鯨の歌

倭音

鯨の歌

 少年時代、アンリは海が好きだった。

 海軍の潜水艦乗りを父に持つアンリにとって、海は物心ついた時から憧れの対象だった。

 アンリの父は数か月に一度しか陸に帰ってこなかったが、たまの休みの日には決まってアンリを肩に乗せて海軍の基地を歩いて回り、軍港に停泊中の艦艇や兵舎やクレーンといった港湾設備を見せてくれた。アンリの父は潜水艦の艦長を務めており、部下であろう士官たちは父とすれ違う時に必ず帽子を脱いで敬礼をしてくれた。それに対して鷹揚に返礼を返す父が誇らしくて、アンリも父の肩の上から見よう見真似で敬礼をしてみたものだった。

 アンリの家は海軍基地にほど近い、海を見下ろす高台の上に建っていた。海までは子供の足でも五分とかからなかったから、学校から帰るとアンリはいつも海を格好の遊び場にしていた。学校の友人たちと市街に繰り出すよりも、そのどこかに父がいるはずの海を見ながら一人で過ごす方がアンリの性に合っていたのだ。お気に入りの場所は海に向かって長く突き出た防波堤の先端。立ち入り禁止の看板と背の高いフェンスが張られていて入れないようになってはいたが、フェンスの下の方が小さく破れているのをアンリは知っていた。コンクリート造りの防波堤の先端まで行って、基礎を支えて波を打ち消すために積み上げてある捨石に降りてしまえば陸地からは角度の問題で見えず、子供が一人でいても誰かに咎められることは無かった。

 潮流の関係でちょうど流れ着くらしく、防波堤の基礎捨石にはいつもいろいろなモノが引っ掛かっていた。大人から見ればゴミやガラクタだろうが、子供心の旺盛な想像力にはそれらは光り輝く宝物だった。青や緑のガラスの欠片はサファイアやエメラルド。アルミのフォークは中世の貴族の銀食器。ゴムの長靴は義足を着けた海賊船の船長のブーツ。海はアンリに何だって与えてくれた。

 海がくれたのは宝物だけではなかった。いや、ある意味ではそれもまた「宝物」であったかもしれない。——初めての恋心もまた、アンリはこの場所で見つけたのだ。


 それはアンリが十二歳のころだった。

 ある日アンリがいつものように防波堤に行くと、先客がいた。

 最初に知覚したのは、歌声。鈴を鳴らすような、という表現がまさにぴったりな、女性と形容するには可憐さが勝る少女の歌声。声の主の姿は見えない。


   Ich weiß nicht, was soll es bedeuten,(私は知らない)

   Daß ich so traurig bin;(どうして私がこんなに悲しいのか)

 

 アンリの国の言葉とは異なる、音節のはっきりした硬質な響きの単語。それは、現在アンリの国が目下仮想敵国とする隣国で使われている言語だった。


   Ein Mährchen aus alten Zeiten,(ずっと昔のおとぎ話が)

   Das kommt mir nicht aus dem Sinn.(胸を埋め尽くす)


 耳に慣れない隣国の言葉。軍の基地が近いともなれば、こんな場所で聞こえてはいけないはずの言葉。だが人を虜にする不可思議な魔力を孕んだ歌声に、蛇に見込まれた蛙の如くアンリの身体は動きを止め、大人しく聴き入る以外の選択肢は奪われていた。


   Die Luft ist kühl und es dunkelt,(黄昏時の冷たい風に)

   Und ruhig fließt der Rhein;(静かに流れるライン川)


 歌は防波堤の下、アンリのお気に入りの場所から聞こえてきていた。主の姿は見えないまま、打ち寄せる波の音をバックに歌声だけが響いてくる。


   Der Gipfel des Berges funkelt(夕日の光にきらきら輝く)

   Im Abendsonnenschein.(山々の頂)


 気づけば歌は止んでいた。だが歌声の主を確認しようにもアンリの足は動かず、誰何すいかの声を発しようにもからからになった喉から空気が漏れるばかりで意味のある言葉は出てこなかった。

「どなたかしら」

 歌声の主、少女の声が足元から問いかけてくる。自国こちらの言葉だ。アンリの存在はとうに気づかれていたらしい。数秒の間をおいてアンリはようやく我に返った。

「いや、その、ぼくは……」

「ああ、ここ、あなたの場所だったのね。ごめんなさい」

 声色からアンリの逡巡と困惑を察したらしい。

「いい、よ。……あの、そっち、行ってもいい?」

「ええ、もちろん。いらっしゃいな」

 招かれるがままにコンクリートの防波堤から基礎捨石に飛び降りる。不安定な濡れた捨石の上でも普段のアンリならありえないことだが、着地の瞬間よろけて膝をすりむいてしまった。毎日のように通い詰めているアンリだけの秘密基地のはずなのに、この時だけは初めて入る他人の家のような気がした。

 歌声の主は捨石の一番上に腰掛けていた。声から受けた印象の通り、年のころはアンリと変わらないかやや上くらいの少女に見えた。腰のあたりまで伸びた髪は濡れたように艶やかな黒。身にまとったワンピースは深海の冷たさを写し取ったような、ほとんど黒に近い濃紺のビロード。ひどく白い肌に、不安になるほど細い手足。

「こんにちは」

「こっ……こん、にちは。ええ、と」

 声が裏返ってつっかえる。女の子と話すのが初めてというわけでもないのに、アンリはひどく緊張していた。気づかず握りしめていた掌の内側がじとりと湿ってくる。無意識に相手に緊張を強いるだけの魔力が確かに少女にはあった。少なくともアンリにはそう感じられた。

 仮にも海軍士官の、それも艦長の息子がこんなことでどうする。情けないぞアンリ。そもそもここはぼくの、ぼくだけの秘密基地なんだ。と己を奮い立たせて会話の主導権を取り返しにかかろうとするも、その意気はまたも先に発された少女の言葉であっけなくくじかれる。

「そう硬くならないでちょうだいな。ね、あなた、お名前は?」

「アンリ……アンリだ。きみは?」

「私は……そうね、ミーアと呼んでちょうだいな」

「ミーア。……ミーア」

 口に慣れない響き。だがむしろその慣れない感覚こそ彼女にぴったりだと思った。

 人間というのは不思議なもので、未知のものへの本能的な恐怖も対象の名前を知ったとたんに薄れてしまう。口中に噛み締めるように、少女の名を二三度繰り返す。

 緊張は、消えて無くなっていた。

「そう、ミーアよ。ねえアンリ、あなた海は好き?」

「うん。毎日ここに来るんだ」

「そう、それは良かった。良い場所ね、ここ。海がよく見えるわ」

「待ってて、もうすぐ日が沈むから。ここから見るのが一番キレイなんだ」

 傾き始めていた夕暮れの太陽が、水平線にそっと触れた。瞬間、眼前から夕陽まで、海面を一直線に走る金色の道が伸びる。一日にほんの数分だけの、アンリの一番の宝物だった。空はゆっくりと夜の帳を下ろしていき、海の色もまたそれに応えて静かに眠りに就こうとする。

「ほんとう。綺麗ね」

「でしょう? ぼくだけの宝物だったけど、きみにもあげる。誰にも内緒だよ」

 自分でも何を言っているかわからない言葉が口をついて出る。言ってしまってから頬が熱くなるのを感じる。

「ふふ、ありがとう。優しいのね。優しいヒトは、好きよ」

 ……ずるい、と思った。

 沈んでいく夕日を背にミーアがこちらに向き直る。この時初めてアンリは少女の顔を正面からちゃんと見た。これまで横顔しか見ていなかったことに今更ながら気づく。

 逆光になお浮かび上がる少女の二つの瞳は黒く鏡のように濡れ、それでいて淡く光を帯びて見えた。——呑まれるくわれる

 最初に歌声を聞いた時と同じ、未知のものに対する畏れが再び首をもたげる。アンリの首筋を冷たいものがなぞる。——既視感。僕はこの「瞳」を知っている……?

 その刹那、アンリは本能で理解した。……彼女は、ヒトじゃない。何か別の——

「ミーア、君は……!」

 背を向けた陸側から一陣の風。思わず目をつぶる。

 目を開けた時、そこにミーアの姿は無かった。

 誰。何。どこから——。続くはずの言葉は夜の訪れを告げる冷たい陸風にさらわれてどこかへ行ってしまった。

 家に帰ってシャワーを浴びる。膝に鈍い痛み。そういえばさっき基礎捨石に降りる時にすりむいたのだった。ついでに既視感の正体を思い出す。鯨だ。あれは父さんが買ってくれた図鑑で見た、巨大な鯨の優しげな瞳だった。どうして怖いと思ったのだろう。

 既にあの時どうしてか感じた恐怖はなく、アンリの胸にはなんだか温かいような感覚だけがぼんやりと残っていた。


 またあの隣国の歌を歌う少女……ミーアに会えるかもしれないと淡い期待を抱きながら、アンリはその後も毎日防波堤に通った。だが結局ミーアと会ったのはあの一度きりで、再び彼女がそこに現れることは無かった。


 そうこうしているうちに十年もの月日が過ぎ、アンリは成人を迎えていた。その間に以前からきな臭かった隣国との間にとうとう戦端が開かれ、隣国との海の玄関にして海軍の要衝だったアンリの町は真っ先に狙われた。奇襲を受けて町は意外なくらいあっさりと陥落し、ある日を境に学校では隣国の言葉を学ばされるようになった。級友たちにとっては苦痛でしか無かったようだが、アンリは隣国語を覚えたらミーアに少しでも近づけるような気がして勉強にも精が出た。

 父が数年に及ぶ長い長い航海から帰ってきたのは、アンリの二十歳の誕生日だった。アンリと母を散々待たせた挙句ようやく海から上がってきた父は、トランク一つ分の荷物と訃報を知らせる短い電報だけの随分とコンパクトな姿になっていた。町が敵の手に落ちても郵便は届くんだな、と的外れな哀感だけがアンリの胸を占めていた。

 高等学校を卒業したところで理系に秀でた才覚があったわけでもなかったアンリは、町の新たな支配者となった隣国の軍部による徴兵に大人しく応じ、かつて祖国と信じた国に弓を引くこととなった。

 軍人の息子とはいえアンリ自身にはもともと愛国心の類は薄く、徴兵に応じれば自分だけでなく母も名誉市民としてある程度の生活を保障してもらえるとなれば、あえて拒否する理由はアンリには無かった。

 どうやらアンリが思っていた以上に隣国の台所事情は逼迫していたらしく、たった一年の訓練機関と適性試験の末、何の因果か父と同じ海軍の、それも潜水艦部隊への配属があれよあれよという間に決まってしまった。

 仮にも敵国で生まれ育った人間をそんなところに配置しても良いのだろうかとアンリ自身心配になる人事だったがどうやら潜水艦部隊の損耗率は高いらしく、深刻な人手不足でそれどころではないようだった。

 父の遺伝か生まれつき耳は良かったらしく水測員ソナーマンとして潜水艦〈ジレーネ〉に乗り込み、生まれも育ちも関係ないとばかりに隣国の軍人として一も二も無く鉄拳を浴びながらの海中生活が始まった。

 水中探信儀アクティブ・ソナーから発する探信音波ピンガーの反響や、水中聴音器パッシブ・ソナーが拾うふねのエンジンやスクリューの音から自艦の周囲の状況を感知する水測員は視覚に頼れない潜水艦にとって艦の生死を左右しかねない大事な役職であり、その両の耳は命よりも大切だった。おかげで〈ジレーネ〉艦長名物の強烈な張り手だけは喰らわずに済んでいたが、その分拳による「教育」が人一倍多かった気もしたのでありがたみは無かった。

 怒号と鉄拳に追い立てられ、いつ祖国の……もとい「敵」の攻撃で海の藻屑となるかもわからず、狭い艦内の劣悪な衛生環境でむさくるしい男たちと数か月単位で寝食を共にする。そんな生活が五年も続くうちに、アンリはすっかり海が嫌いになっていた。

 それでも隣国の言葉を話しながらこの海に潜っていれば、いつの日かまたあの掴みどころの無い、鯨の目の少女に会えるかもしれないという根拠のない希望だけがぎりぎりアンリの心を支えていた。


     *


 ——一頭のクジラが「私」の腕の中で命を失っていく。裂けた腹からあふれ出た黒い血が辺りに漂い出し、不快な臭いをまき散らす——


 地上の遍く生命を育む太陽の熱も光もここには届かない。暗く冷たく、音も無い死の世界。ニンゲンならばそう感じるであろう深い水の底はしかし、「私」にとっては明るく華やかな、命の楽園であった。クジラたちが呼びかけあう、わぁん、という声が振動となって海藻を細かく震わせ、それに合わせてイワシの腹がきらきらと輝く。アンコウやクラゲたちが発する光はゆらゆらと揺らめき、それに小魚たちが群がっている。水の遥か深いところから時折海底火山がずむん、と重低音を届けてくる。天寿を全うした微生物たちが白い粉となってしんしんと降り積もっていく。深海に住まう生命が生み出す光と音のコーラスが「私」を常に楽しませ、退屈を奪い去ってくれる。

 そんな「私」の楽園を、突然鋭いノイズが切り裂いた。怯えた魚たちが我先に逃げ出していく。逃げる足を持たないフジツボは殻に引きこもって震えている。かあん、という耳をつんざく甲高いソナー音に続いて、スクリューが無作法に水流を引っ掻き回す音がゆっくりと近づいてくる。最近になってニンゲンたちが造り出した潜水艦というやつがやってきたのだ。


 ——クジラの腹の中に飲み込まれていた小さな生き物たちの死骸が白い目を剥いて恨めし気に「私」を睨みつける——


 始めのうちは良かった。ニンゲンたちは海の端の方にしかおらず、うっかり沖合に出すぎた個体はあっけなく沈み、海の栄養となってくれた。しばらくしたら人間たちは船なるものを造り出し、気づけばそれで海の端から端に渡るようになり、沢山の魚を捕まえるようにもなった。食べるために他の生物を捕るのは自然なことだし、そのために進化していくのも当然のことだと思ったから「私」はそれを静観した。生物が何百世代もかけて進化していく様を眺めるのは興味深いし、その過程で少々他の生物に迷惑をかけるのもままあることだ。他のどんな生物よりも早く進化して生活圏を広げていく人間が面白くて、「私」はしばらく彼らを観察することにした。だが彼らの進化の速度と方向性は、「私」の想像を遥かに逸脱していた。ニンゲンたち同士が海の上で争い始め、数多くの壊れた船が腹の中に何百というニンゲンを飲み込んだまま海の底に沈んできた。一隻沈むごとに船からは大量の重油が流れ出し、水面を汚していった。

 ニンゲンたちの戦場はやがて海の中にも広がってきた。潜水艦なる鋼鉄のクジラが海底を這いずり回るようになった。それだけならまだこれまでのように「面白い」で済んでいたが、鋼鉄のクジラたちの声はあまりにも喧しかった。そして潜水艦は時折稚魚のような魚雷を放ち、それが当たった場所にすさまじい破壊を齎した。


 ——クジラの亡骸……否。撃沈されて残骸となった潜水艦を手放す。ちぎれて浮かんでいる乗組員たちの内臓を魚たちがつつき始めた。巨大な鋼鉄のクジラが海溝に飲み込まれて見えなくなっていく——


 「私」はようやく彼らを不愉快に感じ始めた。うるさい、臭い、挙句海を壊すばかりとなれば、いよいよ黙って見ているわけにもいかなくなってきた。

 先刻から響いていた潜水艦のソナー音がいよいよ近づいてきた。反対側からも、もう一隻分の音がやってくる。またニンゲン同士の戦いが始まるのだ。艦の腹の中で蠢くニンゲンたちの鼓動や話し声まで聞こえてくる。「私」は重い体を岩礁から引きはがし、気泡をひとつ吐き出してからゆっくりと浮上し始めた。


     *


 ごぼ、という気泡がはじける鈍い音がにわかにレシーバーから響いて、アンリの耳を刺激した。おおかた遥か彼方の海底火山の音か何かだろうが、ひどく緊張した身には巨大な怪物の吐息のように思われた。

 痛いほど耳に押し当てたレシーバーからは、詰まった下水管のようなごろごろとした不快な水流の音ばかりが吐き出されてくる。温度計の針は三〇度を超えてなおじりじりと上昇を続け、暑いはずなのにひどく冷たい脂汗が頬を伝う感覚が、鋭敏になった神経をなぞっていく。艦の頭脳たる発令所の赤色灯に照らされて、つい先ほどまで談話室でポーカーに興じていた同僚たちの顔はさながら地獄の悪鬼の様相を呈していた。深度一〇〇メートルの海底にあって、潜水艦〈ジレーネ〉の艦内は周囲の水圧を引き受けたように不気味に重く静まり返っていた。

 十年近く前に始まった戦争は激化の一途をたどり、すっかり泥沼化していた。もともとの開戦の理由など誰も彼もすっかり忘れてしまい、開戦当時には多少なり胸に抱いていたはずのほのかな戦意や高揚感も毎日を鋼鉄の鯨の胃袋で過ごす間にとうに腐乱し、今はただ漠然とした「死」のイメージから少しでも逃れたい一心でアンリは潜水艦に乗っていた。

 僕だけじゃない。みんな艦長の拳骨や張り手が怖くて言えないだけで、おそらく考えていることは似たり寄ったりだろう。とアンリは胸中に思う。きっと今やぼんやりと「テキ」としか認識できなくなってしまったかつての祖国の人たちだって同じはずだ。「勝ちたい」ではなく「死にたくない」という至極後ろ向きな戦意。軍人としては失格だし、下手に口になど出そうものなら懲罰モノだ。だがその「後ろ向き」こそが他のどんな感情よりも強く人類を突き動かすからこそ戦いは永久に終わらない。こと艦の中では神様より偉いはずの艦長でさえ、一兵卒の自分と同じように「後ろ向き」を抱え込んでいるに違いないと思うと、不意になんだかばかばかしさがこみ上げてきた。

 ふと気がつくと、隣のソナー席に座っていた水測長の血走った目がじとりとこちらを睨んでいた。余計な雑念を抱いているのはお見通し、というわけだ。アンリは慌ててレシーバーを掴みなおし、聴音に集中した。

 ほんの六時間前までは艦内はこうも張りつめてはいなかった。隣国の補給を断つべく通商破壊の任に就いていた〈ジレーネ〉が公海上で首尾よく隣国の輸送船団を発見し、羊の群に襲い掛かる狼よろしく牧羊犬たる護衛の駆逐艦もろとも五隻の貨物船を沈めたまでは良かった。問題はその後だ。上々の戦果を報告すべく意気揚々と帰途に就いた〈ジレーネ〉の水中聴音器パッシブ・ソナーが、記録されている自国艦のどれとも異なるスクリュー音、つまりは敵艦のそれを探知したのが六時間半前のこと。こちらとしては残りの魚雷も少なく燃料も消費しており、できれば交戦は避けたかった。だがこちらのソナーが感知しているということは当然相手もこちらを発見しているということであり、そして残念ながら相手はこちらを見逃すつもりは無いようであった。直ちに敵艦との正確な距離を探るべく水中探信儀アクティブ・ソナーから探信音波ピンガーが放たれた。敵は十二時の方角からまっすぐこちらに突っ込んできていた。直前に都合六隻もの味方艦艇を沈められているのだ。相手は怒り心頭といったところだろう。交戦は避けられそうになかった。

 急速に接近して射程距離に入った瞬間互いに挨拶代わりとばかりに魚雷を二発ずつ撃ったところで、〈ジレーネ〉は外れて岩礁に当った魚雷の爆発に乗じて一気に深度限界まで潜った。そうして敵艦がこちらを諦めて立ち去るまで息をひそめることになった。それから早くも六時間が経過する。

「くそっ……しつこい……」

 そう小さく発された声は誰のものだったか。あるいはアンリ自身のものだったかもしれないが、今のアンリにはもはやわからなくなっていた。敵もこちらも互いにアクティブ・ソナーを発していない以上、相手の正確な位置はどちらも掴めていない。だがレシーバーからは敵艦のスクリューが発する水流音が未だ吐き出され続け、相手が一向に諦めてくれずにこちらの頭上を旋回し続けていることを教えていた。

 じりじりとした我慢比べが延々と続き、敵はこのままこちらの酸素が尽きるまで頭を押さえつけるつもりかと思われた。

 ごぼり、といやに大きな異音がアンリの耳朶を打ったのはその時であった。明らかに潜水艦が発する機械的な音ではない。だがこの辺りの海にこれほどの音を発するような鯨や大型の魚類は生息していないはずだった。隣を見ると、アンリと同じ音を聞いたらしい水測長も怪訝そうな顔をしていた。——何だと思う? と言外に問うた水測長の目に、アンリはわかりませんと力なく目を逸らすしかなった。

「ソナーに感。かなり大きい。しかし……敵艦にあらず」

 必然、水測長が上げる報告も曖昧なものになる。だがそんな曖昧を許す艦長ではない。

「報告は正確にしろ、水測長。敵艦でないなら何だ。魚か」

「それがわからんのですよ。小せえ魚の出せるような音じゃあなかった。何か大きなものの音でした。しかしこの辺の海に鯨が出るなんて話はありやせん」

 アンリの耳に入ってくる異様な音はますます大きくなってくる。

「先ほどの異音、さらに近づく」

 報告を上げるアンリの声は震え始めていた。

「何だってんだ、チクショウ……?」

 受動的に周囲の音を聞くだけのパッシブ・ソナーでは目標物との正確な距離や位置関係は掴めない。あくまで対象の方角がわかるだけなのだ。より正しい情報を得るためにはもう一度アクティブ・ソナーからピンガーを打ち、音波の反響時間で距離を探る必要があった。

「艦長、ピンガー打ちますか?」

「ダメだ。今打てば頭上の敵艦にこちらの位置を悟られる。もう少し待て」

「了解」

 いよいよ大きくなってきた音はしかし、突如として聞こえなくなった。

「音源消失。停止した模様」

「敵艦ではないのだろう? であれば今は眼前の敵に集中せよ」

「は」


 ——良いわ。助けてあげましょう——


 その時だった。アンリは鈴を鳴らすような、どこか懐かしい感じのする声を聞いた気がした。とうとう酸欠で幻聴でも聞こえ始めたのかとも思ったが、声は繰り返し、何事かを伝えてきていた。よく聞けばそれは、明確に意味のある「情報」だった。

「……方位マルサン、距離二百、深度六十」

 声が伝えてきた情報をそのまま復唱する。傍からはアンリの気が触れたとしか見えなかっただろう。だがアンリには狂気にも似た確信があった。そこに敵艦が、居る。

「どうした、アンリ。何だ」

 水測長の当惑した声。

 発令所を振り向けば、艦長の射殺すような眼光がこちらを見据えている。その眼光を発言の許可と解釈し、アンリは繰り返した。

「方位マルヨンからサンヒト、本艦前方を右から左へ五ノットで移動中。距離二百、深度六十。そこに敵艦がいます」

「なぜわかる」

 艦長が問い返す。

「……わかりません。でも、わかるんです」

 我ながら何を言っているのだと思う。艦長が信じてくれるはずがない。だが目を合わせた艦長は、アンリが冗談を言っているわけでも気が触れたわけでもなく、確かな確信を持って言っていると判断してくれたらしい。妙なところでのそういう勘の鋭さと思い切りの良さが、この艦長にはあった。

「良かろう。どうせこのままでは埒があかずに全員ここで窒息死だ。貴様の言葉、信じるものとする。——一番二番、魚雷発射用意。方位サンヒト、距離二百、深度六十」

 一度艦長がそうと決めたなら、それに疑問を呈する船乗りはいない。直ちに命令が伝えられ、魚雷発射管に注水がなされ、発射管の蓋が開かれる小さな金属音が響く。

〈艦長、発射準備整いました〉

 伝声管越しに魚雷発射管室からの報告。

「よし、撃て」

〈了解。一番二番、撃て!〉

 四〇ノットの高速で海中を突き進む魚雷が命中するまで約十秒。はたしてきっかり十秒後、遠方で爆発音が轟いた。レシーバーを押し当てたアンリの耳に、爆発音のノイズの中で鋼鉄がひしゃげる音が確かに聞こえた。魚雷が命中し、圧壊する敵潜水艦の断末魔だ。

「……命中。敵艦、沈みます」

「よろしい。艦首十五上げ、艦尾十下げ。浮上せよ」


 ——「百」までは、待ってるから——


 艦を浮上させ、六時間にわたる幽閉から解放される。だがアンリを含め、発令所の面々の顔に晴れやかさは無かった。艦長が口を開く。

「アンリ。先ほどのは何だ。なぜ敵艦の位置がわかった?」

 当然の疑問だ。アクティブ・ソナーを使わずして海中で敵艦を見つけられる道理は無い。

「……声が、聞こえたんです」

「声、だと?」

「はい。知らない声でした。それが敵の位置を教えてくれたんです。でも、確かだという確信がありました」

 嘘だ。僕はあの声を知っている。あれは、ミーアの……

「なぜだ」

「根拠はありません。ただ、そういう確信が」

「フム……まあ良かろう。これ以上問うてもわかるまいな。長く陸を離れていれば、そういう不可思議な話はままある。隣国ではドラゴンを見たという飛行機乗りがいるとかいう話も聞いたことがある。幻かもしれんし、はたまた我々の知らない不思議がこの世にはあるのやもしれん。あるいは貴様の秘めた才能、ということかもな」

「ありがとうございます、艦長」

「良い。ともかく助けられた。礼を言う」

「は。光栄であります」

「貴様の耳、当てにしている」

 艦長には黙っていたが、アンリには一つの予感があった。「声」が聞こえる直前にレシーバーから聞こえてきた妙な音。あれはきっと、彼女が来てくれたのだ。

 だが浮上する時にちらりと聞こえた気がしたあの言葉、「百」とはいったい……?


   *


   Die schönste Jungfrau sitzet(美しい乙女が)

   Dort oben wunderbar(腰掛けている)

   Ihr gold’nes Geschmeide blitzet,(金の飾りをきらめかせ)

   Sie kämmt ihr gold’nes Haar.(金の髪を梳いている)


 「私」は歌う。観客は物静かなゴカイやふわふわ漂うイカたちばかり。

 「私」は上機嫌だった。ちょっと前に出会ったニンゲンの彼……アンリといったか。彼にまた会えたのだ。姿を見たわけではないけれど、「私」は彼を「聞いた」し彼も「私」を聞いてくれた。

 アンリは喜んでくれただろうか。きっと喜んでくれただろう。そういう「音」がしていたもの。

 海が好きだと言ってくれたアンリ。


   Sie kämmt es mit gold’nem Kamme,(金の櫛で髪を梳き)

   Und singt ein Lied dabei;(乙女が歌をくちずさむ)


 「私」は今まで、ニンゲンたちは海が嫌いなのだと思っていた。長い事彼らは海の深いところまではさっぱり来ようとしなかった。彼らが海の底まで来る時は、どうも決まって息絶えた後だった。最近は潜水艦で少し深いところまで生きたまま来るようになったとはいえ、生身で海の中を見ようとするものは誰一人いない。遠慮なく汚したり騒がしくしたり、酷い事ばかりする。

 彼らの事を少しでも理解してみようと思って、ニンゲンたちに近づいてみたこともある。最初のうちは「私」の姿で驚かせてしまったようだが、彼らの姿を真似ることでそれも解決した。ニンゲンたちの言葉も歌もそうして覚えたものだ。クジラたちのそれよりずいぶんと高い音程だが、何度か練習しているうちに上手に歌えるようになってきた。

 だが海の中はこんなに綺麗な世界なのに、残念ながら彼らとはそれを共有できないのだとばかり思っていた。ニンゲンは海が好きではないのだ、と。でもアンリは海を見て、綺麗だと言ってくれたのだ。嬉しかった。

 そういえばちゃんとニンゲンと話をしたのも彼が初めてだったかもしれない。怖がらせては申し訳ないと、いつも「私」の方から勝手に観察するだけだったから。


   Das hat eine wundersame,(それは不思議で)

   Gewaltige Melodei.(力強い旋律)


 アンリにもこの海底の景色を見せてあげたい。彼ならきっとこの景色も気に入ってくれるはずだから。でも彼も忙しいのだろうから、もう少し待たなくちゃ。潜水艦で船を沈めるのがアンリのお仕事みたい。ならば手伝ってあげましょう。

 たくさん沈めたその後で、きっと会えるはず。

 待っててね、アンリ——


     *


 潜水艦〈ジレーネ〉は、その後も素晴らしい戦果を挙げ続けた。およそ人間業とは思えぬ見事な操艦で、次々と敵国の艦船を沈め続けた。勝利の女神の加護だと称える者もあれば、あのふねは深海の悪魔と契約したのだと畏れる者もあった。

 だが〈ジレーネ〉は、戦果が九十九隻を数えいよいよ前人未到の百隻斬りを成し遂げた直後、突如として洋上でその消息を絶った。

 勝利の女神に見放されてついに撃沈されたか、はたまた悪魔に魂を喰われ幽霊船となって水底を永久に彷徨さまよっているのか、誰にもその行方は知れずじまいだった。


     *


〈魚雷発射管室、浸水!〉

〈機関室、第一・第二タービンとも停止!〉

〈居住区画浸水激しい! 水密扉閉めろ!〉

 伝声管から艦内各部署の怒声と悲鳴が聞こえてくる。

 それは、突然の事だった。歴史に《ジレーネ》の名を刻むべく百隻目の目標たる商船を見事撃沈し、艦内が沸き立った、その瞬間。

 アンリの耳に、いつか聞いたごぼ、という水音が聞こえた気がした。続いて急速に接近する巨大な、しかし人工の艦船の類とは明らかに異なる何かの音。

 ——ああ、彼女ミーアだ。来てくれたんだね。

 アンリのほのかな喜びも束の間、直後ジレーネの鋼鉄の外殻が激しく軋み始めた。分厚い装甲がひしゃげ、千切れる音。艦内のいたるところから海水が噴出し、乗員たちの反射的なダメージコントロールも空しく《ジレーネ》はものの数秒で圧壊した。

 無敵を誇った鋼鉄の鯨がいともあっけなく沈んでいく。

 発令所にも怒涛の勢いで流れ込んできた海水に、なすすべなくアンリの身体も飲み込まれる。

 なぜ。どうして。助けてくれるんじゃ——

 困惑を孕んだ恨み言は言葉にならず、肺から気泡となって昇っていくばかりだった。薄れていく意識の中で、アンリは巨大な影が近づいてくるのをぼんやりと知覚した。

 鯨よりも、潜水艦よりも遥かに大きな異形の影がゆっくりと優しくアンリを包み込む。

 ——そうか、ミーア。君は——ただ会いたかっただけなんだね——

 もうアンリには恐怖も困惑もなかった。もう一度彼女に会えた喜びと、かすかな安堵感。穏やかな幸福感が胸に広がっていく。

 ——ぼくはもう、戦わなくていいんだ……

 完全に意識が消える直前、鈴を鳴らすような歌声をアンリは確かに聞いた。


     *


 やっと会えた

 なのにどうしてそんなに苦しそうなの?

 そうか、ここはニンゲンには少し寒いのね

 でもほら、綺麗でしょう?

 ここが私の世界。水底の楽園

 ほら、私が抱きしめてあげる

 ふふ、ようやく笑ってくれた

 ああ、ダメよ魚たち。アンリをつついては。彼が困ってしまうから

 あの時の歌の続き、あなたに聞いてほしかったの


  Den Schiffer im kleinen Schiffe(小舟に乗った舟人は)

  Ergreift es mit wildem Weh;(歌声に心を囚われて)

  Er schaut nicht die Felsenriffe,(岩礁には目もくれず)

  Er schaut nur hinauf in die Höh’.(ただ空を仰ぎ見るばかり)


 どうして何も言ってくれないの? アンリ——

 

  Ich glaube, die Wellen verschlingen(波が舟人を呑んでしまうだろう)

  Am Ende Schiffer und Kahn;(舟人も小舟も消えていく)

  Und das hat mit ihrem Singen(彼女の歌声によって)

  Die Lore-Ley gethan.(それはローレライの仕業なのだ)

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