ムエタイ

タツマゲドン

ムエタイ

 向かい合う二人の男。互いに肌は浅黒く、身に着けているのはそれぞれ短パンと拳から手首にかけて覆う麻のロープで出来たバンテージのみ。


 中間で睨み合う両者をレフェリーが手で制する。彼らが立つのはゴムロープに囲われた一辺七メートルの正方形のリング中央。


 片方は百七十センチメートル程、もう片方はその十センチメートル以上は高いだろうか。


 その周りで数十人もの観客がパイプ椅子に座って声援を送っていた。紙切れを掲げ怒り混じりに何かを言う者も居る。


 ゴングが鳴り、レフェリーが手を振る。一メートル程の距離を取って二人は両腕で顔を覆ったまま相手の目を見詰め、緩衝用にしては硬いマットを跳ね右往左往。


 小柄な方がこめかみを覆う両腕越しに見上げる。通常、ムエタイや格闘技の試合では体重を決めて行うが、ハンデ戦では賞金がそれ相応に跳ね上がる。


 ムエタイの試合をやる理由は人それぞれではあるが、大抵は貧困だの金を稼ごうとする事である。


 俺も同様だ。弟や妹たちは頭が良いが、貧しい農家の家計では良い学校に行かせられない。


 そこで、俺は故郷の村から五百キロメートル離れたタイ王国の首都、バンコクまではるばる来た。


 身体の丈夫さには少し自信があるし、俺は十歳の時から村の長老にムエタイを教えて貰った。


 村の皆に恩返しする為にも、この大男に怯える訳にはいかない──ジャブ。


 向こうの大きめの拳はそれを簡単に弾く。


 怯まず左拳を連発。繰り返しても届く前に打ち落とされ、カウンターの長いジャブが眼前に迫る。


 すかさず左へ頭を傾けながら右ストレート。頬をバンテージが掠り、こちらの拳は向こうの肘が遮っていた。


 バックステップ。今度は対面側からジャブ、右フック――右へ頭をスリップ、フックを左肘で防ぐ。


 次は左ボディ二回、右アッパー――腕を腹の位置にブローを止め、左肘を突き出して最後までブロック。反撃に右ストレートを放つ。


 と、相手が頭を下げて右へウィービング、左フックが見えた。


 左足を軸に外側へターン。間一髪で躱しつつ間合いを取ったも束の間、助走をつけた相手が跳び上がっていた。


 振り下ろし肘に対し屈みながら左前にステップし百八十度反転。無防備な相手の脇腹にミドルキックがクリーンヒット。


 顔を歪ませた相手が振り向く。しかし姿勢は殆ど崩れていない。それどころか紐で覆った両腕を開き、当てろと誘っている。


 直後、胃を狙ったミドルキックは硬い腹筋に弾かれた。次は足の前後を入れ替え、左ミドル――肝臓の上を覆う筋肉は微動だにしない。


 今度はハイキックで首を引っ掛けようとする。が、軸足に衝撃。


 ローキックに膝を折られ背中から不時着。転がって距離を置き、どうにか体勢を立て直した。相手は余裕とばかりにゆっくりと歩を進める。


 十センチメートルの身長差以上に重みが明らかに違う。きっとウエイトトレーニングを中心に鍛えていたのだろう。


 方法を変えてみるか。左足を斜めに開き、右蹴り。反応した向こうが左膝を掲げた。


 掛かったな──半ば出した蹴り足を折り戻し、前蹴り。腹と不意を突かれた相手から勢いが消える。


 容赦せず左右の連続ローキック。転ばしには至らないが、痛みによる構えの崩れは隠せない。


 ふと腿を蹴られる感触――相手の足裏が蹴りを跳ね返した。そして顎に迫るフック。


 内側から腕を受け止め、もう片手で相手の後頭部を掴んで膝の連打。叩く感触と共に相手がピクリと動じる。


 負けじとこちらの両肩を掴まれ、外側に引っ張られる感覚。蹴りの最中を突かれローキックで転ばされた青年は一回転して胸から床に叩き付けられた。


 すぐさま起き上がろうとするも、背中に走る衝撃にリングの一角にまで飛ばされた。


 見上げる歓声に混じって叱咤も耳に届く。百八十度振り向いて両腕で頭を覆い、拳と拳の間から覗きながら歩み寄る奴に手招きした。


 左フック――比較的小さな掌が上腕を途中で止める。諦めず大柄な方は右ストレート。


 青年の顎まで届く寸前、掲げられた肘が拳骨を砕く。痛みを我慢して大男は連打するがその度に尖った防壁に阻まれる。


 動きが鈍ったのを見逃さず、肘を振り上げる――こめかみを狙うパンチを流しながら顎に一発。


 脳を揺さぶられ巨体が二、三歩後ろによろめく。追い付いて跳び上がり、両肘が脳天を突き刺した。


 突如、レフェリーが相手との間に立ち塞がった。カウントが始まり、床に叩き付けられた相手はうめき声を上げマットを殴った。


 七回目で向こうは完全に復帰するとレフェリーが視界の端に消え、再びゴングの音。怒っているのか歯を噛み締めた相手がリングを踏み鳴らした。


 脇腹を狙う左右の蹴りを膝でガードしていくが、重量と数に負け、とうとうリングの隅に追い込まれた青年の顔面に足裏が迫る。


 何とか両腕でブロックするも背中が痛い。次に見えたのはしかめ面と肘の横薙ぎ。


 防御は間に合ったが、続けてパンチの嵐が襲う。こちらもガードを上げて防ぐものの骨まで響く衝撃は誤魔化せない。


 では剛ではなく柔だ――右ストレートが見える。左前へステップ。


 右手でその手首を掴んで外に逸らし、左肘で向こうの肘間接を逆に折る。


 短い悲鳴。躊躇せず脇腹にもう一撃。レバーへの苦痛を怒りに変えた向こうは腕を振るが、小柄な影は消えていた。


 巨人が振り返ると、舞台中央で相手は拳を開き、左手は額の位置、腹を右手で覆い、脚幅を大きく腰を落として佇んでいる。


 駆け込んでジョルトブロー。次の瞬間、拳は体勢を低くした小柄な青年の頭上を通り過ぎ、彼は左前にスライド、すれ違いざま硬い右腹部をナックルが打ち抜く。


 臓物まで貫く痛覚に大柄な方は思わず手で腹を押さえる。細めた目で横を見ると、サイドキックがまたも肝臓を狙っていた。


 手で下に払い除けると、今度は眼前に迫るジャブ。咄嗟に右手で顎をガードする。


 だが衝撃は痛みの残る脇腹へ響いた。見ると腹を突くボディジャブ。


 素早さ重視の軽めの打撃とはいえこれ以上受けると身体がもたない。苦し紛れに左ストレートを……


 察知した小柄な青年はその手を引いてもう片手で顔面に裏拳。肘のフックと顔を引き寄せて膝蹴りを決め、残った力で大柄な人物は両手で押し出す。


 それでも蹴りの間合いだ。左の膝を胸の位置に抱える様子が見え、反射的に右脇腹を隠す。


 直後襲ったのは顎が横にガクンと揺れる感覚、頭が白くなる。


 追撃の後ろ回し蹴りに三半規管を揺さぶられ、横に一回転した巨体は崩れ落ちてリングをズシンと震わせた。


 舞台端から現れたレフェリーが突っ伏す相手へ駆け寄ると手を大きく振り、ゴングが鳴る。


「──選手の勝利! まさかこの闘技場で無敗のチャンピオンを、よりによってまだ無名のファイターがノックアウトで打ち勝つとは誰が思ったでしょうか! しかも彼はまだ十八歳、今後の活躍も期待されます!」


 アナウンスと共に観衆が一斉にパイプ椅子から立ち上がる。揉め事を起こしている者が少数見受けられたが、殆どは賞賛と拍手を競技場の頂上に一人立ち尽くす青年に送っていた。


 肩で息をしながら彼はロープにもたれ、残った力を振り絞って片方の握り拳を群衆の前に挙げた。

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