冬のうた

樹 星亜

第1話

 ねぇ届きますか。

 この空の向こうに。

 ねぇ聞こえますか。

 この空の果てまで。

 いつか、この想いは、かないますか……?



「また、来ちゃった、か……」

 冬の寒い、とある高台。

 見下ろせば、そこには葉っぱが落ちきった木々の林と、その先に見える街の小さな明かり。

 周囲には、こんなに寒い日だからなのか、誰もいない。

 夏にはちょっとしたデートスポットにもなるこの場所も、真冬の寒さには勝てないらしい。

 ましてや、今日は夕方から雪になるって、天気予報では言っていた。

 こんな日に、こんな場所へ来て、冬の寒さにケンカを売ろうなんて言う恋人達も、さすがにここら辺にはいないってことなんだろう。

『ったく、こんなさみ~日に、あいつらバッカじゃね~の?』

 ふと、あいつの言葉が蘇った。

『それをわざわざ冷やかしに来てる、あんたの馬鹿さ加減はどうなのよ?』

 そう言ってあいつをからかった、わたしの言葉も、それにふくれっ面になったあいつの顔も、次々に浮かんでは、消える。

「結局、わたし達もバカの仲間だったんだよね……」

 ふふっ、と、自然に笑みがこぼれた。

「……ねぇ。まだ、笑えるよ。全然おかしくなんて、ないのに……あんたのことを思い出すと、まだ笑える」

 空を見上げて、ぽつりと呟いた。

「ほんとに、バカだね……せっかく、手に入れられる所だった魂を助けちゃうなんてさ。――そんなだから、いつまでたっても落ちこぼれなんだよ」

『うるせぇ、ばぁか』

 そんな風に、怒ったように、でも何故か嬉しそうな目をしてうそぶく、あいつの顔がまた、思い浮かんだ。

「――ダメだね。まだ、逢えない。迎えに来て、貰えないね。だってわたし、まだ笑える。約束、果たせないよ。あんたとの想い出がある限り……」

 見上げ続けていた空は、いつの間にか、今にも泣き出しそうな灰色に変わっていた――。




  ―― 三年前 冬 ――


 悪魔に会った。

 『悪魔のような』とか、『悪魔的な』とか、そんなんじゃなく。

 突然わたしの目の前に現れた『そいつ』は、紛れもなく、正真正銘、どこからどう見ても悪魔だった。

 宙に浮かぶ体。

 ひくひくと動く、大きくとんがった耳。

 成長しすぎた八重歯みたいな、二本の牙。

 ゆらゆらと、風に揺れるように動く尻尾。ご丁寧に先っぽはスペードのマークみたいな鏃の形をしている。

「よお」

 さすがに鉄のフォークまでは持っていなかったけれど、そいつはいきなり私の目の前に現れると、そう言った。

「……よお」

 思わず、素直に返事をする。

 驚くとか、パニックになるとか、そんなごく普通の反応さえ、どっかへ飛んでいってしまっていた。

 そいつは、わたしの反応に満足そうに頷くと、更に言う。

「なにしてんだ? お前」

 その問いに、わたしは足元を見た。

 なだらかに続く、葉っぱの落ちきった木々の林。その先に見えるのは、街の小さな明かり。

 夏にはデートスポットとして恋人達で賑わう、でも、こんな寒い日にはひとけが全くなくなってしまう、とある高台の公園。

 その、茂みの向こうにある崖の淵に、わたしは立っていた。

 立ち入り禁止の看板と、自分の身長ほどもある高いフェンスを乗り越えて。

「ちょっと……死のうかと、思って」

 『死』という言葉が、笑ってしまうほど簡単に、わたしの口からこぼれた。




 何でそう思ったのか、今ではもう覚えていない。

 ただ、何もかもが突然いやになった。

 人も、環境も、場所も、自分も……息をするのさえ、億劫になって。

 でも、このまま部屋の中で普通に死んだら。

 誰も訪ねてこない、一人っきりの部屋だったから、きっと発見される頃にはわたし、大変なことになっているよなぁ、なんて人ごとみたいに考えて。

 気が付くと、この場所に立っていた。

 夏は恋人達で賑わう高台で自殺して、もしかして地縛霊か何かになったら、ここで彼らを脅かしてまわるのも良いかも知れない。

 そんなことを、漠然と考えていた。

 そうしたら。

「よお」

 彼が、現れた。

 空中からわき出るようにスウッと、音もなく。

 まるでアニメを見ているようなチープな登場の仕方に、わたしの意識は固まってしまった。

「……あんた、悪魔?」

 一分くらい、そうして彼を眺めて。

 そうして、やっと言葉を発したわたしに、彼はなぜか嬉しそうに笑って見せた。

「おう。かっこいーだろ」

 えへん。

 胸を張って体を反らせて、偉そうに。

「わたしを連れに来たの?」

 よく、おとぎ話や伝承の本には、病気の人や死期が近い人のところには死神が来るって書いてあったっけ。

「バカ言え。偶然だよ、ぐーぜん」

「偶然?」

「そっ。まあ、何となくそういうニオイがしたのは事実だけどな。……まさか、こぉんなチンケなねーちゃんが死のうとしてるとは思わなかったぜ」

「……そう」

 多分、反論か何かを期待したんだろう。

 わたしが言い返すこともなく、ただそうやって流してしまった途端、彼はいたく不満そうな顔つきになった。

「……ぷっ」

 ぶ~っと膨れた、思いっきりガキっぽいその表情に、わたしは思わず吹き出す。

「あ……」

 なんだ。

 わたし、まだ笑えるじゃん。

 これから死のうとしてるのに、人間て、結構図太いのかも知れない。

 その様子を、じいっと見ていた彼は、ふと思いついたように言った。

「なぁ。どっか遊び、行かない?」

「……これから?」

「うん」

「遊びに?」

「そう」

「……わたしと?」

「他に誰がいんだよ」

「……」

「……」

「……」

「……」

「……どうして?」

「だあぁぁ! ワケなんかど~でもいいだろ別に!」

 彼は、いらいらと頭を掻きむしった。

「どうせ、他に用事とかね~んだろ、これから死ぬんだから。だったら、いいじゃねぇかよ、付き合えよ」

「それはそうだけど……」

 自慢じゃないけど、今までナンパされたことなんて、ない。

 いや、悪魔だから人間とは感覚が違うのかもしれないけど……。

「――お前、さぁ」

 と。

 彼が、呆れたようにため息を付いた。

「え?」

「もう少し気ぃ付けてモノ考えろよ」

「……?」

「誰が誰をナンパして、感覚が違うって?」

「っ?」

 驚いたわたしに、彼は更に深くため息を付く。

「あのなぁ。人間の考えてることぐらい読めなきゃ、悪魔なんてやってらんね~だろ実際」

 呆れたようにそう言って、彼は少し首を傾げた。

「で? 行くのか? 行かね~のか?」

「……行く」

 何で頷いたのか、わからない。

 でも、これで人生最後なんだから。

 少しくらい無分別に行動したっていいじゃない。

 そんな風に、思ったのかも知れない。

 いや、実際は『少し』どころの騒ぎじゃないんだけど。

 悪魔と遊びに行くなんて。

「言っとくけどさぁ」

 あまりにも『悪魔』『悪魔』と繰り返すわたしに辟易したのか、彼は念を押すように言う。

「え?」

「悪魔だからってミョ~な想像すんじゃね~ぞ。単純に遊びたいだけなんだからな」

「……『ファウスト』とは違うってこと?」

「なんだそりゃ?」

「あ、え~とね……」

「あ~、いい、直に視た方が早い」

 そう言って、彼はじっ、とわたしの目を見る。

「……はん、そんな話があんのか。あぁ、ま、そういうこった。そんな大層な『遊び』は考えてねぇよ」

 あぁ、そう言えば思考が読めるとか、そんなこと言ってたっけ、さっき。

 ぼんやりそんなことを考えていると、彼は軽く肩をすくめてみせた。

「オレ、いっぺんでいいから人間の街で遊んでみたかったんだよ。何せ今まで知り合った連中と来たら、ヒトの言うことなんざ聞きゃしね~んだからよ」

 そりゃそうだろう。

 これから死のうってのに、遊びに誘われて頷くことの方がよほどおかしいのだ。

 ……わたしは、頷いたけれど。

「ま、い~や。んじゃ、さっさと行こうぜ。なっ」

「ホントに嬉しそうね……。でも、その格好で行く気? って言うか、大体、あんたって他の人にも見えてんの? んなワケないわよね。見えてたら大騒ぎだろうし」

「おお、そう言や、そうだな」

 彼はぽん、と手を打った。

「んじゃ……よっ」

 しゅんっ、という擬音さえ聞こえてきそうな程マンガチックに、彼の姿は一変した。

 どう見積もっても十歳前後だった体躯はすんなりと伸び、わたしと同年代――二十歳前後に。

 尻尾や牙は消え、とんがっていた耳も普通の人間サイズへと変化している。

 服装の方も最近流行のお洒落な格好をしていて、それはどこからどう見ても普通の人間の姿だった。

「よし。これで問題ね~だろ。んじゃ、行こうぜ」

「……うん」

 頷いて、私は彼の後を追いかけた。

 ――どうせなら、あのフェンスを乗り越える前に来て欲しかったなぁ。なんて見当違いなことを考えながら。




 それから。

 わたし達は、彼の希望通り街へ遊びに出かけた。

 と言っても、ここは都会からは少し離れた土地で、街と言ってもそんなに大した場所があるわけでもなくて。

 それでも、中途半端に広い街中に見知った顔はなく、わたし達は他の恋人達にまじってつかの間のデートを楽しんだ。

「へえ、あんたって落ちこぼれなんだ」

 街中を歩き回って、少し休もうと入った喫茶店で、わたしは紅茶を飲みながら言う。

「悪魔とか死神とかにも成績ってあるのね」

「あったり前だろ、どこの世界だろ~と、仕事がありゃ成績もある。落ちこぼれもいりゃ、エリートもいるさ」

 たっぷりミルクを入れたコーヒーを、物珍しげに飲んでいた彼はそう言って鼻を鳴らした。

「……大体、自分だけ世界中の不幸を背負った気でいるのは、人間だけさ。ヤツらは、自分達の住む世界以外の場所を知らない。いや、存在自体を信じるヤツはいても、その世界を見ることは出来ない。だから、目に見えない世界に勝手な妄想を膨らませて、憧れる。そのくせ、実際に来てみたら『話が違う』とか『こんな筈じゃ』とか、まったく勝手な話だぜ」

「連れてったこと……あるんだ」

「ああ、まあ少しな。一応、それが仕事だし。あんま楽しい仕事じゃね~けどよ。仕方ないもんな、オレたちは人間と違って、仕事を選ぶ権利なんて、ねーんだから」

 ふと、彼の表情がかげったように見えた。

「嫌い? 今の仕事」

「……別に。これ以外の仕事なんて知らね~から。好きとか、嫌いとか、んな感情もねぇよ」

 彼はそう言って、ふいと窓の外を見つめた。

「どの道、オレに与えられてんのは、死んだヤツの魂を見分けて連れてく仕事だけだかんな」

「悪魔って、人を悪い道に引っ張り込むのが仕事じゃないの?」

「それは、人間が宗教的な考えで作ったもんさ。確かに、魂は二つに選別される。けど、オレたちは選別された魂を決まった場所へ連れてくだけで、そうなるように仕向けたことなんて、一度もねぇよ。……道は、あくまで人間自身が歩くもんさ。オレたちが介入していいことじゃない」

「ふぅん。結構、事務的なんだ」

「だから言ったろ、悪魔だからってミョ~なこと考えんなって。人間は、何かにすがりたいのさ。だから一番確実で力強い拠り所――善と悪のそれぞれの象徴を作り上げ、悪の象徴を否定することで、自分が善人であることを確認しようとする。……それはそれで、別に悪いことじゃね~けどな」

「大変だね。あんたも」

 何となく、彼が寂しげに見えた。

 もしかしてそれは、彼にわたしを見ていたせいかもしれない。

「……ね。わたしが死んだら、どっちへ行くのかな」

 尋ねると、彼は肩を竦めた。

「さぁな。オレたちは選別後の魂を連れてくだけだからな。死ぬまで、それはわかんね~よ。でも……」

「……でも?」

「……いや。なんでもね~」

 そう言った彼の顔は、何だか少し、緊張して見えた。

「なに? 気になるじゃない。なによ?」

「別に、大したことじゃね~よ。言ったろ、オレたちは人間の進む道に介入しちゃいけないんだ。だから、結果がどうあれ、その結果に結びつくような発言は禁止されてる。出来るのは、見ているだけ。それだけなのさ」

 そう言った後、彼が見せた表情は、確かに物言いたげな、何かを訴えかけるような表情だった。

 けれど、その向こうに見える『別世界のルール』の影のような物が、わたしにそれ以上の追求を止めさせる。

「……さ、そろそろ行こうぜ」

 すっかりぬるくなってしまったコーヒーをがぶ飲みして、彼は立ち上がった。

「ん」

 わたしが伝票を取ろうとした瞬間、そのわたしの手を、彼がぎゅっと強くつかんだ。

「!」

 咄嗟に、彼の顔を見上げたわたしに、彼はハッとしたようだった。

「あ……わり。いや、その、誘ったのオレだし、やっぱ奢るもんかなと思って、さ」

 どうやら、突然手を握ったのは、別に握ろうとしたわけではなく、同じタイミングで伝票に手を伸ばしただけだったらしい。

「いいよ、別に。お金なんて、もう使うこともないんだし」

 そう言ってわたしが彼の手の下から伝票と手を引き抜くと、彼はもう一度、あの表情を見せた。

 物言いたげな……不思議な顔。

「?」

「……なんでもねー。じゃ、行こうか」

「うん」

 そうして、わたし達は再び街へと出かけた。

 彼のした行動が、どれだけ矛盾していたかなんて、気づきもせずに。




 ―――― 一年後 冬 ――――


「……結局、一年も経っちゃったね」

 わたし達は、また、あの高台の公園を訪れていた。

「すっかり丸め込まれちゃったなぁ」

 そう言ってわたしがため息を付くと、彼は怒ったようにぷうっと膨れる。

「なんだよ。オレのせいかよ?」

「だってさ。結局、あの日は遅くまでつき合わせるし。どうせだから、とか何とか言って、あと一日、もう一日って死ぬの引き延ばされて、つき合って……何だかんだで、もう一年だよ?」

 そう。

 あれから、わたし達は毎日、街に遊びに行った。

 そりゃあ、彼は無理矢理連れだしたワケじゃなかった。

 わたしの方も、死ぬつもりでいたから予定なんてあるわけもなく、どうせ死ぬんだから、なんて軽い気持ちでずるずると彼につき合って。

 ……結局、それから半年が過ぎ、一年が過ぎて、わたしの中からはいつの間にか『死』という単語が薄れ、消え去っていた。

「毎日毎日、遊んで回ってさ。そのうちお金が無くなって、仕方ないからバイト始めてさ。……これから死のうってしてた人間に、よくやらせたよね実際」

 わたしが少し睨むように、そう言って口を尖らせると。

 彼は何を思ったのか、にやっと笑った。

「?」

 その目に、何となく不穏な物を感じて。

 一歩後退しようとした瞬間。

 いきなり、肩をつかまれて、引き寄せられた。

「……んっ」

 突然、唇に触れる暖かなぬくもり。

 それはすぐに離れてしまったけれど、肩をつかんだ手はそのまま、そしてもう片方の手が、うろたえて俯いたわたしの顎をとらえ、ぐいっと上向かせる。

「……だろ?」

 あんまりにもドキドキしていたせいで、語尾しか聞き取れなかった。

「え?」

 きょとんと首を傾げ、見つめ返したわたしに、彼は自分の言った言葉が届かなかったのをさとったらしく、もう一度、さっきよりゆっくりとわたしに告げる。

「死ななくて、よかったろ?」

「!」

 咄嗟に、思いっきり彼を突き放していた。

 そのまま、くるっと背中を向けて、スタスタと歩き出す。

「なんだよ。怒ったのかよ」

 彼はその場に立ったままで、少し声を張り上げた。

「……怒った」

 わたしも、言い返す。

「別にいいじゃんか。つき合ってんだから、オレたち」

「……よくない」

「なんでだよ。もう一年だぜ? キスぐらい、いいじゃんか」

「そういうことじゃなくて!」

 たまらず、立ち止まって振り返った。

「……ん?」

 彼は相変わらず、そこに立ったまま。

 余裕綽々の顔をして、わたしを見つめている。

「つき合った覚え……ないもん」

 僅かに俯いて、伏せたまつげの隙間から彼の様子をうかがいながら、そう言うと。

 彼の顔が、さっと強ばった。

「……冗談だろ」

 抑揚のない声で、彼が言う。

 わたしは、ふるふると首を振った。

 その答えに、嘘はなかった。

 確かにわたしは、この一年、彼とつきあった覚えはなかったから。

 だって……。

「何も、言ってくれたこと、ないじゃない」

 途切れ途切れにそう言うのが、やっとだった。

「……え?」

 彼が、わけがわからないという顔をしてわたしを見つめる。

 わたしは、もう一度、さっきよりも強く言い返した。

「だって、何も言われなかったもの。最初に会った日、付き合えよ、って、それだけだったじゃない。そのあとは、いつも突然現れて、今日はどこ行く、って、それの繰り返し。そりゃ、いつも一緒にいて、毎日ずっとこの一年遊んだけど、でも何も言ってくれなかったじゃない。……なのに!」

 言っているうちに、感情が高ぶってきて、わたしはガバッと顔を上げた。

「おい……泣くなよ」

「泣いてない!」

 私は乱暴にぐいっと涙を拭う。

「いっつも、いっつも、連れ回すだけ連れ回して。自分だけ何もかもわかったような顔して! ……なのに、なのに! つき合ってたなんて、友達以上の関係だなんて、思えるわけないじゃない! 思えるわけ……ないじゃない」

 最後は、言葉が震えるのをおさえることが出来なかった。

「不安だったんだから……。ずっと、いつも不安で、どういうつもりなんだろうって、最初は死ぬつもりだったから関係なかったけど、でも、そのうちすごく不安になって、いつの間にか死にたいって思わなくなって、このままでいられたらって思うようになって、でもあなたは何も言ってくれなくて、だから……!」

 あんまりにも感情が高ぶって、自分でも何を言ってるのかわからなくなり始めた時。

 わたしの体は、大きなぬくもりにすっぽりと包み込まれた。

「……ごめん」

 大股で歩み寄ってきて、わたしをコートの中へ引き寄せた彼は、耳元でぽつっと呟く。

「……ごめんな」

 言葉と一緒に、更に強く抱きしめられた。

「ばか」

「うん」

「ばか」

「……ごめん」

「……ばか、ぁ…」

 そのぬくもりは、信じられないくらいわたしの体の芯まで染み通り、あたためてくれた。




「……こうしてると、あんたが悪魔だってこと、忘れちゃいそうだよ」

 そう言って、わたしはくすくすと笑い声を立てた。

「オレも、時々忘れそうになる」

 コートにわたしを入れたまま、高台の遠くを見ながら、彼は言う。

「忘れられたら、いいのにな……」

 そんな風に寂しげに、悲しげにそう呟いて、彼はわたしを抱く腕に力を込めた。

「……ねぇ。痛いよ」

「うん」

「痛いってば」

「いいんだ」

「いいって……」

 痛いのは、あんたじゃなくて、わたしなの。

 そう抗議しようと顔を上げた私の目に飛び込んでくる、今にも泣きそうな彼の顔。

「……どうしたの?」

 今まで、何度かこんな彼の顔を見たことがあった。

 それは二人で楽しく遊んでいるとき。

 黙って静かに過ごしているとき。

 ふと視線に気づいて顔を向けると、彼が息をするのも忘れたように、ただじっと今みたいな悲しげな顔をしてわたしを見ていた。

 でも、聞けなかった。

 その理由は、わたしをも苦しめそうな、そんな予感があった。

 そして今日。

 その予感は、彼の言った言葉によって、実証された。

『悪魔だってことを忘れられたら、どんなにいいだろう――』

 そう、彼は悪魔なのだ。

 どんなに楽しくて、どんなに好きで、どんなに愛おしくても。

 それでも、いつまでも一緒にはいられない。

 おとぎ話のように、めでたしめでたしでは、終われない。

「お別れ、なんだね」

 わたしの言葉に、彼の体が強ばった。

「大丈夫だよ。わかってたことだもん。――あんたは、最初からわたしに嘘付いたりしなかったじゃない。……大丈夫だよ。大丈夫……」

「オレは」

「いいよ。帰らなきゃ、いけないんでしょ? 仕事、あるんだもんね。わたしなら大丈夫。もう一人でも大丈夫だから。だから……」

「……違う…」

 と。

 彼が、わたしの言葉を遮った。

「違うんだ。違うんだ、よ……」

 体が、小刻みに震えていた。

 まるで、何か痛みに耐えるように肩に力を入れて。

 ぐっ、と食いしばった歯の間から、彼は途切れ途切れに言った。

「帰らなきゃいけないんじゃ、ない。……オレは、……オレは、お前を……」

 そう言って、彼は再び、わたしをしっかりと抱きしめた。

「オレは、お前を……殺さなきゃ、いけないんだ」

 その言葉は、信じられないくらい優しい口調で、彼の唇から発せられた――。




「わたしを、殺す……?」

 耳を疑った。

「……どういうこと…?」

 呆然としたわたしを辛そうに見つめ、彼はぽつりぽつりと話し始める。

「言ったろ。お前達が考えている『悪魔』っていうのは、お前達が勝手に作り上げた想像上の生き物だって。……本当の悪魔は。魂を、選別された魂の片方を、決められた場所へ連れて行くだけじゃない。神によって与えられた、その魂への罰の執行人でもあるんだ……」

「魂への、罰……?」

「お前は、オレが現れたとき、自ら命を絶とうとしていた。自殺っていうのは、お前達が考えているような簡単な物じゃない。それは、与えられた命を自分勝手な論理で自分勝手に絶つ大罪なんだ。だから……だから、自殺者にはそれ相応の罰が、神によって与えられる。その人間にとって、一番辛い、罰が」

「でも、わたしはもう死ぬつもりなんて――!」

 そこまで言って、ハッとした。

「もしかして……」

「幻、なんだよ。ここも、街も、この世界すべてが。神の罰としてお前に与えられた幻想の世界。……お前は、もう――」

 そう言った瞬間。

 周囲の景色が、全てがらがらと崩れて消え去っていった。

 あるのはただ――漆黒の、闇。

 虚無の空間。

「あ、あ……」

「これが、お前に与えられた罰だ。自ら命を絶った罪に与えられた罰。生きていれば起きたかも知れない未来を体験し、自分の犯した罪の重さを知らしめる……。生への執着心の増幅。その上で与えられる、絶望。それが、お前に与えられた『自殺』への罰――」

「そん…な……わた、わたし、は……」

 これが、罰?

 やっと、死にたいって気持ちが薄れて、なくなって。

 これから、生きていこうって。そう思ったのに。

 思っていたのに……。

 でも、それよりも、何よりも、わたしの心を占めていたのは――。

「だまして、た……」

 わたしが何の感情もこもらない声でそう告げると、彼の体が激しく震えた。

「わたしのこと、だましてたんだ。ずっと、わたしが生きたいって思うように仕向けて、刑が実行されるその時を待って――」

「違うっ!」

 彼は、大きな声で叫んだ。

「違う、違う、違うっ!」

 激しく首を振って、激しく怒鳴る。激しい瞳で、見つめる。

「オレは……オレは……」

 けれど、彼はそれ以上を続けようとしなかった。

 何を言っても、ムダだって。

 それは言い訳にしかならなくて、わたしが彼に欺かれたことには変わりなくて、そしてわたしは絶望のただ中にいるんだって、そう思ったのかも知れない。

「……」

 でも、わたしには。

 既に実体を失い、魂だけの存在になっているわたしにとっては。

 言葉なんて、重要じゃなかった。

 彼の苦しみが。彼の悲しみが。

 彼の激しい想いが、わたしを包み込んでいた。

「……もう、いいよ…」

 わたしの口から、自分でも意外なくらい穏やかな声が出た。

「お前……?」

「もう、いいんだよ。ごめんね。八つ当たりだよね。あんたは与えられた仕事を果たしただけ。悪いのは、わたしなんだよね。あんたに、罪はないよ。……ごめん。ごめんね。いやな思い、させて……」

 現実には存在しない、かりそめの姿になっているにも関わらず、涙がこぼれた。

 それはまるで蛍のようにふんわりと虚無の空間を漂い、まるで闇に隠された何かを照らし出すかのように淡く光りながら、わたしと彼の間を彷徨う。

「ありがとう。幻でも、楽しかったよ。あんたと過ごせたこの一年。本当に、楽しかった。ありがとう。本当に、ありがとうね……」

 涙が少しずつ弱々しい点滅をはじめる。

「……そろそろ、時間みたいだね。眠くなって…来ちゃ…た……」

 少しずつ、本当に少しずつ、はっきりとしていた肉体が透き通り始め、意識も霞のようなもやに包まれていく。

「きっと、眠ったら、次は違う人になっているんだね。この記憶も、全部消えて……」

「……っ!」

 彼が、辛そうに目を細めるのがわかった。

 わたしは微笑んでみせる。

「!」

「だぁいじょうぶだよ。わたし、怖くなんてないよ? 記憶が消えるってことは、わたしが消えるってことなんでしょう? だから、次の人生を怖がったりしない。ただ、少し、寂しいだけ……」

 輪廻という物が、本当にあるのなら。

 きっと、わたしはその輪の中で幾度も生まれ変わり、幾度も違う人生を生きていくのだろう。

 でも、それは今のわたしではない、別の人間。

 もしかしたら人間ですらないかも知れない、別の存在。

 例え魂が同じでも、それはわたしとは絶対的に違う。

 なぜなら、今のわたしの記憶は、その誰かには引き継がれないのだから。

「どうして……恨まない。もっと、言えよ。怒鳴れよ! いいんだ。もっと怒鳴って、憎んで、恨んで、オレを責めろよ! ……頼む、よ…」

 彼は、今にも泣き崩れそうに、体を震わせていた。

 わたしはゆっくり首を振る。

「どうして? あんたは、今も十分、苦しんでいるじゃない。後悔、してるじゃない。……わたしは、あんたを恨んだりしてないよ。少しも、憎んでなんか、いない。憎んだり、しないよ……」

「なんでだよ! オレは、お前をだましたんだぞ。苦しめてんのはオレなんだぞ!」

「違う……」

 わたしは、彼の言葉に微笑んだ。

「違うよ。あんたは、わたしをだましたりしてない。あんたがわたしを支えてくれたのは、罰を与える為じゃない。たとえ、それが罰としての行為だったとしても……あんたが、わたしを励ましてくれたのは、優しくしてくれたのは、本心からだって。わかるよ。……わかってるよ」

 そう言うと、わたしは自分の胸に手を当てた。

 と言ってもわたしの手は、体は、既に殆ど透き通って、そこには虚無の空間があるだけだったけれど。

「あんたの声、聞こえたよ。言葉なんてなくたって。ちゃんと、届いたよ。あんたの想い……受け取ったから」

 すべての事実を認識し、純粋な魂だけの存在となったわたしに、言葉は必要なかった。

 ただ、強く想えば。

 それで、想いは通じた。

「だから、いいんだよ。……わかってるよ。さっきの、キス。……あれが、本心だって」

 わたしは、もう淡い輪郭しか残っていない体で、ゆっくりと、息を吐いた。

「ありがとう。……大好きだよ」

 そう言って、目を閉じた瞬間。

「やめろぉぉっ!」

 彼が、叫んだ。




「ん……」

 次に気づいたとき。

 わたしの周囲から虚無の空間は消えていた。

 まず目に入った物は灰色。

 どんよりとかき曇った空。

 そしてわたしは、あの高台の公園で椅子に座り、ぼ~っと眼下に続く街の明かりを眺めていた。

「あ……れ……?」

 あまりのギャップに、目眩が起きる。

「これって……わたしは……?」

 何が何だか、わからなかった。

 さっきまでいた空間は?

 わたしは、死んだんじゃなかったの?

 ……あいつは、どこにいるの?

 その瞬間、わたしの意識は正気を取り戻した。

「っ!」

 ついさっきまで感じていた気配を探し、姿を探して立ち上がる。

「うそ……やだよ、ねぇ……どこ行ったのよ、ちょっと……ねぇ!」

 どんなに叫んでも、探し回っても、彼の姿は見えなかった。

「やだ……やだよ、ねぇ! ちょっと、冗談はやめてよ! これも罰だって言うの……まだ、わたしは許されてないって言うの! やだよ……やだよ、いやだよぉっ!」

 叫んで、わたしはフェンスを乗り越えた。

 目指すのは初めて彼にあった場所――わたしが、飛び降りた場所。

「うそだよ……これっきりなんて、そんなのいやだ! こんなの、あんまりだよ! 逢えないなら……逢えなくなるなら、記憶なんていらない! こんなのいやだよ!」

 わたしは、高台の崖に立つ。

 今は、はっきりと思い出すことが出来る。

 初めて会ったのは、飛び降りる前じゃなかった。

 わたしは、ここで、こうして、彼を待っていたのだ。

 ずっと……飛び降りてからずっと、彼が迎えに来ることを。

 なのに、わたしは今、こうしてここにいる。

 死んだ筈だった。

 死んで、彼と出会った筈だった。

 なのに彼はいない。

 わたしは……いる。

 こうして、生きて、ここにいる。

「やだよ……そんなの、やだよぉ……」

 どうして生きているのかはわからない。

 生き返ったのか……ううん、もしかしてこれさえもが幻なのかも知れない。

 でも――

「幻なら、繰り返せば逢えるの? もう一度飛び降りたら、また逢えるの? ねぇ……ねえ、出てきてよ。一人に、しないで……」

 そうして、わたしが再び、同じ過ちを繰り返そうと、崖の向こうへ足を一歩踏み出そうと、そうしようとした、瞬間……。

『バカか、お前はっ!』

 突然、背後から響いてきた声が、わたしを一喝した。

「!」

『せっかく助かった――じゃねぇ、返して貰った命を粗末にするヤツがいるかっ!』

「なによ、あんたのせいじゃない!」

 そう叫んで、わたしは振り向いた。

 そこにいるのは見慣れた人。

 幻の中で一年、共に過ごした人。

 愛おしい……わたしだけの、悪魔。

「い、いるなら、いるって……は、早く言いなさいよ。…ばかぁ!」

 叫んで、その胸に飛び込む。

 いや、飛び込もうとした。……でも。

「え……?」

 わたしの体は、彼の体を、スッと素通りしてしまった。

「な……」

 驚いてよく見ると、彼の体が淡く霞んでいる。

 初めて出会った、あの十歳前後だった時でさえしっかり見えた体が、今は光に溶けるように、薄ぼんやりと霞んでいた。

「あ、あんた……」

『――はぁ。だから会わないで逝こうと思ったのに、ヒトの好意を片っ端からブチ壊しやがって、お前ってヤツは……』

 彼は、そう言って深く肩を落とした。

「一体、何がどうなって……」

『介入した罰ってヤツだよ』

 彼は、そう言って明るく、でも照れくさげに笑って見せた。

『言ったろ、オレたちは人間の進む道に介在しちゃいけないんだって。だから、オレはずっと見続けてきた。死にたくないって助けを求められても、これから死のうとしてるやつを見つけても、声もかけなかったし、求めにも応じなかった。それが、オレたちの仕事だった。でも……』

 その瞳に、わたしはおぼろげながら思い出した。

 記憶が消える瞬間。意識を失う瞬間。

 彼が叫んで、わたしの体を、護るように強く抱きしめたことを。

『やっぱ、オレって向いてねぇのかもな。――今回ばかりは、黙って見てられなかった。お前が消えようとしてるのに、黙って見てるなんて、出来なかった』

「そ、それじゃ……まさか――」

『直談判、したんだ。お前を助けてくれって。もう十分罰は果たされた。罪はあがなわれただろうって。だから、だからお前を生かしてくれって頼んだんだ。……お前は、生きようとしてた。それなのに神は、自ら生きようとしている魂を、もう十分に苦しんだ魂を見殺すのかって……脅迫に近かった、かな』

「ば……ばか、そんなことしたら、あんたまで……」

 いくら彼らが人間の想像上の生き物とは違う存在だとは言っても。

 神様に逆らって無事でいられるなんて、そんな筈なかった。

『大丈夫、心配すんなって。オレの願いは神に届いた。お前は、助かったんだ。もう一度生き直せるんだよ。今度こそ……今度こそ、幻じゃなく、本当にな』

「あ、あんたはどうなるの? まさか、わたしの代わりに消えちゃったりしないよね……?」

『ああ。神もそこまでする気はないみたいだな。……あとどれくらいか、十年か、五十年か、もしかすると百年先になったりすんのかな――』

「何のこと?」

 わたしが聞き返すと、彼は優しげに微笑んで、わたしの頭を撫でる仕草をする。

『オレが、お前を迎えに来る日だよ』

「あんたが……わたしを? 迎えに来る?」

『神がオレに課したのは、お前の魂を迎えに行くってことだったのさ。それが何十年先になるのかわからない。でも、お前の魂はオレが連れていく。……それまで、お別れだ』

「お別れ、って――もう、逢えないの……?」

 わかっていた、ことだった。

 彼は悪魔で、わたしは人間。

 所詮、共に生きることは出来ないって。

 でも……。

『ばぁか。そんな顔すんなよ。逢えないったって、生きてる間はってことだぜ。お前がいつか死を迎えたら、そん時は必ず、オレが迎えに来てやる。絶対、来るから。そん時、また逢えるさ』

「そんなの……」

『だからって、また自殺なんかすんじゃね~ぞ。せっかく、返して貰った命なんだからな。お前の命は、お前だけのもんじゃない。オレが罰を覚悟で直談判してやったんだからな。……大事に、しろよな』

「ふ、ぇ……」

 ふるふると。

 首を振ることしか出来なかった。

「やだよ……もう逢えないなんて、そんなの、やだ……」

『待っててやるよ』

 彼は、そう言ってわたしの頬に手を当てた。

 それは、もう触れることの出来ない霞のような存在の筈だったのに、なぜかぬくもりの伝わってくる手のひらだった。

 わたしは、彼に促されるまま、顔を上げる。

 彼は、優しく、そして強く微笑んでいた。

『それに、お前の声は、必ず届くから。強く想えば、空に願えば、お前の声は、想いは、必ずオレに届くから。……だから、そんな顔すんなよ。ほんの少しの間だよ』

「いつ……いつ、逢える? もう一度…あんたに逢える?」

 そんなの、わかるわけない。

 彼は神様じゃない。人の運命なんて、わかる筈ないのだ。

 でも、彼は答えてくれた。

 ……柔らかな、二回目のキスと一緒に。

『――お前が笑顔を忘れたら』

 そう言って、彼は口づけを落とす。

『お前が、また笑うことを忘れたら。そん時は、迎えに来てやるよ。生きてくのが辛くて、笑うことが本当に、どうしても出来なくなったら。そん時はオレがお前を迎えに来る。……一緒に、堕ちよう』

「約束だよ……?」

『……ああ。約束だ』

 それを合図にしたかのように、霞んでいた彼の体が光り、溶け始めた。

「約束だよ……ねぇ、絶対約束だよ! 迎えに来るって……約束だからね!」

 消えていく彼に、わたしは必死に叫ぶ。

 それに応えるように、彼が片手を上げ、そして……そして、その姿が完全に消えてしまうと。

 わたしは、がっくりとその崖に座り込んだ。

「約束、だよ……」

 崖から見下ろす街を見つめながら。

 わたしは暫く、泣きじゃくっていた――。




 ―――― そして現在 冬 ――――


「……」

 わたしは、あれから毎日、ここを訪れるようになった。

 二度と笑うことは出来ないって、そう思った。

 だから、すぐに逢えるって、そう思っていた。

 でも、皮肉なことに彼との想い出が、わたしを微笑ませる。

 ……わたしから、笑みを消えさせない。

「ほんと、バカなんだから……。落ちこぼれだって自分で言ってたクセに、その上、罰を承知でわたしなんか助けちゃって。……ほんと、バカなんだから……」

 ぽたぽたっと。

 涙が伝って落ちた。

「……ねぇ。寂しいよ。やっぱり、逢いたいよ。――少しの間なんかじゃ、ないよ!」

 そう言って、わたしは顔を覆った。

「笑えるよ。わたし、まだ笑える。あんたと約束したから、大事に生きてる。……でも! でも、辛いよ! 寂しいよ! ……逢いたいよぉ」

 願えば届くって、彼は言った。

 この空に向かって、強く願えば、想いは彼に届く。私の声は、彼に届くって。

「……でも、あんたの声は? あんたの想いは、どうやって受け取ればいい? わたしは……わたしは、あんたの声が聞こえないよ。そんなの……そんなのズルイよ……」

 その、瞬間。

 予報通り、雪が――粉雪が、舞い降りてきた。

「ゆ、き……」

 ぼうっと。

 手を空に掲げ、振り落ちる粉雪を受け止める。

「あたたかい……?」

 その雪は、決して冷たくなかった。

 それどころか、ぬくもりさえ感じた。

 ハッとして、空を見上げる。

 それは、不思議なことにわたしの周囲にだけ舞い振っていた。

「これ、は……まさか……」

『強く願えば、想いは届くよ……』

 彼の声が、聞こえた気がした。

「……ばか。こんな気障なコトしたって……ばか……」

 わたしは、その雪を抱きしめるように、拳をぎゅっと握りしめ、胸に当てる。

「気障なんだから。……似合わないよ、こんなの。ほんとに……ばか……!」

「バカ、バカってうるせぇなぁ」

「!」

 ウソだ。

 そんなのって……そんなのって、あるわけない。

 だって、彼は死ぬまで逢えないって言った。

 わたしが死んだら、迎えに来るって。

 笑うことを忘れたら、迎えに来てくれるって。

 なのに、そんなの……そんなことって……。

「……バカっていう方が、バカなんだぞ。知らねぇのか?」

「どう、して……?」

 そこに、彼はいた。

 三年前の冬の日と同じ格好で。

 何も変わっていなかった。そう……ほんの少し、大人っぽくなってはいたけれど。

「どうしてって……いや、オレもそこまでは……でもほら、良く言うじゃん、バカって言う方がバカだって」

「そうじゃなくて! どうして、どうしてあんたがここにいるの? だって逢えないって……死ぬまで逢えないって、言ってたじゃない!」

「へ? ……あ、そっちか。なんだ、早く言えよ」

 彼はそう言って笑って、歩み寄ってきた。

「神がさ。一緒に生きろって」

「……え?」

「いや、それがさぁ。ほら、お前がいつ迎えに来んのかって聞くから、笑うことを忘れたときって、約束したろ?」

「うん」

「あれって、よく考えたら、あれも人の進む道に介在するってことなんだよなぁ」

「……!」

「で、神が怒っちゃってさ。どの道、お前が辛くなったらルールなんて無視して迎えに行くんだろうから、それだったらいっそ、人間になれって。で、一緒に生きろって言われたんだ」

 そう言って……彼は大きく、両手を広げた。

「迎えに、来たぜ」

「っ!」

 わたしは、何のためらいもなくその腕に駆け出す。

 勢い良く飛び込んだわたしをしっかりと抱き止めて、彼はわたしの耳元で囁いた。

「……言ったろ? 強く願えば――想いは届くって」


 ねぇ届きますか。

 この空の向こうに。

 ねぇ聞こえますか。

 この空の果てまで。

 私たちはいま、とても幸せでいます――。

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冬のうた 樹 星亜 @Rildear

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