第35話 ゾビグラネ ー6ー



 最初はそれが何か分からなかった。

 でも、数秒後に気づく。それはアシュリーの顔だった。

 それもひどく幼い頃の。たぶんまだ彼女が5歳か6歳の頃の顔。


 彼女の顔は光魔法に照らされ、左の頬とおでこのあたりがやけに明るく見えた。

 その周りは暗かった。

 漆黒の闇のような暗さ。

 一瞬で分かった。これは地上の暗さではない。地上には本当の闇はない。

 地上には何かしら灯りがある。それは月であったり、星であったり、動物の目の光であったり、人の作った蝋燭の光などだ。

 本当に、何かしらの光があるのが地上なのだ。


 でも地下にはそういうものはない。


 地下では、私たちが光を灯さなければそこは永遠に闇の中なのだ。

 その未熟なアシュリーの光魔法は彼女の手を映し出していた。

 アシュリーは一度握った自分の手のうちの人差し指と中指を立てた。


『二倍は“ダブル”って言葉でしょう? ねぇお婆はそう言っていたよね?』

『うん』と私は答えた。


 不思議な気分だった。

 私自身が答えたにも関わらず、まるでそこには私が関与していないような……、そんな気分にさせられた。


『じゃあ一倍は?』と彼女は首を傾げながら聞いてきた。

『わからない……、シングル? かなぁ』と私は自信なさげに答えた。

『じゃあ三倍は?』


 そんなこと分からないよ。


『そんなこと分からないよ』と私の口から漏れた。


 暗闇の中から不意にアシュリーの肩に手がかかる。

 アシュリーはビックリしてそこに光魔法をあてると、そこには年輪のように顔にしわが刻まれたお婆がいた。


『ねぇ、お婆! 三倍の言葉ってなんていうの?』とアシュリーは発情した犬のように聞いた。


『三倍かえ?』

『そう、三倍』

『なんでそんなこと知りたいのじゃ?』

『それは……、四倍を知りたいから』

『ほう……』


『だって、私とリリアは一人で倍の価値があるのよ! そして、私たちは二人で一人の存在。ということは、私たちは合わせれば四倍の価値があるのよ!』


 目じりに細かくしわができ、ほほを膨らませ、お婆は大笑いした。


『カッカッカッカッカッカッ、たしかにそのとおりじゃの。うん。よう算数の勉強しとるわい。恩爺の教え方が良いのかの?』


『恩爺は関係ないわ。私の頭がいいの』とアシュリーはしたり顔で言った。


 私はその光景を見ながら、そういえば昔こんなことがあったな、と思い出していた。

 確か、このあと、三倍の言葉をお婆は教えてくれたのだ。

 トリプル、と。

 でもそんなお婆でさえ四倍に該当する言葉を覚えていなかった。



『え~~!?』とアシュリーは大声をだした。『肝心なところだったのに! 忘れちゃったの?』

『しょうがないじゃろう? 歳なのじゃし』

『じゃあ、誰なら知ってるの?』

『う~ん? 誰かの? 恩爺かの?』


 その一言を聞くや否や、アシュリーと光は風のようにこの場から去っていった。恩爺がいつも見守っている植物園にいくつもりなのだろう。


『リリア~! おいで~!』とアシュリーが梯子に手をかけたあたりで私を呼んだ。

私は苦笑いし、アシュリーのあとについてゆく。


 これが私の人生の縮図だった。

 いつだってアシュリーが先に決断し、私はそれについていった。

 たぶん、それが心地よかったのだ。


 彼女が光なら、私は影だった。

 彼女が切り開き、私はそれに続き、物事を完成させる。

 始まりが彼女で、終わりは私。

 私たちはいつもそういう関係。


 ああ、そうそう、覚えている。

 このあと、結局、恩爺も四倍に該当する言葉を知らなくて、私たちはしょんぼりしながら自分の寝床へ帰っていったのだ。


 アシュリーの荒れようは酷く、土の壁をなんども蹴り上げ、そのあと、マークと取っ組み合いの喧嘩になったのだ。


 だから、そのあと、私は皆が寝静まった後に四倍という言葉を調べに「長部屋」に無断で侵入したのだ。

 壁のようにそびえる本棚にギッシリ詰まった本の背表紙を目を皿にしながら見たことを今でも覚えている。

 たぶん、あれは本当に運がよかったのだろう。

 それとも勘がよかったのかもしれない。

 私は、数ある本の中から偶然子供の数字教育の本を見つけ出し、そこで四倍に該当する言葉を知った。



 クアドラプル。



 そうか、クアドラプル、というのか、と思った。

 明日、アシュリーに教えてあげるんだ。

 そして、それから、マークと仲直りをしてもらって、またみんなで楽しくハウスでの生活を送るの。

 そう、明日も明後日も楽しく生きるの。

 アシュリーと私は、きっとそのために生まれてきたのだから。



『駄目よ』と言うアシュリーの声がどこからか響いてきた。

 それはとてつもなく低い声だった。



『私たちには約束があるでしょう。

 私たちにはやらなければならないことがあるでしょう?

 だから起きるのよ。

 夢は終わり。

 私たちはここでは死ねないの。リリア、そうでしょう?

 ああ、そうそう。それと……、胸の傷は治しておいたわ。

 感謝しなさいよねリリア』



 瞼があけられた。

 視線の先の木の葉が揺れるたびに、まぶしい光がちらちらと瞳に突き刺さる。

 私は仰向けの恰好で寝ていた。

 既に雨はあがっているようだった。


 赤鹿のコートは雨と血によりべちゃべちゃに濡れており、体中が気持ち悪く、そして重かった。


 視線を動かすと、ハウスで育てていたニラのような緑色の草が緩やかなカーブを描くように伸びており、丸い水滴が沢山ついたそれが、私の顔や体の周りを覆うように生い茂っていた。


 視線を下に向けると、黒い二匹の甲虫が私の腹の上をのそのそと行進している姿が見えた。


 夢だったのか、と思った。

 いや、とっくの間に気が付いていた。夢なのだ、と。

 あれは遠い日の思い出。


 すると、さきほどの言葉が蘇ってきた。



『胸の傷は治しておいたわ。感謝しなさいよね、リリア』



 たしかに……、そんなに痛くないかもしれない。

 右胸の激痛が走っていた箇所の痛みが、いつの間にか和らいでいた。

 そこには左手が添えられていて、その左手から治癒魔法が垂れながされていた。ほとんど無意識の内におこなわれていた行動だった。


「アシュリー」と思わず口からこぼれた。


 私の中にアシュリーがいる。そんなことを思った。

 私たちはたぶん本当に二人で一人の存在なのかもしれない。

 私の至らないところをいつも彼女が導いてくれる。

 今だってそう。彼女はいつだっておせっかい焼きなのだ。

 そして私の役割はいつも決まっている。

 拙速で突き進む彼女の脇を固めるのが私の役目。


 だから、彼女が指し示した道を完成させるのは、私の仕事なのだ。


 私は上半身を起こし、赤鹿のコートを脱いだ。

 水を含み、それはひどく重くなっていた。

 私は雑巾を絞る要領で水を含んだ毛皮の服をしぼると、そこから沢山の水がザァー、と流れ出す。


 乾くまで時間がかかりそうだった。


 次に私は空を見ると、まだ明るかった。

 どちらにせよ、奴らの目から逃れるには夜の闇に紛れた方がよい、と思った。


 夜まで待とう。絶対にその方がいい。


 私は腕を鋼鉄化させ、斜面に横穴を掘ると、そこに身を隠し、横穴の中に木の棒を突き刺し、そこに服をかけた。


 そして、丸い火の玉を空中で停止するように繰り出すと、そこに両手を近づける。

 オレンジ色の光が頬や指先を照らす。

 とても暖かくて頬が赤くなり、指先がジンジンしはじめる。

 暖かさが気持ちよかった。



 それから時間が経ち、日が沈んできた。

 まだ乾ききっていない赤鹿の毛皮のコートを羽織ると、意を決し、私は斜面を登り始める。一日中横になっていたことで大分体力を回復できていた。



 ――そういえば、ゾビグラネはどうなっただろう。



 頭を横に振った。考えないでおこう。

 彼がいようがいまいが、やることは一つなのだ。

 雑草が生い茂り、雑木林が立ち並ぶ斜面をしばらく登ると、元の山道に辿り着いた。たぶん、ここが一番敵と遭遇しやすい場所に違いない。


 一瞬、元の横穴に戻った方がよいのではないかと思ったが、戻ってどうなるのよ、とも思った。


 今は進むべきなのだ。

 私にはやるべきことがあるのだから。

 私は、ずんずん、山道をのぼる。

 体は重いままだったが、構っていられなかった。


 夜も深くなり、虫たちの鳴き声がいやに響くようになったころに視界に明かりが見えた。それも沢山の明かりが。


 ――これがトキナル村か。


 トキナル村には沢山の馬が止まっていて、完全武装の恰好をした赤いフードを被った連中が村をうろついていた。

 私はそこから東へ枝分かれした道を月明かりの下たしかめると、村を迂回するようにして、その東に枝分かれした小道にでた。


――あの赤い恰好をした連中はなんなのだろう?


 恰好が異端審問官たちと少々違う奴等であったが、この時代のことがよく分からない以上、奴等と接触したくなかった。

 私が行くべき場所は、修行所のある村だけでよい。


 あれ? そういえば、なんという名前の村だったっけ? ウジュミ村? ウジェルヤナアース村? ウジュ……まぁいい。とにかく、渦を巻く水路がある村ね。そこに行けばすべてが解決するはずよ。


 それから私は、腹が減れば、魔法の首輪で獲物を捕まえ、疲れれば、藪の中に入ってゆき横穴を掘り、休む、というやり方を続け、3日目にようやくその村に辿り着いた。運よく異端審問官たちに出くわすことはなかった。



「あのぉ……」と私は斧をかつぎ村の通りを歩く男に声をかけた。それは筋骨隆々とした30半ばの黒髪の男であった。「そのぉ……。ここは、ウゼミ? ウザミアルナース? という村でしょうか? あ、水路! 渦をまく水路があると聞いたのです。あと修行場があるとも」


 ……きちんと通じただろうか? と思い不安で上目遣いになると、男は笑った。



「観光の方ですか? それとも修行者様ですか?」

一瞬、正直に答えて大丈夫だろうか、とも思ったが、正直にこたえることにした。理由はここまで異端審問官たちに出くわさなかったことだった。彼等がここまで来ていないということは、ゾビグラネの言うように恐らくアーシャ公と呼ばれる人物が教会の行動に制限を加えているからではないだろうか、と思ったからだ。


「魔法の修行をしにきたの」と私は答えた。

「ああ、修行者様ですね。では修行所はあちらになりますよ」と言い彼は村の外れを指さした。林の間から黒い大きな建物が見えた。


「どうもありがとう。あのう……、好きに使っていいのかしら?」


「ええ、もちろん」と男は答えた。「ああっと、それと……この村の正式な名前のことなのですが、本当に名前が長くて……、実は村民たちもよく名前を間違うのですよ。なので、気にされない方がよいですよ」


 ……では、どう呼べばいいのだろう? と思っていると私の顔つきで察したのか、男はこう言った。


「この村には、村中の人々が好んで使う愛称があるのですよ」

「愛称?」

「ええ、この村の中央広場には、まるでねじを巻いたような、螺旋状の水路があるのです。

 あなたのような修行者もたまにはこの村にくるのですが大半はその珍しい水路を目当てに来ます。

 だから、皆はこの村をこう呼ぶことにしているのです。“ねじまき村”と」


「ねじまき村」と私は繰り返した。

「ほら、覚えやすいでしょう?」


 たしかに覚えやすい名前だ、と思った。

 ねじまき村。

 うん。たしかに、これなら覚えられる。

 その後、私は彼から“古書館”と呼ばれる修行所の使い方を教えてもらい、礼を言うと、早速、その古書館に向かった。


 歩いてすぐにそれは見えてきた。

 黒くて、大きくて、どんよりした雰囲気の建物。


 そこを取り囲むように石の壁があり、その中央には開きっぱなしの鉄格子の門があった。

 私はそれを潜り抜けると、手入れされていない庭を横切り、黒く大きな屋敷の扉に手をかけた。

 ギィー、という仰々しい音と共に扉は開かれてゆく。


 私の目が見開かれた。

 本があった。

 本だ。本。本。沢山の本だ。

 胸の鼓動が高鳴るのを感じた。そこには本の山があった。


 私は急いで魔導書のコーナーを探す。

 すぐにそれを見つけた私は手あたり次第、本を開いた。

 そこにあったのは私が知らない魔法の知識であった。

 それも山のような知識。



 やった、と思った。これならきっとフェンリルに対抗できるに違いない。

 絶対に大丈夫だ。

 やったよアシュリー!

 私は本棚から本を引き抜き、次々とそれらに目を通す。

 少し読んでは次の本に移り、少し読んでは次の本に移る。

 目移りするぐらい新鮮な知識が私の頭に入り込んでくる。

 気づけば夜になっていた。

 私は、ここの使い方を教えてくれた木こりのダインさんの言うように、宿泊部屋に向かった。


 そこには修行者用の衣服とベッドがあり、自由に使っていいのだそうだ。私は着ているもの全てを脱ぐと、それを炎魔法で木っ端微塵にした。

 そこには白いシーツが引かれたベッドがあった。

 私はベッドというものに寝たことがなかった。

 そして、そこには少々の憧れもあった。

 私は裸のまま、そのベッドに入り込み、そして泥のような眠りについた。


 そして眠りは私に囁くのだ。アシュリーの言葉を。


『私たちは一人で倍の存在。そして私たちは二人で一人の存在』




 扉があく音で目を覚ました。

 扉の傍に立っていたのは子供だった。

 茶色の巻髪をした愛らしい顔をした男の子。

 目がくりっとし、鼻が低かった。

 その子供は何かを見つめていた。

 たぶん私を見ていたのかもしれない。

 途中で私は自分の体がシーツからはみ出ていたことに気づいた。

 そういえば、スケベのマークも何かとジロジロ女性の裸を見るのが好きだった。

 そう思うと、ここはハウスではないのに、ハウスに戻ってきたような気分になった。

 だから私は今初めて気が付いたようなふりをし、この子に尋ねたのだ。誰? と。



 子供は明らかに慌てていた。

 マークと全く同じ反応だった。

 あの年頃の男の子は自分の性を隠すのに必死なのだ。

 まぁでもさすがにアシュリーみたく、人の情事に踏み込み、からかおうとは思わないけど。


 でも、そんな反応が可愛くて、私は彼の名前を聞いた。

 彼は恥ずかしがって名前を教えたがらなかったけど、それでもやっと教えてくれた。



「ぼくはユーリです。ねじまき村のユーリ。あなたの名前は?」



 リリアよ、と喉の手前まで出かかった。

 でも、いや違う、と思ったのだ。


『私たちは一人で倍の存在。そして私たちは二人で一人の存在』そんな私たちにもっと相応しい名前がある。


 リリアとアシュリーの存在は一つ。

 リリアとアシュリーの想いは一つ。

 ならば私が名乗る名前はこの名前しかないはずよ。


 ダブルとダブルがつなぎ合わさった存在。つまり――



「――クアドラよ。私の名前は、クアドラ。これからよろしくね、ユーリ」

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