連は無言で葵を見つめる。三砂の祖父だけあって丹精な顔立ちだ。それが却って睨んでいるような凄味を生んでいる。



「……きついぞ」



「大丈夫です」



 重連は新聞に眼を戻し、ややあって口を開いた。



「三砂、お前に任せる。龍には近寄らせるな」



 どういう意味だ。葵は三砂を見る。瞬間、三砂が抱きついてきた。



「おめでとー!」



 厩務員になれたのか。遅まきながら喜びが湧いてくる。



 これで競龍に関われる。騎手と厩務員、立場は違うがこれ以上競龍に近い立場はない。それも働く場所は親次の所属する厩舎だ。



「そうと決まったら、今度はじっくり龍を見ようよ!」



 三砂に手を引かれて家を飛び出した。体育館のような厩舎に入り、龍の家である龍房の前で足を止める。そこには、青い龍がいた。



 中央でぼんやり佇み、胡乱そうな眼を向けてくる。さっきの龍と同じような眼付きなのに、なぜかそう感じた。それは鉄格子あるからか、曇り空で薄暗いからか、妙にのんびりとした雰囲気が漂っている。



 これなら龍をじっくり観察できる。すると、今まで見えなかった龍の別の側面が見えてきた。



「綺麗……」



 羽毛と鱗、どちらにも寄らない不思議な龍の表面は、薄暗がりに艶めいていた。その体色の濃い青も相まって、黒髪の女神のような見るも恐れ多い色気を醸し出している。それでもついつい触ってしまえば、滑らかでひんやりとした感触が迎えてくれそうだ。



「これが、龍だよ」



 これが、龍か。恐竜のような迫力と女神の美しさを併せ持つ、これが龍なのか。



 不意に、陽光が差し込んだ。龍房がぱっと明るくなる。その時、龍が翼を広げた。



 神々しい。



 それ以上の思考は不敬だと思った。それでも、想像せずにはいられない。自らが光を放っているような美しい龍の背に跨って、風を切って大空を舞う。一体、どれほど気持ち良いのだろうか。きっと、どんな悩みも彼方に吹き飛んでしまうだろう。



 親次が競龍に掛ける思いが、少しだけ分かった気がした。

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