それは恋にも憎悪にも似た

椿叶

それは恋にも憎悪にも似た

 姉さんは美人で、頭がよくて、運動はそこそこだったけど、優しくてよく気が回って、人望もあつい。学校では一目置かれるような、そんな人だ。

 対して、俺は普通。別にイケメンでもないし、成績だってまあまあ。スポーツはそれなりだけど、平均より上って程度。周りには優しくしようとは思うけど、姉さんみたいに細やかな気配りができるわけでもない。姉さんと比べなくたって、十分凡人。


 姉さんと比べて育てられたわけではないけれど、勉強の出来だろうがなんだろうが、数字によってあらわされてしまう。だから、嫌でも姉さんと比べざるを得なかった。あと、親の褒め方の違い。そういうのが分かるようになった頃、自分の中に眠っていた劣等感に気がついた。


 小さい頃から、姉さんと同じことができるようになりたい、負けたくない、と歯を食いしばっていた。だが、姉さんと同じようにできたり、それ以上にできたりしたものなんてスポーツくらいしかなくて。


 スポーツなんて、よっぽどできない限りはクラスでちやほやしてくれない。俺くらいの、人より少しできる、くらいじゃ目立つわけがないのだ。だから、自尊心を満たしてくれない。


 ふつり、ふつり。湧き上がる劣等感。

 中学生になって人の目を気にするようになり、それは確実に自分の中で大きくなっていった。周りが褒めるのは姉さんばかり。それどころか、同じ姉弟には見えないと言ってくるやつすらいる。

 俺だって、好き好んであの人の弟になったわけじゃないのに。


 そんな、弟としてどうなのか、と思わざる得ないことを考えているのに、姉さんは随分と優しかった。何か困ったことがあれば両親より早く気が付くし、さりげなく勉強を教えてくれたこともあった。あと、修学旅行のお土産に俺の好きな食べ物を買ってきてくれた、とか。



 勝てないな、と思った。姉さんと比べること自体が間違っていたのだ。あの人は、別の世界にいる人なのだから。

 姉とは思わず、他人と思えば楽になれるだろう。他人とは、こんな風に比較して、苦しむことはしなくて済むはずだから。そう思って、もともと置いていた距離をさらに置いた。そうしていつしか、俺と姉さんは挨拶をするだけの間柄になっていたのだった。





「和幸、姉さんいるんだ、へえ。弟って感じ、しないね」

 そんなことを言われたのは、高校に入ってすぐのことだった。


 ここは田舎だから、通える高校は限られている。姉さんならもっと偏差値の高い高校に行けただろうに、残念ながら凡人の俺と一緒だ。一個上の姉さんは、受験に追われない最後の楽しい楽しい高校生活を謳歌しているだろうが、俺は楽しくもなんともない日々を過ごしている。


「一人っ子に見えた?」

「うん。正直」


 まあ、姉さんなんかとは喋らないし。その長男っぽいとか年下っぽいとか、その判断基準がよくわからないけど、まあきっとそういうわけなんだろう。


「ぼく、妹いるんだけど、今小六でさ。まだね、かわいい」

「よかったね」

「そのうち生意気になるのかなぁ、お兄ちゃん嫌いって言われたら生きていけない」

「……あ、そう」

「え、もしかして、引いた?」

「いや、別に」


 仲がいいんだなって思っただけ。

 俺、姉さんと廊下ですれ違っても無視してるんだぜ。あんた、考えられないだろ。


 苗字も田中なんてありふれたやつだし、顔だってちっとも似ていない。こちらから、あの人は俺の姉さんです、なんて言わない限り、友人は田中春香が俺の姉とは気が付かないはずだ。

 だから、俺からは言わない。姉さんについて、何も言われたくないから。

 姉さんも俺の心情にどうも気が付いているらしく、学校で話しかけてくることはしない。もちろん、この高校には小学校からのつきあいの人がそれなりの数いるため、知っている人は知っているのだが、それをいちいち指摘して面白がる馬鹿もいなかった。


 今のところ、平和。劣等感に苛まれない日々は、正直に言ってうれしいです。

 姉さんのことを本当に他人と認識したわけではない。ただ、姉さんに追い付きたいとは思わなくなった。別次元の人だと思うことで、息苦しさはだいぶ軽減された。それだけだ。

 だから、姉さんのことが嫌いなわけではないのだ。決して。



「そういやさ、美術部にとんでもない美人がいるんだけど、知ってる?」

「あ……」


 それ、多分姉さんだ。


「俺はそういうの、よくわからないから」

「えー。この学校美人多いんだからさ、もったいない。制服の美人おがめるの、今のうちだよ」

「その発言キモイ」

「うわ、ストレート」


 友人はけらけら笑いながら、スマホを操作し、ある画像を俺に見せた。


「ほら、この人。めっちゃかわいい」


 白く透き通るような肌に、赤く色づいた頬。黒い瞳は大きく、長いまつげがわずかに影を落としている。おそらく隠し撮りされたもので、カメラ目線でないどころか笑っていない。それでも儚さを含んだ美しさを損なわないのが不思議だった。

 やっぱり、俺なんかとは似てない。


「ぼくの先輩、白雪姫って呼んでた」

「いいえて妙、と言いたいところだけど、盗撮は犯罪です」

「やったのはぼくの先輩っす」

「盗撮と知っておきながら持ってるんじゃねえよ。消せ」


 うるせえな、と友人はぼやきながらスマホを操作する。こいつ、写真消す気ないな。他の画像みてやがる。


「他の美人の写真がこちら。和幸は誰推し?」

「全部盗撮じゃねえか馬鹿野郎」


 アイドルのスナップ写真を広げる感覚で盗撮写真を見せつけてくるな。


「お前お堅いのな」

「お前がその辺りゆるすぎんだよ」

「はいはい」


 ちなみにぼくは白雪姫を推してます。と友人が言う。

 まあ、そうだろうな。どう見たって一番きれいだもんな。


 たいていの女子は、姉さんの前では霞む。人当たりがよくて、みんなから頼られて、運動さえできれば完璧美人。そんな人より優れた人、そうそういるはずがないのだ。


「お前は誰推し~?」

「しつけえ」

「はあ。お堅い。あ、ちなみに先輩、白雪姫にガチ恋でさ、今日の放課後、告白しにいくって」

「――」


 思わず言葉に詰まった。

 今、なんて?




 俺のいる映画研究部なんて、ただの雑談するための部活だ。なんとなく映画を好きな人が、なんとなく集まって、きまぐれで映画を見たりゲームをしたりしているような部活だ。行かなくたって何も言われない。

 それこそ、美術部にふらっと立ち寄ったところで、何も。


「おれ、春香さんのことが好きです! 付き合ってください!」


 美術室には、姉さんと友人の先輩しかいなかった。

 ただでさえ人数が少ない部活なのに、活動したがらない人ばかりのところだ。実質放課後に絵を描いているのは姉さんしかない。あの男もここにくれば二人きりになれると思って、この時間、この場所を選んだのだろう。


 俺はと言うと、一世一代の告白を盗み聞きしている。廊下に立って、静まり返った教室に向かって耳をそばだてている。

 こんなことしたくはなかったけれど、盗み聞きをしている罪悪感よりは、胃の中身をまぜっかえすような、あの男への不快感が勝った。


 姉さんと付き合おうとするなんて、たいそうな自信家なのだろう。そう踏んでみていたが、告白の内容なんて定番中の定番。沈黙に耐えられずつらつらとどこに惚れたかを喋っているようで、姉が返事をする間もない。

 小心者め。


「それで、えっと、お付き合いしたいです!」

「……えっと」


 あの人も、告白されるのは初めてではない。断ったという話は聞いたことがあるが、実際になんて言っているかを聞くのは、初めてだった。


「わたし、えっと、恋とか、そういうの、よくわからなくて。だから、これで付き合っても、あなたに不誠実だから……。ごめんなさい」

 二人称にあなたを選んだあたり、名前もよく知らないのだろう。そんな関係で、よく付き合えると思ったな。


「じゃ、じゃあ、俺にこれから恋してください! 友達からはじめましょう!!」

「え、あ、はい……」

 姉はたじろきながら、ぎこちなく頷いた。そうやってはっきりと断れないのが、やさしくもあり、残酷でもある。

 この男は、好かれていないと知りながら、いつか好きになってくれるかもしれない、という期待を抱き続けるのだ。それに気が付けないあの人の純粋さが、いっそ憎らしいだろうに。それにしたって姉さん、他のことはよく気が付くのに、なぜこういうところだけ気が回らないのか。


「連絡先、交換しましょう」

「ら、ラインでいいですか……?」

「もちろんです!!」


 スマホを操作しているところを覗き見る。胸糞が悪い。胸のあたりが焦げ付くような感じが消えない。

 フラれているところを見れば気が済むと思ったのに、どうして。


「では俺は部活行くので!!」

「がんばって、ください」

「ありがとう!」


 男が教室を飛び出してくる前に、こっそり物陰に隠れる。階段を下る音を聞き届けて、そっと美術室に足を踏み入れた。


「姉さん」

「えっ、和幸? ……もしかして、聞いてた?」


 姉さんは困ったように笑った。

 話しかけてくるなんて、珍しいね。そんなことでも考えているのだろうに、それを言わないのは俺を気遣っているということだ。そう思ったら、少しは留飲が下がるような気がした。


「ここに用事があっただけ。あれを聞いたのは、たまたま」

「でもちょっと、恥ずかしいな」


 姉さんの長いまつげが下を向く。この大きな目も、きれいなまつげも、クラスの女どもが何十分とかけて毎朝つくりあげるものなのに、この人ときたらただ手入れをしているだけだ。これが化粧なんて始めたら、それこそどうなるのか。


「だめだよ、もっとこっぴどくフッてあげないと」

「え、でも……」

「いつまでも諦められないのが可哀そう」

「そう、なのかな」

「そうだよ」


 姉さんは、あんなやつの物になっていい人じゃないんだから。


「ね、ねえ。和幸は、ここに何しにきたの?」

「ああ。美術の授業内課題、終わる気がしないから少しやっていこうかな、と」

「美術選択だったんだね。知らなかった」

「言ってなかったからね」


 美術の課題が遅れているのは嘘じゃない。本当はいいかげんなものを提出してもいいと思っていたけれど、美術室に向かう口実としてちょうどよかった。


 俺、あいつがフラれることが前提で来たけれど、もし断らなかったらどうするつもりだったんだろう。そう思ったら、ぞわりと背筋に寒いものが走った。

 あいつが、姉さんにつきまとうのを止めなくては。もし、距離が近づいたとして。俺が何をしでかすがが、怖い。


「和幸? どうしたの?」

「いや……。しばらくこの課題やりにくるからさ。姉さんに、あいつが付きまとわないように、ここにいてあげようか」

「映研のほうは?」

「んー。あっちは遅れて行ってもいいし。あいつが部活行くまでの間いればいいでしょ? 要はそいつと二人っきりになんなきゃいいんだから」


 姉さんはぱちりと瞬きをした後、うん、と頷いた。

「でも、お姉ちゃんと一緒にいるの、恥ずかしくない? 年頃の男の子ってそうなんじゃないの?」


 友達なんて、きょうだいとは挨拶もしないんだって。と首を傾げた姉さんは、俺の心のうちを理解できていないようだった。そりゃそうだ、俺だってよくわからないんだから。でも少なくとも、そんな周りと同じような理由で姉さんを避けていたわけではないし、単純にこの人のためを思って恋路を邪魔しているわけでもないのだ。それだけは確かだ。


「まあ、姉さんが変な男につきまとわれるのはごめんだね。そっちのほうが、問題」

「変な男って、言い方」

「あいつはどうだか知らないけど、姉さんはいつか大変な目に合うきがする。今のうちに身の守り方は覚えておきなよ」


 画材とキャンバスを取り出しながら姉さんの方を見れば、複雑そうな顔をしてじっとこちらを見ていた。

 この話のどこまで理解しているんだか。一回ほんとうに痛い目みないと分からないんだろうな、きっと。


 そうならないように、俺がついていようか。恋路を全部邪魔して、ひっそりと守ってしまえばいい。

 そうすれば、こんな、苦くて痛い感情をこの人に向けなくて済むかもしれない。


「身の守り方って、よくわからない」

「姉さんの場合は立ち回り方。八方美人でしょ、基本。あと距離の取り方も覚えて」

「むずかしいね」


 姉さんは苦笑いを返した。


「あ、でも、とにかく、和幸と一緒に絵をかけるのは、ちょっと嬉しいかも」

「……そう」


 はにかんだ姉さんの横顔から目を逸らした。どきり、と鳴った心臓が痛い。


 ――これは、姉さんに向けていい感情じゃない。そう気が付いたときにはもう、崖から転がり落ちたような感覚に襲われていた。

 ああ、くそ。せめて、これは誰にも気が付かれないようにしないと。


「和幸?」


 首を傾げる姉さんをあざといと思ったこととか、彼氏ができてほしくないと思っていることとか、そういうの全部、隠し通せ。姉弟の枠から外れるな。

 そうでなければ、ここにいる資格なんてない。これじゃ、あの男たちと一緒だ。


 不思議そうな顔している姉さんに、俺は曖昧な笑みを浮かべた。


「気にしなくていい。なんでもないから」

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