月の光

「はぁー、よくこんな楽譜作れたわね」

 鈴音は弦真の持ってきた楽譜を一瞥するなり、感嘆の念を込めてそう言った。

「え、どういう意味です?」

 弦真が問うと、鈴音は微笑を浮かべた。

「ただ純粋にすごいなーってことよ。レベルすっごい高いと思うわよ、これ。

 さすがユキね」

 鈴音はそう言って、楽譜を譜面台の上に広げる。

「あ、あとそれと」

 鈴音は弦真の顔を指差して言う。

「私に敬語は使わなくていいわよ?畏まられるとやりづらいしね」

 鈴音は、弦真の返事を待たずに、譜面台に向き直った。

「え、でも鈴音さんと話したの今日が初めてですし…」

 弦真が釈明するも、鈴音は聞く耳を持たなかった。

「ええい、言い訳無用!いいからやるよ!」

 半ば投げやりな感じでそういうと鈴音は弦真を再度手招きした。

「ほらほら、やるよ?」

 弦真が鈴音の隣の椅子に腰掛けたその時、月を覆っていた雲が流れ。窓から月の光が優しく差し込んできて辺りを照らした。

 淡い月光に照らされ、不思議な光沢が出ているグランドピアノに向かい合って座っている鈴音の姿は、まるで妖精のような儚さを孕んでいた。

「月の光の下で弾く『月の光』。なかなか乙なものでしょ?」

 鈴音はあどけなく笑って言う。

 そういう理由で、電気をつけなかったのかと納得する反面、鈴音がこの時刻に学校に残っているのが、今日が初めてではないという事実を知った。


 舞雪の演奏が素晴らしいものだと、先日身をもって知ったばっかりだった弦真だが、鈴音は舞雪の上を行くのではないか、というほどだった。

 弦真がミスをしても、すぐに鈴音のリカバーが入る。

 しかも驚きなのが、鈴音はこの楽譜を一分程しか読み込んでいないのに、まるで昔からずっとこの曲を鈴音と演奏しているかのような安定感。

「いいね。じゃあ最後までこの調子でいくよ?」

 先日舞雪がやった、左手を右手に持ち替えて左手で一オクターブ下の音を演奏し、計三つの音を奏でる部分。

 この演奏法はどうしても残したい、という舞雪の強い希望で採用された部分だ。

 ならば俺も、と弦真も右手を左手に持ち替えて右手で一オクターブ上の音を演奏し、計四つの音がピアノの周りを駆け回る。

「っ…」

 ここまで順調だった弦真の指がもつれて止まる。

 それに呼応するかのように、鈴音の指も鍵盤の上で止まった。

「ごめん、俺のミスで…」

 弦真は悲痛さで顔を歪めると、鈴音が弦真の肩を持った。

「この楽譜を弾くの今回が初めてな訳だしさ、弦真くんが気に病む必要はないよ」

 弦真は俯いていた顔を持ち上げて、鈴音の顔を見る。

「まだ始まったばかりじゃないか。少年」

 鈴音はそう言って快活に笑った。

「舞雪ならこう言うわよ?きっと。だから気にしないで」

 そう言って笑った鈴音の笑顔は、空に高く昇っている月に劣らないくらい眩しかった。

「さ、指が覚えているうちにもう一回通すわよ」

 鈴音は楽譜を一番はじめのところへ戻す。

「おー」

 弦真は拳を持ち上げて言った。

「じゃあ、行くわよ?」

「はい」

 こうして二人は練習を再開した。

 淡い月光の下で。

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