オオカミは眠れない

 磨りガラス越しに聞こえるシャワーの音を聞きながら、おれの頭には「自業自得」だとか「因果応報」みたいな四字熟語が浮かんでは消えていった。

 柚子の家の脱衣所にしゃがみこんだおれは、余計な煩悩を追い払うように、ガシガシと乱暴に頭を掻く。

 子どもの頃は何度も一緒に風呂に入ったものだが、それなりに成長してからはさすがにそれもなくなった。最後に柚子の裸を見たのはいつだっただろうか。あの頃よりは、さすがにいろんなところが成長していると思う。磨りガラスの向こうにうっすらと見える肌色から、おれは慌てて目を逸らす。

 シャワーの音が止まった瞬間に、バスルームの中から「朔ちゃん朔ちゃん、そこに居る?」という声が響いた。


「……居るよ」

「い、今からシャンプーするから、適当に何か喋ってて」

「適当にって言われても……」

「後ろから誰かに見られてる気がして怖いの!」

「誰もいねえから」


 そもそも、風呂に入っている柚子を見ている「誰か」が居たとしたら、とっくの昔に俺が殺している。たとえそれが幽霊だとしても、だ。


「ねえ朔ちゃん、お願い」


 ……長年染みついた習慣というのは怖いもので、おれは未だに柚子の「お願い」を断ることができない。

 溜息をひとつついてから、おれは半ばやけくそになったように「むかしむかし、あるところにおじいさんとおばあさんが……」とうろ覚えの桃太郎を誦じ始めた。



 さて、そもそも何がどうなってこんな状況になったのか。話は少し前、今日の昼間に遡る。

 高校一年生の春休み、おれは可愛い幼馴染兼彼女である柚子と、いたって健全なおうちデートをしていた。柚子から「今日お父さんもお母さんも出かけてるから、よかったら遊びに来て」と誘われたのだ。


「ごめんね、片付ける時間なかったの。散らかってるけど適当に座って」


 謙遜でもなんでもなく、柚子の部屋はしばらく見ないうちに結構散らかっていた。床が見えないというほどではないが、ありとあらゆるものが出しっぱなしになっている。もともと、どちらかといえばズボラな性格なのだ。

 座ろうとしたクッションの下に、何かが挟まっているのに気付く。端を掴んでぐいと引っ張ってみると、ずるずると出て来たのはブラジャーだった。唖然としたおれは、思わずまじまじとそれを見つめてしまう。……へえ、Fカップ……。


「キャーッ!」


 血相を変えた柚子は、おれの手から勢いよくそれを奪い取る。真っ赤な顔でおれを睨みつけて、「ちゃ、ちゃんと洗ったやつだからあ!」と叫んだ。クローゼットを開けて、収納ケースの中にそれを押し込んでいる。あまりの慌てっぷりに、おれは思わず吹き出してしまった。


「いまさら気にするような仲でもねえだろ」

「……気にするもん。朔ちゃんのえっち。へんたい」


 柚子の言葉に、おれはさすがにムッとした。ガン見してしまったおれにも問題はあるのかもしれないが、下着をそのへんにほったらかしていたのは柚子の落ち度である。


「だったらちゃんと片付けとけよ」

「……たしかにそうだね。ごめんなさい」


 しょんぼりしてしまった柚子の手を引いて、膝の上に座らせる。柚子は素直に、おれの胸にこてんと頭を預けてきた。


「映画でも観ようぜ」

「うん」


 テーブルの上にあるタブレットを手に取って、動画配信アプリを開く。ちょうど観たいと思っていた映画が配信されていることに気付いて、おれは「あ」と声をあげた。


「おれ、これ観たい」

「へえ……どんなやつ?」


 あらすじやサムネイル画像からは一見青春映画のようにも見えるが、実際は学生のグループが謎の洋館に閉じ込められてから次々に人が死んでいくパニックホラーだ。そう説明しようとして、おれは口を噤んだ。柚子は筋金入りの怖がりで、雷と同じくらいにホラーが苦手である。

 やめておこうかと言おうとしたけれど、そのときおれの中に潜む「柚子をいじめて楽しんでいた悪ガキ」の部分が顔を出した。久しぶりに柚子の怖がる顔が見たい。あわよくば、キャーとか言って抱きついてほしい。さっき「へんたい」と罵られた仕返しをしてやりたい気持ちもある。

 ……まあ、そんなに怖くないって話だし、大丈夫だろ。

 おれは「観たらわかる」と言って、柚子を後ろから抱きしめたまま再生ボタンを押した。



 結論から言うと、全然大丈夫じゃなかった。

 途中からどうやら雲行きが怪しいぞと気付いたらしい柚子はほとんど半泣きで、おれの胸に顔を伏せてぎゅっと目を閉じていた。ほとんど画面は見ていなかったようだが、グロテスクな音が響くたびにびくびくと身体を震わせていた。おれにとっては役得だが、ちょっとやりすぎた。おれは柚子の背中を撫でながら、己の行いを後悔していた。


「柚子。大丈夫か?」

「うう……もう絶対一人で寝れない」


 柚子が瞳を潤ませながら、上目遣いにこちらを睨みつけてくる。その表情に嗜虐心がくすぐられたが、いやいや喜んでいる場合じゃないと自分を戒める。


「ごめん。おじさんとおばさんが帰ってくるまで一緒に居てやるから」

「……今日、お父さんもお母さんも帰ってこないよ」

「え」

「おじいちゃんの家に泊まりに行ってる……って、言わなかったっけ」


 柚子は瞬きをすると、愛らしく小首を傾げた。そんなこと聞いてない、絶対に聞いていない。おれの背中に冷たい汗が流れる。


「……今日は、ずっと一緒に居てくれる?」


 ねえ朔ちゃん、お願い。そう言って縋るようにぎゅっと抱きついてきた柚子を、このおれが突き放せるはずもないのだ。



 柚子と交代で風呂に入ったおれは、髪を乾かして歯磨きまで済ませると、柚子に連れられるがままに彼女の部屋までやって来た。そのあいだも柚子はずっとおれのスウェットを握りしめており、片時も離そうとしない。よほど恐怖が尾を引いているのだろう。

 柚子の部屋に、布団の類は敷かれていなかった。そもそも、散らかっているので布団を敷くスペースもない。おれがたじろいでいるうちに、柚子はいそいそとベッドに潜り込んだ。布団から顔を出して、俺に向かって手招きをする。


「朔ちゃんも早く来て」

「……いや、正気か?」


 さすがのおれも、そう言わずにはいられなかった。柚子はじっとおれを見つめたまま、ぱちぱちと瞬きをする。先日前髪を少し切ったらしく、可愛い顔がよく見える。


「一緒に寝てくれないの?」

「むしろこの状況で、おれが寝れると思うか?」

「ちょっと狭いけど、大丈夫だよ。あ、ぬいぐるみどけるね」


 柚子はそう言って、枕元にあるぬいぐるみを床に置いた。そういう問題じゃねーんだよ、とおれは頭を抱える。一晩好きな女の子と同じ布団の中にいて、何もせずにいられる男が一体どれだけいるのだろうか。

 実際、このまま「そういう」行為に及んだとしても、なんの問題もないのかもしれない。お誂え向きに二人きりだし、おれと柚子は紛れもない恋人同士だ。付き合ってまだ三ヶ月だし、ちょっと早い気もするが――柚子もきっと、受け入れてくれるだろう。

 ……でも、こんなに怖がってる女の子に手を出すのは、さすがに気が引ける。そもそも、彼女が怯えているのはおれのせいなのだ。ここで事に及んでしまうのは、なんだか後味が悪い。

 おれは悩んだ結果、一晩耐え抜く覚悟を決めた。眠れる気はこれっぽっちもしないが、明日も休みだしなんとかなるだろう。

 柚子の待つ布団に潜り込むと、柚子は猫のように身体を擦り寄せてきた。正直嬉しいが、あんまりくっつかれるといろいろバレそうでやばい。おれはさりげなく柚子の身体から己の下半身を遠ざける。

 柚子は枕元にあるリモコンで、部屋の電気を消した。闇に包まれた途端に、急激に心臓が早鐘を打ち出す。どこもかしこも柚子の匂いがする柚子のベッドの中で、柚子を抱きしめている。身体にむぎゅっと押しつけられた胸の感触が柔らかくて心地良い。Fカップ、と余計なことを思い出して頭がくらくらしてきた。

 三月の夜はまだ肌寒く、柚子はやや厚手のパジャマを身につけていた。華奢な背中に回した手が不埒な動きをしそうになるのを、おれはぐっと押さえ込む。うっかり覚悟が揺らいでしまいそうだ。

 思わず熱のこもった息を吐いたところで、柚子が「ひゃっ」と小さな声をあげた。甘さを含んだ声に、ぎょっとする。おれの胸に顔を押しつけたまま、柚子が恥ずかしそうに言う。


「へ、変な声出してごめんね……み、耳に息がかかって」


 ……へー、ふーん、そう。耳、弱いのか。

 思わぬ弱点の発見にテンションが上がって、おれはすかさず耳元に口を寄せた。「柚子」と囁くと、腕の中にある身体がびくんと震える。耳朶を軽く食むと、スウェットを握る手にぎゅっと力がこもるのがわかった。


「さくちゃん……」


 暗がりの中に、柚子の潤んだ瞳が浮かんでいる。その表情と声に、どうしても欲を掻き立てられてしまう。しまった、自分で自分の首を絞めてどうする。

 おれは「ごめん」と言って、ぽんぽんと柚子の背中を優しく叩いた。下半身の熱は余計に上がってしまったが、完全に自業自得である。

 小さな子どもをあやすように背中を撫でていると、次第に柚子の身体から力が抜けていった。眠たげなとろんとした声で「朔ちゃん」と名前を呼ばれる。


「朔ちゃん、わがまま言ってごめんね……」

「いや、いいよ。おれのせいだし」

「昔、わたしが怖がってると、いっつも朔ちゃんが一緒に寝てくれたよね……」

「……そうだっけ」

「うん。こうやってよしよしって背中撫でてくれて」


 そう言われれば、そんなこともあったかもしれない。そもそも、柚子を怖がらせていたのは大抵おれだった気もするが。下心一切なしで柚子と一緒に寝れていた、かつての自分が羨ましい。


「わたしね、朔ちゃんの腕の中が、一番安心する……」


 そう言って頰を胸に擦り寄せてきた柚子は、しばらくしてすやすやと穏やかな寝息をたてはじめた。おれは柚子の癖っ毛を指で梳きながら、もう何度目かわからない溜息をつく。おれの幼馴染は世界一可愛くて、ほんのちょっとだけ憎たらしい。

 信頼してくれるのは喜ばしいことだが、あまり安心してもらっても困る。おまえが一番安心だと言って憚らない男は、いつかおまえを食おうと躍起になっているオオカミだ。

 どうしようもなく昂ってしまった欲の責任は、無防備な寝息を立てているウサギにいずれ取ってもらうことにしよう。小さな傷が残る額に唇を落としながら、おれは眠れぬ長い夜のやり過ごし方を考えている。

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