【十七】現場検証

 万知が一言謝罪をして、ようやく全員が森野の部屋に揃った。森野の死体は、まるでオブジェのようにデスクの後ろで静かに鎮座している。真っ白なソファと天井を一閃する血の痕も相まって、この部屋全体が、一つのアートのようにも思えた。


「それでは、現場検証に移りましょうか。……とその前に、万知さんにも、私がさっき突然ダイニングホールから姿を消した件についてご説明します。あれは私の個人的な問題で、この事件とは全く関係ありません。驚かせてしまってすみませんでした」


 頭を下げた多古島に、万知はなるほどと一つ頷いて、続けた。


「個人的な事情を深く聞くつもりはないさ。話してくれてありがとう。ただ、多古島君も気付いているんだろう? 芽々君が残した言葉と、彼女が握りしめていたメッセージの間には矛盾がある。そちらについて、君の意見を聞きたいな」

「ええ。確か皆さんが出した結論は、音声を記録した段階と今日との間で、考えが変わったんじゃないかというお話でしたね」

「そうだね。ただ、あのボイスレコーダーで喋っていた芽々君は、何か確信に近い形で自分の死後の気持ちを予言していたように思えるんだ。死について誰よりも真摯に向き合ってきた彼女が、そんな簡単に自分の考えを曲げるのかな?」

「私もそう思います。ですので、その点はいったん保留にしたいと考えています」

「犯人さえ分かれば、芽々君がいつあの言葉を書いたのかも分かる。優先順位としては、犯人を特定する方が高いってことだね」

「そういうことです」


 多古島が話している間、鮎葉は殺害現場付近以外の状態を確認していた。

 入って左手は現場検証を行った応接用のソファが置かれたスペース、そして右手側は、簡易キッチンが設えられていた。一口コンロとシンクが壁沿いに設置され、背後に食器棚が置かれていた。主に湯を沸かして紅茶やコーヒーを作るスペースだったことがうかがえる。


 シンクには何も残っていないが、ティーポットとティーカップが一セットずつ、水切りカゴの中に置かれていた。三角コーナーの中には茶葉が捨てられている。

 食器棚のサイズは鮎葉がちょうど隠れられるくらいで、コンロと食器棚の間に入れば、応接スペースからは死角になりそうだった。

 簡易キッチンの左手を進むと、ルーフバルコニーへ出る引き戸の窓がある。クレセント錠でしっかり施錠されているのを確認し、外へ出た。位置的には一階の厨房の真上に当たるのだろう、庭が一望できた。二階で、それなりの高さはあるが、飛び降りられないこともなさそうだった。


 万知が言っていた通り、ここから飛び降りて玄関に回り、外から帰ってくることも不可能ではないように思える。しかしその場合、クレセント錠を締めることができないので、誰かが気づきそうではあるが……。森野の死体発見当時、鮎葉は反対側の応接スペースを検分していたので、この窓に近づいた人間がいるかどうかは分からなかった。


「先輩、そろそろお願いします」


 部屋に戻ると、多古島に現場検証の結果を語って欲しいと言われたので、鮎葉は現時点で分かっていることを詳らかに明かした。

 森野の死因。殺害された場所と、その方法。ソファからデスクへは、死後移動させられた可能性が高いこと、など。

 大方を話し終えると、多古島が続きを引き継いだ。


「以上を踏まえて、私が気になっていることを三点あげたいと思います。気になっているということはつまり、私の中で答えが出ていないということです。ですのでどうか皆さん、一緒に考えてください。お力添えを、お願いします」


 多古島は続ける。


「では、まず一つ目です。なぜ犯人は森野さんの遺体を、わざわざソファからデスクへ移動させたのでしょうか」


 それは鮎葉も気になっていたことだった。

 ソファで頸動脈を切った時点で、森野の殺害自体は完了している。

 早い話が、森野を殺すことだけが目的だったのだとすれば、遺体をソファから動かす合理的な理由が見当たらない。森野が殺害されたのは、壁際のソファ。ワークデスクまでは、それなりに距離もある。


「考えられる可能性は二つです。一つは、何か犯人につながる証拠があって、それを消すために森野さんの遺体を移動させた可能性。そしてもう一つは、遺体をデスクの前に置くことが、犯人の目的だった可能性です」

「一つ目は分かるが、二つ目はどういう意味だ?」


 砂金の問いに、多古島は肩をすくめた。


「現段階では、まだ分かっていません。わざわざ遺体を移動させる、という行為に合理的な理由をつけた場合の、可能性の一つと思っていただければ」

「遺体を移動させたことに意味はなくて、こうして僕たちをかく乱させたいだけ、という可能性はないのかい?」

「ないとは言い切れませんが、可能性は他の二つに比べればかなり低いと思います。皆さんも既に把握されている通り、今回の犯行は時間的な猶予がほとんどありません。その限られた時間の中で、わざわざ非合理的な行動をする、というのは考えにくいのではないかと思います」


 なるほど、と万知は頷いた。


「二つ目は、ワークデスクの上に刺さっていたナイフについてです。これはほとんど確信に近いのですが……恐らくこのナイフは、森野さんを殺した凶器ではありません」


 部屋の中の空気が変わった。

 犯人がこの中にいるとしても、森野を殺した凶器は部屋の中にある。だから犯人は、もう凶器は持っていないだろう。根拠も確証もない推測だが、恐らく全員がそう考えていたはずだ。しかし、もしも多古島の推測が正しければ……犯人はまだどこかに、凶器を隠し持っていることになる。


「根拠はあるんすか?」

「はい、いたってシンプルな理由が。このナイフは、血に塗れ過ぎています」


 そうか、と鮎葉は内心で頷いた。

 多古島に言われ、ナイフを見た時に鮎葉が抱いた原因不明の違和感。その正体は、ナイフについた血の量、正確には、血の付いている場所にあったのだ。


「考えてもみてください。このナイフで森野さんの首を切り、そのナイフをワークデスクの上に刺します。恐らく、森野さんを移動させる際に邪魔になったから机の上に刺した、と考えるのが自然でしょう。

 さて、ここで疑問がわきます。今の流れで、ナイフの柄の部分に血が付く自然な理由はありましたか?」


 仮に現場に残されたナイフで犯行が行われたのだとしたら、犯人は当然、柄の部分を握っていたはずだ。だとすれば、ナイフに付着した血痕は斑になる。


「ゆ、床に血だまりが出来てて、一回そこに落ちたってことはないんですか……?」


 霊山の疑問には鮎葉が答えた。


「頸動脈を切られて噴き出る血の量は確かに致死量ですが、血だまりができるほどではありません。現場を見る限りでも、そんなに血がたまっている場所はなさそうです」


 そもそも、血だまりというのは誇張表現だ。殺人現場でそれほどまでに出血している死体を、鮎葉は聞いたことがなかった。このナイフについた血は、森野殺害後、意図的につけられたと考えるのが自然だろう。


「つまり、このナイフはフェイク。実際の凶器はまだ見つかっておらず、犯人がまだ所持しているか、どこかに隠しているってことか」

「その通りです、先輩。ですが……それってちょっとおかしいと思いませんか?」

「ああ。このままだと、犯人が偽のナイフを置いていったことに対する、合理的な理由が見当たらない」


 偽の凶器を置くことの理由として最も適切なのは、本物の凶器を探すという行為に対する抑止力だろう。つまり、持ち物検査や屋敷の敷地内の捜索を防ぐためだと考えるのが妥当だ。しかし今回、返り血を浴びた衣服が見つかっていない。犯人が森野を殺害した時、大量の返り血を浴びたことは間違いなく、その捜索が行われるのは明白だ。

 つまり、偽の凶器を置いたところで、犯人にとってメリットがないのだ。


「犯人がうっかりしてたって可能性は?」

「ゼロとは言いませんが、恐らくそれもないでしょう。だって犯人は、返り血を浴びた服をしっかりと処理してるんですから。凶器だけに意識が向いていなかったと考えるのは不自然です」


 犯人がいつだって百パーセント、ベストの行動をしているとは限らない。

 しかし少なくとも、現在確定している情報を合わせると、このナイフを置いた犯人の行動はどうにも不可解だ。


「そして三つ目。森野さんが殺されたのは、なぜこの応接スペースなのでしょうか?」

「それは、別に謎でもなんでもなくないっすか?」


 絵上が言う。


「切るつもりだったのか、刺すつもりだったのかは知りませんけど、とにかく犯人は、森野さんの近くに寄る必要があったわけっすよね? だとしたら、ワークデスク越しだと距離もありますし、避けられる心配があります。森野さんが座っている方にわざわざ回り込むのも変ですし、警戒されてしまうかもしれない。だから、うまいこと森野さんを言いくるめて、応接スペースに呼び込んで、隣に座った。そう考えれば、何も不思議なことはないように思えるんすけど」


 絵上の言うことはもっともだった。しかし多古島は、


「ええ、私も最初そう思ってたんですが……ふと、思い出したんです」

「思い出した?」

「はい。私たちが森野さんの部屋に呼ばれて、ちょうどこのソファに腰かけようとした時、森野さんは言ったんです。『窓側のソファは開けておいてもらえますか? 私のお気に入りのポジションなんです』って」


 そういえばそうだったと、鮎葉は思い出す。

 あの時森野は、確かにわざわざ鮎葉たちを引き留めてまで、自分が座る場所を指定していた。


「だけど、森野さんが殺されたのは、窓側のソファではなく、この壁側のソファです。先輩の見立てでは、森野さんは座っている時に切り付けられただろうということでした。だとすればますます、あの時の森野さんの発言との整合性が取れません」

「そうっすか? さっきまでの二つに比べると、俺には大したことじゃないように思えますね。何か見せたいものがある、とでも言えば、森野さんだって場所を移すでしょうし」


 その通りかもしれない。

 しかし鮎葉は、多古島と同じく、森野がこちら側のソファで殺されていることに違和感を覚え始めていた。あの時の彼女の言葉には、どこか、強い信念のようなものを感じた。それこそ、見せたいものがある、程度の言葉では動くことがないくらいに。


「舞花さん。森野さんがこちら側のソファに座っていたことって、ありますか?」

「たまにあった……かな? ただ、お客さんと話す時は、いつも決まって窓側に座ってた気がします」

「やっぱりそうなんですね。因みに、理由って聞いたことありますか?」

「すみません。あたしは何も……」

 申し訳なさそうに眉をハの字に下げた舞花に、「いえいえ」と多古島は両手を振った。

 理由は分からないが、森野が客と話す際、窓際のソファを好んでいたのは間違いないようだ。だとすればやはり多古島の言う通り、彼女の殺害場所についても不可解であるということになるだろう。


「以上が、私が考える三つの不可解な点です。皆さん、何かお気づきになられたことはありましたか?」


 しばし間が空いて、絵上が手を挙げた。


「何でもいいんっすよね?」

「ええ。どんな些細なことでも構いません」

「分かりました。これはスケッチしてる時に思ったことなんっすけど」


 絵上は先ほど、自分がスケッチを取っていた場所に移動し、人差し指と親指で、四角い枠を作った。


「この位置、めちゃくちゃ絵になるんっすよね。ちょうどあの時間って、ぎりぎり西日がまだ差し込んでた時間じゃないっすか。生を感じる橙色と、死を感じる夜の色が混じり合って、窓の向こうで綺麗なコントラストになってたんっすよね。それと、このナイフ。これもモチーフとして際立っているっていうか、いいアクセントになってるんっすよ。ほら、ソファ付近って血だらけで、いかにも殺害現場って感じじゃないですか。だけどワークデスク周辺は普段通りに綺麗で、それでいて、森野さんと凶器は血に染まっていて……非現実感っていうのかな、死を生々しく、身近に感じさせない、芸術性が感じられた気がしたんっすよね」


 最後の方はもはや独り言のように、絵上は話を終えた。少し間を開けて、あわてたように付け加える。


「……いや! だからって俺が殺したわけじゃないっすよ⁉ あくまで俺はそう思ったってだけで――」

「大丈夫ですよ、絵上さん。疑ってなんていませんから。参考になりました」


 とはいえ、絵上の意見は中々に新鮮だった。ナイフをわざわざ用意した理由も、森野の遺体を移動した理由も、一応の説明はついている。

 しばらくして、今度は霊山が手を挙げた。


「あのー……ちょっと気になったんですけど……このナイフって黒いですか?」

「血の色で隠れていますが、多分、元の色は黒だったと思いますよ。それがどうかしましたか?」


 鮎葉が答えると、霊山はワークデスクに刺さったナイフにじりじりと近づいて、眼鏡のリムを押し上げると、窓と森野の遺体を交互に見た。


「一九六〇年代に魔女宗という新宗教が発足しているんですが……実は現代にも根強く残っているんです……。その魔女宗が儀式の時に、黒いナイフ……正確にはアセイミーと言うんですが、それを使っていたなあと……。ナイフを刺すのは力の方向性を決定づけるためで、黒色というのはあらゆる力を吸収するため、だったかな……」

「どんな儀式なんですか?」

「すみません、詳しいことは私にもよく分かりません……。というのも、魔女宗の魔術は自分でその効果を設定する部分が大きいんです。エゴを込めないものを白魔術、少しでも邪念が入った物を黒魔術と設定したりするそうです」

「なるほど。では、例えば犯人が何かしらの儀式をやろうとしていたと仮定しましょう。なら、どうしてわざわざ森野さんの遺体を移動させたと思いますか?」

「そうですね……。儀式には祭壇を使うことがあります……。このワークデスクは大きさも広さも、古めかしさもちょうど良い感じがします……。あと、儀式にはシンボル……いわゆる魔方陣のようなものを必要とします。窓枠をみていて思ったのですが、あれが魔方陣の役割を果たしていた可能性はありそうです。普通はアセイミーで刻むんですが、あの魔方陣の形をソーラー・クロスと捉えれば、太陽のエネルギーをナイフに落とし込むために、あえてそちらを選択したと言う可能性も……。ああ、それに窓枠には仕切るという効果もありますね……。魔術だけではなく、古今東西あらゆるオカルトに共通して、境目というのは重要な概念ですし、もしかしたらここだけを切り取ることに何か意味があったのかも……」


 絵上と同様に、最後の方はもはや聞き取れないくらいの早口になっていた。

 膝をかがめて、顎に手をやり、ぶつぶつと呟きながら血に濡れたナイフを見つめる霊山は、普段の彼女からは想像できないような雰囲気を醸し出していた。

 しばらくして鮎葉たちの視線に気づいたのか、霊山はあわあわと両手を振りながら、


「す、すみません、つい関係ないことをぺらぺらと……」

「そんなことありませんよ、とても参考になりました」


 多古島の言う通り、彼女の説もまた、現状を十分に説明しているように思えた。とはいえ、絵上の話とは全く系統が異なっていたのも事実だった。

 その後もしばらく議論が交わされた。

 なぜ遺体を移動させたのか。

 なぜ、偽の凶器を部屋の中に置いていったのか。

 なぜ森野は、いつもは座っていないソファで殺されたのか。

 様々な憶測が飛び交ったものの、しかし誰一人として明確な答えを出せる人はいなかった。

 やがて夜も更けてきたため、解散することとなった。

 部屋は内側からしっかりと施錠をし、無暗に外を出歩かないことを皆で共有した。

 霊山はどうにも不安がぬぐい切れないらしく、何度も合鍵はないか、無理やりドアを開けて入れないかを確認していた。あれだけ警戒しているのだから、誰が来ても彼女はドアを開けないだろうと鮎葉は思った。

 やがて全員が部屋に入って、吹き抜けのホールに、鍵が閉まる音がまばらに響いた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る