第3話 弁護士?

 母と店の二階で寝泊まりする男が、住所不定のNだという情報が入った。

 母と私には共通の知人がいたが、その一人が母を案じて私に連絡をくれたのだ。

「お母さんがちょっと変なの……」

 いつの間にか、Nはカウンターの内側に入りこんでマスターを気取っているという。

 異変を察知した彼らの足は、とっくに店から遠のいていた。

 どうも、きな臭い……。

 いよいよ、私は店に偵察にいくことにした。

 私が店の戸を引いてドアベルを鳴らすと、どす黒い塊が裏口から逃げていくのが見えた。

 私が母に電話で忠告するのを、さんざんそばで聞いていたので、合わせる顔がなかったのだろう。


 母にNの件で忠告していると、突然電話がブツッと切れた。

 不審に思いかけ直すと、またブツッと切れる。

「もしもし?」

 ブツッ。

「もしもし?」

 ブツッ。

 それ以降、母の携帯電話は不通になった。

 Nが操作して宅電と私の携帯電話の番号を着信拒否にしたのだ。

 携帯電話の通話のオンオフもままならない母にそのリテラシーはない。

 店電はいくらかけても出る気配がなかった。

 

 いつの間にか、カウンターの後ろの壁一面に客の写真がピンナップされている。

 Nの写真は一枚もない。

 犯罪者は痕跡を残さないのだ。

 Nはそれを一枚いくらかで客に売りつけていた。

 引きのばして百均の額縁で額装した写真は、母に一式五千円で買いとらせていた。

 だが、その元手は母だった。

 私はNの不条理に、母の愚鈍に、確かな殺意を覚えた。


 私は母と懇意にしていたTからも話を聞いていた。

 いつものように店にふらっと飲みにいったTは、Nに殴られて母に近づくなと脅されたそうだ。

 それからというもの、宅電にも携帯電話にも非通知からの不審な無言電話が続き、気味が悪くなって母や店とは疎遠になっていた。

 Nが母の所持品を漁ってTの連絡先を突きとめたのだろう。

 Nは母を孤立させようと立ちまわった。

 洗脳の第一段階だ。

 Tは母よりひとまわり、Nは母よりふたまわり若い。

 昔から“愛らしきもの”を金で買ってきた母らしかった。


 母は呼吸するように嘘をつく。

 たいがい、見栄のためだ。

 知らないことを知っていると言い、ないものをあると言う。

 大風呂敷を広げる母に詐欺師の嗅覚が触れるのは時間の問題だった。

 それでも

「私は愛されている!」

と信じつづける母が、裸の王様のようで憐れだった。

 それで、ずいぶん若いうちに私は

『何があっても絶対に男には貢がない!』

と決めてしまったのだった。


「なんで逃げるの?やましいことがあるからでしょう?」

 母は私の問いに答えない。

 薄い唇を引きむすんでいる。

 母の目はとうに焦点を失っていた。

『今度ばかりは救えないかもしれない……』

 私は少しひるんでしまった。

 持参したエプロンを着け、カウンターの内側に入って母と並んだ。

 私の料理の腕前は一般的だが、注意欠如の特性から手順を踏めない母のそれと比べると、超人的に上手なのだった。


 しばらくして、犬を自転車のかごに乗せた身綺麗な初老の男性がドアベルを鳴らした。

 トリミングされたばかりでふわふわの白いトイプードルが、薄く開けた戸の向こうでおとなしくしている。

「あら、Mさん!いらっしゃい!」

 母の営業スイッチが入り、とびきりの笑顔で迎えた。

 どうやらMさんは常連らしかった。

「いらっしゃいませ!娘の薫です。はじめまして!」

「ほう、娘さん?ママ、生!」

「はーい。ただいま!」

 母がビールサーバーに向かうと

「本当に娘?全然似てないね」

 Mさんはスツールに腰かけながら小声でいぶかった。

「やっぱり……そうなんですかね?“ビジネス親子”って言われるんですよ(笑)」

 私は、母が小鉢に盛って用意していた業務用スーパーのきんぴらごぼうを突きだした。

 母がグラスビールを持って戻ると

「やっぱり女性はいいねぇ……」

 Mさんはしみじみつぶやいた。

 資産家のMさんは近くで愛人に店を持たせていた。

 母とは同郷のよしみで、この、ままごとのような店にボトルキープしてくれていたのだった。


「こういう店は男の影があっちゃ繁盛しない……」

 Mさんは暗にNを批判した。

「あんなに偉そうにされたんじゃなぁ……弁護士ってのはハッタリだろう?」

「弁護士っ!?」

 私はすっとんきょうな声をあげた。

 母からは何も聞かされておらず、初耳だったからだ。

 聞けば、近隣でのNの評判はすこぶる悪かった。

 弁護士気取りで喫茶店やファミレスをホームに相談料を請求していると言う。

 MさんがNから貰ったというペラペラの名刺には、所属する弁護士会や事務所の明記はなく、個人の携帯電話の番号すら記載されていなかった。

 子ども騙しもはなはだしい。

 この店で相談者を開拓して後日待ちあわせる寸法らしく、領収書の類いはいっさいふり出していない。

 足がつくのを恐れてだろう。

 相談料を支払ったのは母の友人ばかりだった。

 母の友人は一般常識に乏しい人が多く、母を含め、誰もNの不審を指摘することができなかった。


「喫茶店?ファミレスって何?」

 私は嘲笑した。

「どこの弁護士事務所なの?」

「そんなのNが勝手にやってることだから知らないわよ!」

『あんたは素性も知らねー男と同棲してるんか!?』

 Mさんがいるので言葉を呑む。

「東京弁護士会の所属かどうか問いあわせてみたら?」

「そんなことしないわよ!」

「まあまあ!娘がママを心配して言ってるんだから……」

「大人のやることに口出すんじゃないよ!」

 いつもの母の逃げ口上だ。

『だったらあとあと私に泣きついてこねーでてめぇのケツはてめぇで拭け!』

「まあまあ!ママも考えどきだと思うよ。お客さんが皆逃げちゃうよ……」

 トイプードルを待たせていたMさんはグラスビールをくいっと空けて帰っていった。


 後日、東京弁護士会に問いあわせたが、Nという氏名の弁護士は登録がないとのことだった。











 

 


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