あなたに会えたなら・・・

彩加

第1話 序章

 本年9月吉日。

 首都圏にあるホテルの大広間で、一組の若い男女が結婚披露宴を執り行っていた。金屏風の前のひな壇に座る新婦が頬を染め、少し距離を空けて隣に座る新郎へと目を向けると、披露宴会場の一角を見据えていた。


「全く、社長にも困ったものだ」

「道連れなど堪ったものではないぞ」

「手は打ってあるのだろう」

「株主総会までには、目途が立つだろう」


祝いの場には相応しくない不穏な気配を漂わせているその場を、凝視していた新郎の名を新婦が口にした。振り返った新郎は甘い笑みを浮かべ新婦を見つめ返していたが、腹の中では彼らを嘲っていた。


 披露宴会場の外では、若い二人の行く末を暗示するかの如く激しい雨が地面を叩き続けていた。




 本年12月7日。


「梨奈」


遅い夕食を摂った後、対面式のキッチンで後片付けをしている梨奈の様子をキッチンから続くリビングで足を止め、少しの間、見詰めていた尚哉が意を決し梨奈の名前を呼んだ。耳に馴染んだ心地良い呼び方に顔を上げた梨奈は、すっかり寝支度を調えた尚哉の姿を見て表情を和らげ、続けられる筈の『おやすみ』の言葉を待った。


「少し、いいか……」

「うん。何」


予想とは違った尚哉の言葉に、何か忘れていることでもあったかなと、梨奈は小首を傾げて応じた。尚哉は、いつもと変わらない梨奈の姿に早くも決心が揺らぎ始めているのを感じつつ、それでも伝えなければいけないのだと梨奈の目を見詰め、『言わなければ……』と気力を奮い立たせようとしたものの、一度揺らいだ決心は口を重くし一言も発せられなかった。


「……いや。今度でいい。おやすみ」


不思議そうに尚哉を見ていた梨奈の顔が苦しそうに歪み、涙で濡れる様子が思い浮かび、嫌な想像を掻き消すように短く息を吐き出した尚哉は、何事かを伝えることを諦め梨奈へ背を向けてリビングの隣の寝室へ歩き出した。


「尚哉……」


梨奈の返事を待たずその場から立ち去って行く尚哉の後ろ姿に、梨奈はいつもとは違う何かを感じ取り、尚哉を引き止めようと名前を呼んだ。だが、その声は梨奈の戸惑いを映し弱々しく、キッチンに吸い込まれ尚哉は振り向くことなく寝室へ入りドアを閉めた。


 翌朝、梨奈が出勤する尚哉を玄関で見送っていると、靴を履き終えた尚哉が昨日までの朝と同じように梨奈へ向き直り、右手を伸ばして梨奈の頭へ触れ引き寄せて唇を重ねた。普段の朝と変わりない尚哉の様子に、毎朝の習慣通り重ねた唇が離れた後『行ってらっしゃい』と言おうとした梨奈の言葉を遮り、尚哉は梨奈を胸に抱き込んでそのまま締め付ける風に腕に力を込めた。


「愛している。どんなことがあっても、梨奈だけを愛している」


梨奈の耳元に口を寄せ囁かれた尚哉の言葉に、昨夜の尚哉の姿が重なり梨奈の中で俄かに不安が沸き起こった。


「私も……。私も、尚哉だけを愛してる」


胸の中に広がろうとする得体の知れない不安を追い払うように、梨奈も尚哉の背中に腕を回し抱き締め返して思いを言葉にして伝えた。


 だが、梨奈の悪い予感は当たり、その日から尚哉は帰って来なくなった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る