『熊と生け贄』

よしふみ

『熊と生け贄』



 不思議なまでに静かな夜だった。獣も虫も、歌い方を忘れてしまったのかのように。老人は異常に気づいてはいたが、獲物を撃てない悔しさが大きいせいで、深く異常の理由を考えることはなかった。


 温暖化だろう。


 気象変動の影響が、山の獣どもにまで及んだのかもしれない。


 二酸化炭素を吸い過ぎた草木は、硬く不味く育ち、それを食むシカや虫どもを、より深い山奥に遠ざけたのかもしれない。そんな論文を読んだことは老人にもないが。どうだってよかった。


 アルコールの回った頭には、もう不猟の理由など関係がない。


 老人は酒瓶の口を直接、その乾燥して切れた唇で咥えて……ゴクゴクと自分に優しくしてくれる唯一の液体を飲み干していった。


「眠っちまおう」


 山でも孤独な老人は、いつもと同じように無人の虚空へと睡眠のあいさつを放つ。返事は戻ることはない。どうだって良かった。


 テントの中で毛布に包まる。毛むくじゃらの焦げ茶色は、まるで熊の毛皮のように温かい。臭くはない―――はずだが。アルコールの影響化にある嗅覚は、それほど鋭敏さを持たなかった。


 とっくの昔に狩猟をあきらめた男は、腕を伸ばして小さなラジオのスイッチを入れる。音楽が流れ始めた。老人が毛ほどの興味を持たない、若い娘どもの歌。どうでもいい。どうでもいいが、お守り替わりには役に立つ。


「熊は怖えからなあ……」


 独り言だった。孤独な言葉を使ったあと、老人は歯を磨くこともないままに眠る。かまわない。もう自前の歯なんて、ほとんど残っちゃいない。軽薄な軽さを持つ、人工的な歯茎がついた芸能人顔負けの白い歯が並ぶそいつは、ばい菌だってたからない。


 虫歯とは無縁のそれをもごもごと舌で動かしたあと。


 アルコールに負けた老人は、FMラジオの騒がしい音を気にもせずに、あっという間に眠りについた。


 ……孤独だが。


 問題はない。


 猟犬が生きていたころは、今より夜も楽しかったが。もう、こんな生業でもない趣味につき合わせるためだけに、新しく犬を飼うこともバカらしかった。孤独でもいい。老人なんてものは、そういうものさ。昔から。


 世間に嫌われながら、死んでいくだけのことだ。


 悲しくもない。


 そういうルールに、誰しもが囚われているだけだ。


 錆び付いた筋肉に、軋みを上げる関節。年下の熊撃ちが、先月も山菜取りを誤射してしまった。悲しいが、そろそろ自分にも番が回って来るだろう。猟銃とおさらばして、山から去る時間がくる。


 何の楽しみもない。


 ただの朽ちかけた生きるしかばねだ。


 最低だが……しょうがない。時間が来るということは、そういうものだった。


 楽しい夢は見ない。


 老人は奪われる夢ばかりを見た。自前の歯、かつてはフサフサとしていた髪。張りのある肌はしわくちゃになり果てて、丸太のように鍛え上げていた腕は、枯れ木のようだ。血の小便が出た。神様は、ワシから小便の色さえも奪っちまった。


 笑う。


 家族たちが笑う。


 死んだ妻と、もうすっかりと東京人として振る舞う息子。林業をバカにしているのか、たかが役人のくせに。狩猟は野蛮だと?チワワなんぞ、猫より役立たずな犬を飼うことの狂気を理解してから、ワシにものを言えというのだ。


 いのししを、三日は追いかけまわすような動物だけが……犬なんだ。


 そうだ。


 そのはずだ。


 ワシが正しい。


 だから、どいつもこいつも……。


 ワシから……奪うんじゃねえ……。


 愚痴っぽい夢を見ながら、人工物の白を歯ぎしりさせつつ。老人はアルコールのおかげでよく眠れた。睡眠時間は、4時間ほど。山を歩いて、鴨を狙い続けた老体は、それでも太陽よりも早くに目が覚めていた。


「……くそが」


 ラジオに文句をぶつけながら、スイッチを切る。アルコールはまだ抜けていない。かまわない。早朝の狩猟に挑む気合いが、わいて来なかった。


 老人は、もう帰るつもりだ。今回の山は、おかしい。獲物の気配さえない。それは、やはり異常なことではある。


 恐怖している?


 そうでは、ない。


 老人は深く思索することはなく、反射的に浮かんだ考えを使って否定した。


「不運なだけだ。こういう日は、とっとと山から下りるんだ。焼き鳥でも、買って帰ればいい。それで、十分だ。そっちの方が、猟なんてするより、ずっと安上がりだ」


 野生の肉は、不味い。


 当然だ。農業学者と農家が苦心して作り上げた計画的に管理された家畜。太り方どころか、脂肪の質までしっかりとデザインされた連中に、野良の肉がそう勝てるはずもない。処理も大変だし、寄生虫もうじゃうじゃいやがる。


 金と時間がかかる。


 そのあげく、大してうまくもないと来た。


「ワシの趣味も、たいがいのもんじゃなあ……」


 バカにされる理由も分かる。だが、いいのだ。高度な能力を持つ野性の獣に勝る。技術と経験を使い、気高く強靭な獣を撃ち殺す。それは、とても崇高なスポーツだ。野蛮であったとしても、かまわない。


 老人は楽しんできたのだから。


 だいたい、趣味なんてものの大半は、時間を浪費したり、倫理に少なからず反したりするものだった。酒、賭博、絵、詩をかくこと。無益である。損ばかりだ。だが、それをしなければ?


「腐って死ぬだけじゃねえかよ」


 ……テントを畳み終えた老人は、それらをまとめて他の荷物と一緒に担いだ。重いが、一昔前の装備よりはずっと軽量化が進んでいる。だから、年老いた彼でも、まだ山に来れた。


 だが。


 あとどれだけ来れるだろうか。


 猟銃の許可を取り上げられる日は……遠くない気がする。そうなる前に。まともな者は誰も足を踏み入れたことがない山奥にまで歩いて、口に猟銃の先端を咥えて、引き金を絞るのもいいかもしれない。


 楽しみもない日々を、死ぬまで過ごすよりは。


 自分らしい気がする。


「さんざん、山の連中を撃ち殺して、食って来たからな……ワシの肉も、連中に喰わせてやるのも、悪い考えじゃない。足し引きのハナシとしちゃあ、正しかろう」


 老いたことを自虐しながら、老人は暗がりが支配する山道を急いだ。熊除けの鈴だけが、シャリシャリと清涼な音を放ち、年よりの履いたブーツもリズミカルに土を踏む。口からは白い息が、たくさんこぼれて。老人は絶対に飲めと言われている薬の存在を思い出した。


「くだらねえ……っ」


 胸ポケットに入れておいた錠剤を、老人は口に放り込む。歯でガリゴリと錠剤を壊すように潰していった。楽しみたかった。復讐を。くたばれ化学物質め。老人は憎しみと怒りを込めて、その咀嚼を行ったのだ。


 ……老人の旅は続く。いつにも増して速やかなその鈴の音の旅……老人は朝霧が立ち込めた町並みを遠くに見ながら、迷うことなく歩き慣れた場所を進んだ。


 だが。


 老人の視線が厄介なものを見つける。太くて高さがある木の中腹に。何か黒い塊が見えた。


「……熊か、あるいは……バカか」


 忌々し気に舌打ちした。木に登れる巨大な生物。そんなものは人か熊しかいない。だが、どうして木に登っているのか?


 どちらなのか判断するためにも、近づく必要がある。熊なら……撃ち殺してやってもいい。かなり山を下りてきている。この辺りをうろつくような熊は、とっくの昔に人間を恐れなくなっているのだ。


 クソ不味い野生の食糧を探すぐらいなら、ノロマな人間を襲って、その荷物を漁るほうが賢い選択だと考え始めている。そういう熊ならば、猟銃で脅すのもいい。脅しても引かないようであれば、殺しておくべきだ。キャンプ場には、小さな子供も来る。


 野生の獣がどれほど邪悪で残酷で、人間の倫理や常識の及ぶ範囲にいないのかを、子供は知らない。いや、町暮しの大人たちもだろう。誰もが、老人からすれば浅はか過ぎた。


 朝霧のなかを進み。


 老人は黒い塊がいる大木のすぐ近くまでやって来た。


「……バカの方か」


 老人は、猟銃を構えるのを止めた。木に登っているのは、どうやら人間らしい。服を着ているのが分かる。体格的に、おそらくは男。明るい色の服を着ているから、若いヤツかもしれない。


「おい!!悪ふざけしているのか!?」


 霧の向こうにある気配に反応はない。


 ……老人は、その無動に、良くない考えを抱いた。


 直感を補強するように、大木の上からは太い幹を伝って赤黒い液体が流れ落ちていることに老人は気づく。思わず、猟銃を構え直した。脚に巻いたサバイバルナイフの位置も確認する。落としてはいない。もしもの時は、そいつを使うことになるかもしれない。


「生きているか?お前、熊に襲われて、木に登って隠れようとしたのか?」


 無言。


「ケガしてるなら、すぐに下りて来い。そのケガは、まずいぞ。かなりの出血だ。早いとこ病院に行かねえと……死んじまうぞ」


 老人の問いかけに、黒い塊は応えることがなかった。


 生きていないのだろうか?


 ……木に登ったまま、そこにしがみついて……死んだ?ありえなくなはない。熊が木の周りをうろついて、降りられなくなっている状況では、十分に考えられる。


 老人は目を凝らしながら周囲を見回した。音を可能な限り立てないように静かに体を動かした。熊除けの鈴も鳴らさず、足音も立てずに回転していく……いない。人を死に至らしめるような巨大で危険な獣の姿は、とりあえず近くにはない。


 足跡は……木の根元にはないが、朝陽を受けて白く濁る霧と老眼の合わせ技のせいで、視界は悪い。確実なことは何も言えない。


 ♪♪♪


 いきなり音が聞こえて、老人の体は本能的に震えてしまっていた。それは、上から聞こえたものだ。音楽。若者が好みそうな音楽であることは確かだが……。


「携帯が鳴っているのか」


 老人がそう呟きながら視線を上げた瞬間、黒い塊が揺れながら落ちて来る。


「うお!?」


 老人は素早く飛び退いた。そのおかげで、落ちて来た男の体に押しつぶされずに済んだ。しかし……落ちて来た男の体は、大の字にゆっくりと開いている。力なく、男の体は脱力し切り、その顔は霧が立ち込めた空を見上げていた。


 青ざめた表情。


 肌は作り物めいて強張っており、その口は大きく開いているが。白いはずの歯列は赤黒く染まっている。吐血が歯を汚してしまっているようだ。


 凄惨な死体が、そこにある。


 ムダに明るい若い女たちの歌声が鳴り響いてはいるが、それはいささか不謹慎なように思えた。


 老人は獣に襲われた死体を見るのは、七度目である。だからといって慣れるようなものでもないが、耐性は出来上がっている自覚はあった。


 死体をよく調べていく。


 腹部に……傷がある。深くえぐれた傷だった。おそらくは死因だろう。獣に噛まれたのか?……熊相手に、まさか死んだフリを実践したのだろうか。熊は、死体でも腹が減っていれば食う。


 しかも、やわらかい腹から食うのだ。死んだフリなど、老人は絶対に選びたくはない。自分が食い殺されていく光景を目撃するかもしれない。それは耐えがたい苦痛だと考えているからだ。


 ♪♪♪


「うるせえな……だが、まあ……出てやるべきか」


 老人は死体の胸ポケットで鳴り続けているスマートフォンを取り出す。使い方がよく分からないが……画面には『通話』という表示があったため、どうにか操作は出来た。


『……あの、ケンイチ?』


「いや。違うよ」


『……っ!?……あの、あなた、誰!?』


「なんというか……そうだな。ワシは猟師をやっているんだが……一種の、遭難者を見つけた」


『遭難って、まさか!?』


「……落ち着いて聞いてくれ。この電話の主は―――」


『―――死んだのね』


「……そうだ。ワシが見つけたときには、もう死んでいたんだろう。手足も顔も、すっかりと冷たくはなっている……」


『木の上で、死んでたの?』


「……どうしてわかる?」


『寝てたの。でも、メッセージが残っていたのよ』


「留守電か」


『彼は……私の夫だった人』


「別れたのかい」


『うん。別れて……久しぶりに電話がかかって来て。無視してた。子供の親権についての電話だと思った。私から、娘まで奪うつもりなのかって』


「違ったのか」


『ええ。違った。メッセージは、『助けてくれ』、『木に登ってる』、『助けを呼んでくれ』。冗談だと思ったけど……本気っぽかったし。何だか、不安になって……こっちからかけたら』


「ワシが出たわけだ」


『うん。本当に、私の夫だった人は、死んだの?』


「死んでいる。腹を―――」


『突き立てられたって』


「……突き立てられた?噛まれたじゃなく?」


『そう言ってる。持ち上げられて……叩きつけられて……『刺さった』。そう残しているんだけど』


「何のことだか」


『分からないのは、私もだけど。『刺さって、降りられなくなった』みたい』


「……熊にでも追われて木に登って……あそこに突き刺さった?自分から?」


 老人は男が引っ掛かっていた部分を見上げる。木の幹から突き出した枝が、赤黒く染まっている。あそこに、この男は突き刺さっていたようだが。木登りしていて、どうすれば、そうなる?


 想像がつかない。


『……彼ね、化け物にあったって』


「……はあ?」


『化け物に、追いかけられて。捕まって……木に叩きつけられたとか。冗談……よね?』


 木に叩きつけられて。


 あの折れた枝に体を『ぶつけられた』?……だから、そのまま串刺しのようになって、今の今まで落ちることもなく、引っかかっていた……?


 ありえない。


 ありえないが。


 証言と、目の前にある不可解なことが、どうしてだか結びつく。


 男の腹はえぐれている。これだけの傷を負って、木に登ることは出来ないだろう。だが、叩きつけられたら?巨大な化け物に、オモチャのように持ち上げられて、そのまま、木に叩きつけられたら……。


 ありえない。


 だが……。


『おじいさん。警察とか救急、呼んだ方がよくない?』


「……そうじゃな。そっちから、呼んでくれないか?ワシの携帯は電池切れ。新しい携帯の使い方は、よう分からん」


『そこは、どこなの?』


 老人は自分が登っている山の名前を教えてやった。猟区の南端の山道だと言えば、地元の警察には通じるとも、電話先の女に教える。


『わかった。そうすれば、いいのね。あなたの名前を出して……』


「それで、いい」


『……うん。でも、おじいさん』


「なんだね」


『……化け物……って、いない、わよね?彼は、きっと、熊か何かを、見間違えていたのよね……?』


「何十年もこの山に来ているワシが、そんなものは―――」


 ―――知らない。


 知らないが、二度ほど腑に落ちないことが起きていたことを老人は思い出す。怪物の姿などは見てはいないが、老人が手塩にかけて鍛え上げた猟犬たちのうちの二匹は……バラバラにされて見つかった。


 熊だったのだろう。


 そうでなければ、ありえない。大型の猟犬を食い散らかす獣など。日本の山には、せいぜい熊しかいない。そう思った。熊の痕跡を見つけられなかったが。理性で、そう判断して納得した。他に可能性など、ないのだから。


『おじいさん?』


「あ、ああ。すまん。連絡してくれるか」


『うん。一度、切るわね。おじいさんも、熊には気をつけてよ?』


「猟銃がある。猟師じゃからな。ワシは、大丈夫じゃ」


『わかった。でも、気をつけてね』


 電話が切れる。


 老人は、スマートフォンを自分の上着のポケットに押し込んだ。素早くだ。そして、猟銃をしっかりと構える。銃弾の入ったそれは、獣を死に至らしめるに十分な弾丸を放つ。熊なら多く撃ち殺して来た。大丈夫だ。慣れたものじゃないか。


 焦ることはない。焦らなくていい。


 霧をにらみつける。


 老いてはいるが、反応速度は鈍ってはいない。大丈夫だ。負けない。まだ、ワシは猟師として、熊などには、熊には――――!?


「な!?」


 老人の足元で、死体が動いた。いや、生きていた。失血の量と傷の大きさと無反応から、死んでいるものとばかり誤認していたのか。脈も無かったが……いや、寒さで生命兆候が消え去ることもある。凍っていたホームレスが蘇生した例を、老人は実体験として知っていた。


 ときには、おかしなことが起きるものだ。


「おい、お前!!しっかりしろ、しっかりしろ!!」


「う、ぐうう……うぐ……ううう」


 呻きながら。男は口と目のふちから赤黒い血をあふれさせる。


「くそ、おい、とにかく頑張れ……すぐに助けは来る。来るんだぞ」


 励ましの声と共に、手を冷たくなっている男の体に置いた。男の目が動いて……口が、何かを言いたげに大きく開き―――。


 にょろり。


「……は」


 内臓を吐いたのか。老人はそんな誤った想像をしていた。男の口から、壊れた内臓が何等かの作用で飛び出したものとばかり。だが、そうではない。男の開いた口から飛び出したのは、蠢く……内臓ではない、何か未知の存在だ。


 うねる。


 うねり。


 黒くて赤く、揺らめきながら……まるで、枝を伸ばすかのように。そのぬるりとした肉質の何かからは、何本もの枝のようなものが生えていく。赤黒い枝。内臓の色をした、嫌な枝が、宙に赤黒い軌跡を描くようにして広がっているのだ。


 理解は及ばない。


 だが、分かることもある。


 あるはずもない現象。少なくとも、老人の知識には、『こんなわけの分からない不気味なもの』は存在しない。


 狂ったのだろうか?


 長く生きた老人には、発狂した友人も認知症が進んだ同級生もいる。幻覚を見ている?高血圧を抑える錠剤の副作用だろうか。


 だといいのに。


 ごぶりごぼり。不快な音を立てながら、枝を口から生やす男から、あふれるように赤黒い血液が漏れ出していく。男の瞳が、ピクピクと痙攣しながら……あきらめたように白目をむいた。


 それでも。


 男の体は、動いているようだった。枝が、動いているからだろう。老人は、枝の根元を想像する。男の体の奥で、そいつは根を張っているから、動いている。根もきっと、枝のように活きがいいのだろう。


 なんということだ。


 いみがわからない。


 いやだ。


 こんなことはげんじつなはずがない。


 くるっているのか?


 猟銃を持つ権利は、とっくの昔にワシには無くなっていたのかもしれん。


 ♪♪♪


「はあ!?……はあ、ああ、あああ」


 聞き覚えのある音楽に、老人の精神は救われていた。未知の現象と遭遇しながらも、それでも。現代的な機械との接触が、老人の精神が闇色の深淵に呑み込まれることを防いだ。


 まだ正気は輪郭を保てている。


 そんな気がした。


 いや、大丈夫。


 大丈夫だ。


「もしもし!」


『おじいさん、連絡したわよ。すぐに――――』


「おい?」


『―――あ……へんね――――電波―――――ろ―――』


「な、なんでだ!?なんだ、このノイズは、おい!!おい!!頼む!!今は、今は、電話を切らないでくれ!!頼むから!!」


『――――――――』


 ブツリという断線するような音とともに。スマートフォンは沈黙していた。老人の顔は強張り、現代的な機械を握る指は震える。作り物の歯と、まだわずかに残る本物の歯が衝突し合って、ガチガチガチと音を立てた。


 勇敢なはずだった。


 孤独を怖がらない。


 死ぬことさえも。


 怖くないはずだった。


 それなのに。


 今は、足元で震えている死んだ男などが……その口から生えた苗木ほどの『未知』が怖かった。


「頼むから!!電話を、電話を切らないでくれえええ!!!」


『―――――』


 スマートフォンを、古い指が何度も強く押す。だが、機械に疎いこの老人でなかったとしても、状況が好転することはなかっただろう。


『ビビイイイガガガガガアアアギギギギギギイイイイイイキキキキイイイイギギガア』


「なんなんだ、このノイズは!?」


 ただただ耳障りな音がその小さなものからは流れて、老人をイラつかせた。スマートフォンの画面は、虹色のにじみとなる……老人はその様子に、遠ざかりたい『未知』の気配を感じ取った。スマートフォンを反射的に投げて……。


 男の死体からも後ずさりしながら距離を取る。


 頼ったのは、猟銃だけである。構えた。いつでも、それを撃つために。男の死体に、銃口を向ける……向けたものの、首を横に振って拒絶していた。


「人を……し、死体だとしても撃てるか……っ」


 『未知』が相手だとしても、それだけはしてはならない。猟銃を持つ者の心得として、それだけはしてはならなかった。職業的な倫理に従い、老人は銃口を空に向ける。


「くそ……っ。くそ……っ。なんだ、どうすれば―――」


 現実は残酷なもので。引きつる顔の老人の前で、正気を構成するために必要な常識が大きく歪んでいた。


 慣れ親しんだはずの森の木々が、風もないのに強く揺れ動く。歪んでいくのだ。森が動き、老人に向かって近づいてくる……。


 それは、二足歩行する巨大な猿のようにも見えた。体色は赤黒く、体からは無数の枝が生えていた。森の化身のような形状をした、非現実的な化け物。それが、大きく左右に揺れながら、近づいて……男の死体に、無数の枝が編まれることで作られた巨大な腕を伸ばす。


「や、やめ……」


「ぎぎぎぎぎいいいいいいいいいいいいいいいいいッッッ!!!」


 鳴きながら、化け物は男の死体に取りついてしまう。その巨大な頭部を腹部におしつけて、食事を始めた。


 骨が割られる音が聞こえ、内臓を貪る音が響き。猟師の鼻には慣れた、あの臓物と血のにおいが周囲に立ち込め、男の体が食い破られていく。食欲は狂暴なまでに残酷であり、眼球もなさそうな化け物は、その裂けるように広がった大きな口で、ヤンマが獲物を貪り食らうように死体を破壊し、呑み込んでいった。


 老人は、その場にしゃがみ込み……。


 ガチガチと歯を鳴らしながらも、猟銃を構え続ける。撃つことは、出来なかった。目の前にいる『未知』と敵対するための勇気は湧いて来ないのだ。


 化け物は、男の死体を半分近く食らうと。男の口に腕を近づける。口から伸びている揺れる枝が、化け物の腕に向かって伸びて、それらは混ざり合うように結びついた。


 まるで、飼い犬につけるリードのようにも老人には見える。死体から伸びた枝を紐の代わりに使い、化け物は食い散らかした死体を引きずりながら、森へと向かって歩き始めた。化け物は、霧と森の奥へと、すぐにその巨体を隠してしまう。


 去ってくれた。


 あとには、疲れ切った老人だけが残る。まるで、現実ではなかったような時間。それでも老人には自分が発狂しているのだと、現実から逃避することが許されない。目の前にある生々しい食事の残骸。


 内臓と。


 骨の一部と。


 ズタボロになった服だ。


 思い出す。思い出したくもないが、無理やりに記憶の扉は開く。見たことがあった。この汚げな食い荒らし方を……失われた、自分の猟犬たちの末路である。


 ……それから。


 しばらく老人は頭を抱えて、化け物が消えた方向ばかりをじっと見つめていた。


 理解していることと、理解が及ばないことは明瞭に分別されている。


 まずは、二度と自分はこの山には来ないことだ。


 猟銃の免許も返納しよう、自分は森の中で冷静でいられない。こんな人も殺せる物騒な道具を使いこなせない。ちょっとでも怪しげな気配を感じたら、引き金を絞るだろう。あの『未知』と接触するのは絶対にイヤだ。


 犬も食うし、人も食う。


 たまたま助かったが、次は自分が捕食の対象となるのかもしれない。それだけは、イヤだった。あんな、無残な死に方だけはしたくない。


 あれは、最近になって現れたわけじゃない。昔からいた。こちらが気づかなかっただけで、ずっといたんだ。ワシの近くにも、いやがった。犬を捕らえて食らうほどには近くに。


 山でも完全な孤独には、なれていなかった。


 それらが、確かなことだった。


 そのほかのことは、何一つだって、分からなかった。




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『熊と生け贄』 よしふみ @yosinofumi

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