第2話 鴨が葱を背負ってくる

 母が帰らなくなった。

 週末は定宿にしているスーパー銭湯で、友人と大衆演劇を観るのだったが、平日も帰らなくなった。

 どうやら、そこで知りあった男と店の二階で寝食をともにしているらしかった。

 母は都の外れで居酒屋を営んでいた。

 といっても、料理が苦手で、FLRコストの心得もないどんぶり勘定の経営は火の車だった。

 ともに働いた時期もあったが、経営方針がまるで合わず、賃貸契約の名義も母だったことから、私は外に出て働くことにした。


 その店の賃貸契約をする以前、母は別のクソ不動産屋にクソ物件をつかまされた。

 母の知りあいのスナックのママの紹介だった。

 膨れたフグのようなアホ面の女だ。

 フグはしみったれた仲介料欲しさに無知な母を騙したのだ。

 駅からも商店街からも幹線道路からも遠く、隣は家族経営の小さな鉄工所だ。

 それに反して相場より二割ほど賃料が高い。

「お姉ちゃん!助けて!」

 母は昔から私を、そう呼ぶ。

「なんでちゃんと確認して契約しなかったの!あのババア(フグ)は胡散臭いって言ったでしょう!」

 そうだ、それで、だ。

「大人のやることに口出すんじゃない!」

と突っぱねたのは母だ。

 それまでも、母は私の転ばぬ先の杖をことごとく無下にしてきた。

 そうしておきながら、いき詰まるたびに私に助けを乞うのだ。

「どうしよう……」

「不動産屋に連絡して解約しな!ババアは挟まなくていい!昨日今日の仮契約だから申込金も返してもらう!」


 母が電話口で泣いている。

 相手に見えないというのにペコペコ頭を下げて。

「ごめんなさい、ごめんなさい……そんなこと言わないで」

 脅されているのだろうか?

 母は神経発達症の特性が強い。

 学習障がい、注意欠如多動症、自閉スペクトラム症のオンパレードに、境界知能の疑いも加わる。

 私の体感では中学年の小学生とコミュニケーションしている感覚だ。

 読む書く聞く話すの学習障がいがある母は、ひらがな以外の理解力がきわめて乏しく、熟語や慣用句やカタカナでまくし立てられると、たちまちパニックに陥ってしまう。

 話の内容が理解できないのだ。

 自閉スペクトラム症の聴覚情報処理の問題に加え、それ以前に語彙が乏しいので、未知の言葉を既知の言葉にあてはめて聞きちがえること多々。

 自閉スペクトラム症受動型の感覚鈍磨の特性では、自分の意見をもたない(わからない)ので、他人の思考に取りこまれやすい。

 注意欠如多動症の嘘をつく特性や、単に虚栄心からくる極度の虚言癖から、理解できないほど頷くので、詐欺やモラハラのターゲットにされやすい。

 とにもかくにも、大小を含めた日々のトラブルが絶えない。

 本人に自覚はない。

 むしろ“平均的”だと思いこんでいる。

 神経発達症の診断を勧めたら、きっと

「私は正常だ!」

と癇癪を起こすだろう……。

 なので、私が代わりに話をつける。

「指定した条件と全然違うんですね」

 相手が高踏的だったのも手伝い、母がきちんと確認しなかった落ち度はスルーした。

「ずいぶんごり押しでしたけど、仲介されたママさんとはお知りあいなんですか?申しわけないんですが解約します。ご縁がありましたらあらためて連絡しますので……」

 借り手のつかないクソ物件を紹介したクソ不動産屋に縁などないのだが、そこは穏便に済ませた。


 電話を切っても腹の虫が治まらなかった私は、無駄骨と承知で母を子どものように叱った。

「なんで泣くの!泣いたら交渉にならないでしょう!こっちは客!しかも騙されてんの!下手に出てはダメ!」

「だって!そんなの、わからないじゃない!」

 案の定、パニックに陥った母に、私の言葉は届かなかった……。


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