赤ずきん探偵

南雲 皋

◆◇◆

 ある朝、目覚めた赤ずきんは探偵になっていた。

 自分が探偵であることに気付いて、呆然とした。


 眠る前までの自分は、どこにもいなかった。

 ただただ、探偵だった。


 ベッドから起き上がり、赤いずきんを被る。

 赤いワンピースを着て、白いエプロンドレスを身に付けた。

 短くて白い靴下を履いて、赤い靴を履く。


 いつもなら、赤ずきんが起きるとお母さんはこう言うはずなのだ。

『おばあさんの家にいっておいで』と。


 赤ずきんにバスケットを差し出して、そう言ってくれるはずのお母さんは、何も言わずに台所でパンを焼いている。

 赤ずきんの方を、見もしなかった。


 家の内装は眠る前と何ら変わりはないし、パンとスープの匂いも、洗濯物の匂いも、何もかも変わらない。

 変わらないのだけれど、それでも眠る前とは決定的に違ってしまっていて。


 もうここは、赤ずきんの家でありながら、赤ずきんの家ではなくなってしまったのだ。

 そのことが、ひどく悲しかった。



「おかあさん」



 話しかけても、反応はなかった。

 赤ずきんとおかあさんのいる世界は全くの別物になってしまったのだった。

 赤ずきんは、赤ずきん探偵になってしまったのだった。


 どうして探偵になっていたのかは分からなかった。

 何の前触れもなく、突然探偵になることなどあるのだろうか。


 だが、考えても答えなど出るはずもなかった。

 赤ずきんは探偵であったから、すぐにそれを悟り、そして考えるのをやめた。


 自分が何を為すべきなのかは分からなかったが、赤ずきんはとりあえず普段の動きをなぞってみることにした。

 テーブルの上に置かれたバスケット。

 その中にはおばあさんの大好きなパンとワイン。

 いつものようにそれを持って出掛けようとして、お母さんの迷惑になるかもしれないと思い、手を離す。


 赤ずきんは何も持たずに家を出て、森の中へと入っていった。


 森は、変わらずに赤ずきんを包み込んでくれた。

 眠る前と変わらない優しさで頬を撫でる風に、赤ずきんは泣き出したい気持ちになるのをこらえておばあさんの家へと歩みを進めた。


 おばあさんの家へ向かう最中、いつも寄り道していた花畑。

 花も変わらず咲いていたけれど、いつものように数本摘むことははばかられたので、ただ花を見つめるだけに留めた。


 その時、気が付いた。

 自分の影が見当たらないことに。

 いつもなら足元から伸びているはずの影は、どこにもいない。


 ああ、本当にこの世界から切り離されてしまったのだ。

 赤ずきんはそう思った。


 いつもなら、こうして花畑にいると遠くの方で狼さんの気配がするはずだった。

 今は、何も感じない。

 誰も、いない。


 それも、赤ずきんが探偵になってしまったことが原因なのだろうと納得した。


 赤ずきんは一つ溜息を吐いて、おばあさんの家へと向かうのだった。



 ◆



 おばあさんの家の扉は閉まっていた。

 ドアノブに手を掛けて回しても、ガチャガチャと音を立てるばかりで開かない。


 鍵を、かけるなんて。


 少し悲しくなりながら、赤ずきんは肩から下げた赤いポシェットの中に手を入れた。

 ごそごそとポシェットの中を探ると、ひんやりとした硬い感触。

 赤ずきんは安心する。

 鍵は持ったままだった。


 カチャリ。


 赤ずきんは鍵を開け、ゆっくりとドアノブに手を掛ける。

 中にはおばあさんのフリをした狼さんがいて、赤ずきんを迎え入れてくれるはずだ。


 大丈夫。

 きっと狼さんが、よく来たねって言ってくれる。


 赤ずきんはいつもより勢いよく扉を開けた。

 そうして、そのまましばらく動かなかった。


 動けなかった。


 家の中、扉を開けると目に飛び込んでくる、いつも狼さんが寝ていたベッド。

 その上に、狼さんが大きな口を開いたまま、


 耳から、目から、鼻から、そして口から、流れた血が狼さんを真っ赤に染め上げている。

 見開かれた瞳は、恐怖を映しているというよりはむしろ、反射的にそうなってしまったもののように感じられた。


 息が、上手く出来ない。

 赤ずきんは歯がカチカチと音を立てるのを他人事のように聞きながら、視線を下ろしていった。


 何度も何度も切り付けられた胸部。

 更に視線を下ろす。

 狼さんの腹部。


 そこには。

 そこには。


 



 まるで眠っているかのように目を閉じて、しかし死んでいることは一目で分かる。


 だってあたましかないのだもの。


 おばあさんの身体は、部屋に置かれたマホガニーの丸テーブルでお茶を飲んでいた。


 赤ずきんが来るといつも出してくれた紅茶が、スコーンが、テーブルの上にあって。

 凶行の直前まで誰かとティータイムを楽しんでいたと思わせるくらい、平和な、テーブルに、お気に入りの背付きの椅子に、おばあさんの首なし死体が座っていた。



「う……おぇ……っ」



 咽せ返るような血の匂い。

 それを一気に吸い込んでしまって赤ずきんは膝を付き、床に胃液を吐き出した。


 どうして、どうして、どうして。

 誰が、こんな、ことを。


 ひとしきり吐いた後、赤ずきんは自分に影が戻っていることに気付いた。


 完全に隔絶されたと思っていたこの世界に、おばあさんと狼さんの死によってまた近付いたのだろうか。

 こんなことで近付きたくはなかったけれど。


 赤ずきんが探偵になったのは、これを解決する為だったのだろうか。


 きっと、そうだ。


 赤ずきんはゆっくりと立ち上がった。


 おばあさんと狼さんを殺した犯人を見付けなくてはならない。

 それが、探偵の役目だから。



 家の中に視線を巡らせる。

 玄関の扉の近くにまで血の池は広がっていた。

 赤ずきんの吐瀉物が池に沈んでいる。


 濡れていない床には、おばあさんの足跡も、狼さんの足跡も、誰の足跡もない。


 赤ずきんは自分の吐瀉物を避けて家の中へ足を踏み入れた。


 ぴちゃ。

 ぴちゃ。

 ぴちゃ。

 これはおばあさんの血かしら。

 狼さんの血かしら。


 ベッドシーツにも、おばあさんのスカートにも、不自然なところはなかった。

 狼さんは自分からベッドに横たわったし、おばあさんは自分から椅子に座ったのだろう。

 そんなことがあるのだろうか。


 もしくは犯人がとても力持ちで、狼さんもおばあさんもひょいと持ち上げられるくらいだったのなら、これくらいのことは自然に出来るのかもしれないけれど。


 赤ずきんは狼さんの前に立った。

 狼さんの鋭い牙からは、粘り気のある血液が糸を引くように垂れている。


 狼さん。

 狼さん。

 いつものようにおばあさんのフリをして、似合わぬ高い声で冗談だよって笑ってよ。


 けれど、ぱっかりと開かれたままの狼さんの口からは、何も聞こえない。


 狼さんの開かれた腹部にそっと触れる。

 いつもなら赤ずきんと狩人さんで開く、狼さんのおなか。

 その切り口は、いつもと同じだ。

 見慣れた切断面。


 唯一違うのは、そこから元気に出てくるはずのおばあさんが死んでいること。

 首だけであること。



「おおかみさん……おばあさん……」



 もちろん、返事はなかった。


 赤ずきんは狼さんの元を離れ、おばあさんの身体の方へ向かった。

 再びせり上がってくる吐き気に耐えながら。


 おばあさんの身体は、今にもお茶会を始めそうなほどだった。

 赤ずきんのよく知る、おばあさんだった。


 首さえ、あれば。


 フリルが控えめにあしらわれた上品なブラウスの襟元は血液でびちゃびちゃで、おばあさんのお気に入りだったオリーブ色のスカートもひどい有様だった。


 犯人はどうやって外へ出たのだろう。

 まだ答えは出なかった。


 台所を確認すると、包丁が一本なくなっていた。

 犯人はきっと、その包丁で二人を殺したのだ。

 おばあさんがいつも料理に使っていた包丁で。



 もう家の中で確認するところはないだろう。

 赤ずきんは家の外に出た。


 反射的に深呼吸をする。

 透明な空気が肺を満たし、ようやく息ができたような感覚に陥った。

 けれどまだ少し吐き気が残っている。

 赤ずきんはゆっくりと呼吸を繰り返した。


 ようやく吐き気が消え去った時、赤ずきんの影はまた消えていた。


 この世界に受け入れてもらえるのなら、ずっと吐き気がしていたって構わないのに。


 家の周囲を見て回る。

 この森はいつも晴れていたから、地面に足跡は見当たらない。



 このままここに居ても仕方がないな、と思った。

 探偵になったからといって全ての謎が一瞬にして解決出来るというわけではないらしい。


 赤ずきんは、狩人さんに会いに行くことにした。


 狩人さんの家はどこだったかと記憶を辿る。

 いつもは、おばあさんの家にいる時に狩人さんの方から来てくれる。

 そのために、狩人さんの家のことをあまり気にしたことがなかった。


 確か森の西の外れにあると言っていたはずだ。

 赤ずきんは西に向かって歩き出した。


 赤ずきんは、額にじんわりと脂汗が浮かぶのを感じていた。

 まとわりつくような嫌な予感は消えなかった。



 ◆



 しばらく歩くと、森の木々の切れ目から狩人さんの家が見えてきた。


 家の前、切り株に斧が刺さっている。

 薪割りは途中で終わっていて、玄関は少し開いていた。


 赤ずきんは恐る恐る玄関の扉を手で押して、電気の点いていない薄暗い家の中へ声を掛けた。



「ごめんくださーい。狩人さーん」



 返事はなかった。

 家の中へ足を踏み入れると、先程の記憶が蘇る臭いが鼻をつく。


 あぁ、いやだ、いやだ、いやだ。

 そんなの、嘘だ。


 



 胸に包丁が刺さっている。

 狩人さんの右手は、その包丁を逆手に握っていた。

 まるで自分で刺したみたいだ、と思った。


 全身が心臓になったようだった。

 バクバクと、鼓動の音がうるさい。


 まだ家の中に犯人がいる可能性もあると自分を奮い立たせ、赤ずきんは大きく息を吐いて歩き出した。


 結局、家の中には誰もいなかった。


 壁に数丁の銃が掛けてあったが、一箇所だけフックしかない場所があった。


 ここにも、銃がかけてあった?


 そういえばいつも狩人さんが背負っていたライフルがどこにもない。

 犯人が持ち去ったのだろうか。


 何の為に?


 そんなの決まっている。

 誰かを、殺す為だ。


 誰を?


 もう、残っているのは赤ずきんと。

 お母さん、だけだった。


 一気に血の気が引いていく。

 次の瞬間、赤ずきんは駆け出していた。


 まっすぐ、自分の家へ。


 走りながら考える。

 確かに残るはお母さんだけだけれど、それはイコール犯人ということなのではないか。

 お母さんは狩人さんの家からライフルを持ち出し、赤ずきんを殺そうと家で待ち構えているのかもしれない。


 どちらにせよ、嫌な考えだった。


 けれど、その考えの内どちらかが当たっているのだということは、苦しいくらいに分かっていた。



 ◆



「おかあ、さん」



 家の前。

 お母さんは玄関の扉に身体を預け、事切れていた。


 無造作に両手脚を投げ出したお母さんの胸には、いくつもの銃創。

 両手が、ずきんが、血にまみれるのも構わずに赤ずきんは泣きすがった。

 お母さんの身体にしがみ付いて、しばらくの間そこから離れなかった。



 犯人は、誰なのだろう。


 お母さんも、狼さんも、おばあさんも、狩人さんも、みんなみんな死んでしまった。


 私は生きているけれど、私ではない、私ではない、はずだ。

 では犯人は、誰だ。


 分からないまま、赤ずきんは家を出た。


 何が探偵だ。

 一番大事な時に何も分からないで、何が。

 考えろ、考えろ。


 鍵のかかった家、狼さんの顔、開かれた腹部、おばあさんの身体、狩人さんの手、包丁、お母さんの死んだ場所。


 そうして赤ずきんは、一つの仮説に辿り着いた。


 足元を見つめる。

 木々の影、石の影、草木の影、赤ずきんにだけ存在しない、影。

 おばあさんのお家にいた時にだけ戻ってきた、赤ずきんの影。


 あれは、おばあさんと狼さんを殺した後、鍵をかけたおばあさんの家で息を潜めていた、犯人なのではないか。


 赤ずきんが鍵を開けて密室を壊し、家に入ったところで赤ずきんの影になった。

 そうして赤ずきんをやり過ごした後、家から出た瞬間を見計らって森に逃げたのではないか。



 赤ずきんは、その考えが正しいことを確信した。


 赤ずきんの目の前には、赤いずきんを被り、バスケットを持って鼻歌を口ずさむ、もう一人の赤ずきんがいた。



「私の、赤ずきんの影。犯人は、あなたね」



 赤ずきんがそう声を掛けると、もう一人の赤ずきんが振り返った。

 その身体は、血に濡れて真っ赤に染まっていた。

 白いエプロンドレスも、色白の腕も、脚も。



「あなたはだぁれ? 私はこれからおばあさんのお家にパンとワインを届けるの」


「あなたがやったんでしょう」


「その前にお花を摘まなくちゃ。そうして狼さんがおばあさんを食べちゃうの」


「答えて!」


「……………………」



 風も、吹かなかった。

 静寂が二人を包み、まるで時が止まったようだった。



「……お前の、せいじゃないか」


「え……?」


「お前が! お前が探偵になったからじゃないか!」



 血まみれの赤ずきんは泣いていた。

 大粒の涙がぼろぼろと瞳から溢れ、地面を濡らしていく。



「お前が探偵になったから、犯人が必要になったんだ。探偵が探偵である為に、私が犯人になったんだ。嫌なのに、殺したくなんてなかったのに、お前に犯人だと指摘されるこの瞬間の為だけに! 私は! みんなを!」



 赤ずきんは、血まみれの赤ずきんに何かを言おうとして、やめた。

 上手く言葉を発することが、出来なかった。

 何を言っていいのか、分からなかった。



「おばあさんも、狼さんも、狩人さんも、お母さんも、みんな……みんな私に仕方がないよって、笑って、上手く殺せない私に、これを使いなさい、ここを刺しなさい、ここを切りなさいって、みんなが」


「私の、せい……」


「そうだ、お前のせいだ、ずっとずっと赤ずきんになりたかった、赤ずきんになりたかったのに、やっとなれたと思ったのに! こんな……こんな……みんなが……」



 言葉になったのは、そこまでだった。


 その後の言葉は聞き取れないほどに小さく、そして血まみれの赤ずきんは、普段の赤ずきんの動きをなぞるように花畑に去っていった。


 残された赤ずきんは、ただ、立ちすくんでいた。


 こんな、こんなことが、私が探偵にならなければ、みんなは死ななかったというのか。



「なりたくてなったんじゃ、ない……」



 目覚めたら、探偵だったのだ。

 探偵になっていたのだ。


 “童話の主人公“が、”探偵“に書き換わったのだ。

 誰かによって、探偵にされたのだ。


 赤ずきんの影は犯人に書き換わり、その他の登場人物は被害者に書き換わった。


 誰かが、世界を壊したのだ。

 完成され、完璧に繰り返していたこの世界を。


 誰だ。

 、そんなことをしたのは、誰なんだ。



「ああぁぁあぁああああぁぁあぁ……っ!!」



 その答えをくれる者は、どこにも、いなかった。

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