元院

荒波一真

元院

 和室の淀んだ空間の中に対局者の息遣いが響いている。

 六人で争ってきたプロ試験も最終日を迎えた。

 十五分ほど前から盤面は進んでいない。対戦相手の日高は長考に入り、時々体を揺らしながら、食い入るように先の展開を読んでいる。

 トップ争いは混迷を極めていた。昨日の時点で六勝三敗が三人。同率の場合は、院生一位の日高がプロ入りを決める。この一局を制さなければ未来はない。

 吐き気をごまかすために親指を噛む。テープの弾力と鈍い痛みが、何故か心地良かった。僕の噛み癖と、彼の体揺らし、どちらが不快か少し考えたけれど、結論は出なかった。

 手が止まるのも頷ける、難解な局面だった。右辺の白石が孤立している。とはいえ、形が整っているので、すぐに取られることはない。黒番の日高は、恐らく二つの選択肢で迷っている。

 まず思い浮かぶのは、外から圧力をかける手。白石を生かす代わりに、黒模様を築くことができる。この妥協案をのんでくれれば、僕の勝ちは揺るぎない。

 彼は確かに強い。十五歳とは思えない冷静な碁を打つ。北陸勢として初めて全国大会を連覇したことは、記憶に新しい。院生研修でも、危なげなく上位を維持していると聞く。

 それでも終盤においては、一枚上手であるという確信があった。形勢は少し白が良い。ここまで築いた優位を崩されることはないだろう。

 問題は真っ向から攻めてきた場合だ。相手を攻めれば、当然自分の石の危うさも増す。失敗すれば勝負にならない。大勝か、惨敗か、どちらかだ。彼の棋譜から受けた印象では、争いを好まず、棋理に沿う手を打つ。ただ、今日は攻めてくるのではないか。そういう予感がした。持ち時間が消費されるにつれて、予感は確信へと変わっていった。

 白石を確実に仕留められる手順が一つだけあった。一見凡庸な手に見えるが、数十手に渡る攻防を間違えなければ、僕に勝ち目はない。

 頼む日高、今回は譲ってくれないか。

 無言の願いを投げかける。日高は右辺を睨んだまま動かない。熟練の狩人の目つきだ。対局者だけではない。この部屋全体に、殺伐とした雰囲気が漂っていた。

 プロ試験には魔物が棲むと言われている。緊張状態で繰り出される妙手、一勝した時の躍るような高揚感、失着の落胆、同門がプロ入りした時のやり場のない悔しさ。決して普通の生活では味わえない感情の起伏を経験できる。何より、厳しい試験の先にある純粋な勝ち負けの世界、選び抜かれた精鋭しかいない、眩しい世界への憧れが、受験者を捉えて離さない。

 それも今年で終わりだった。試験を受験できるのは、院生か、二十二歳以下のアマチュアと決められている。今日ここで負けてしまえば、プロ入りの資格を永久に失うことになる。

 日高はまだ打たない。残り時間はほとんどなくなっていた。大幅な時間消費は、戦略として適切ではない。終盤でミスが生じやすくなるからだ。

 早く対局を終えて、外の景色を見たかった。濃く鮮やかな落ち葉や、目を刺すような太陽を、もう何年も見ていないような気がした。それどころか、先生に教えを乞うて以来、体内に仕込まれた時限爆弾の音が、常に耳の奥に響いていた。

 時計のボタンが乱暴に叩かれた。日高の着手は例の唯一解を捉えていた。軽くめまいがしたので、また親指を噛む。今度はテープが薄ピンクに色づいた。動揺を悟られないよう注意しながら応じると、間髪入れずに、読み通りの場所へ打たれた。

 冷や汗が噴き出してくる。シャツに滲んでまとわりつく。

 人生終わった。終わってしまった。悔しさも怒りも湧いてこない。両親と先生の顔が浮かんで、消えた。何かを考える気力が、急速に失われていった。親指の痛みだけが残った。

 彼のことを見くびっていた。前打った時より、格段に強い。侮り、高を括った結果がこれだ。ペットボトルの水を無理やり喉に流し込む。想像よりぬるくて不味かった。水が粘膜を刺すように刺激し、むせた。

 喉の痛みが引いた頃、石の崩れる音が聞こえた。それから隣の二人が会話を始めた。感想戦が始まったのだ。

 どちらが勝ったのかは、分からなかった。いずれにしても、プロ入りの可能性は、ほとんど消えてしまった。


 双方持ち時間を使い切り、一分間の秒ヨミが始まった。本来なら投了すべきところを、僕は粘った。最後の一局を、情けない形で終わらせたくなかったからだ。

 悪あがきといっても、結果は歴然としていた。転倒した短距離の選手が、巻き返しを狙うようなものだった。思惑に反して、一手打つごとに白石の活力は失われた。

 隣の対局者はすでに引き上げていた。二人きりの和室に、対局時計の音が流れる。それは、体内にこだまする時限爆弾の音に、酷似していた。間もなくカウントダウンが終わる。僕はどうなるのだろう。目前に迫った敗北の後に、何が残るのだろう。

 日高は黒石を放った。右からのハネ。

 一瞬、碁盤とその周りの時間が止まったような気がした。

 ここは当然左からハネなければならない。アマチュアの初段でも分かる、単純な死活だ。一体どうしたというのだろう。

 僕は顔を上げた。

 その時の日高の表情は忘れられない。唇を震わせて、自分の着手を凝視していた。震えは段々大きくなった。彼は右手で口元を覆ったが、大きく見開かれた目は、自分のミスをまだ受け入れられないようだった。

 結果は明らかで、目算するまでもなかった。しかし、対局は続いた。紛争で荒れた市街地を片付けるような段取りで、黙々と手が進んだ。

 こうなると、隣の勝敗が気になって仕方がない。彼らが何を話していたか、記憶を辿ってみたけれど、日高のミスの衝撃のせいで、何も思い出せなかった。代わりに、焼けつくような幸福感が身を包んだ。まだ夢を諦めないでいられる。首の皮一枚繋がった、と思う。

 鼻をすする音が大きくなる。普段の冷静な彼と、目の前の少年が、同一人物とは思えなかった。ふと、八年前の試験のことが頭に浮かんだ。僕が二回目の次点を取った年、そして、窪田が入段した年。

 窪田と彼は全く似ていない。戦い方も、性格も、見た目も、対極にある。だが、体を震わせる姿は、そっくりだった。

 ようやくだ。ようやく、窪田と同じ土俵で勝負ができる。またライバルとして戦える。もちろん、はるか後方からのスタートであることは否めない。彼は既に新人タイトルを制覇していた。それにとどまらず、放送局主催の早碁トーナメントに出場し、九段の実力者を次々倒している。追いつくには、今まで以上に努力しなければならない。

 向こうの残り時間が十秒になり、五秒になった。対局時計の秒ヨミは正確で、無駄がなかった。日高は頭を下げた。

 たった今、彼のプロ入りの可能性は消えた。石を崩す時、日高はうめき声とも泣き声とも取れない声を発した。くう、とか、あう、とかいう調子で、まるで体内の空気を全部吐き出そうとしているようだった。

 恨まないでくれよ、と心の中で呟きつつ、根に持たれても仕方ないだろうと思った。僕が早く投了していれば、あのようなミスは起こり得なかったのだから。

 この試験が測るのは棋力の強さだけではない。日高より強かった戦友が、何人もこの場から立ち去ったことを、立ち去らなければならないことを、僕は知っている。

 勝敗を記録するために立ち上がった。敗者への配慮から、試験では、勝者が二人分の記録をつけるように決められていた。

 記録表への道のりは、ずいぶん遠く感じられた。そこには、もちろん、他の受験者の勝敗が記されている。

 もし落ちていたら、という気持ちより、受かっていたらどうしようという不安の方が勝った。僕の前には今まで、長い歩道があった。濃い色の靄のせいで、数メートル先しか見えないような、舗装された道があった。その先に何があるのかは、他人から聞いた話や、新聞記事で得た情報により、断片的には想像できた。それでもやはり、実態には遠く思われた。靄の先を見ようとするたびに、自分は未だにスタートラインの後ろにいることを、思い知らされた。

――おめでとう。

 襖の向こうから、微かに、職員さんの声が聞こえる。

 急に空気が冷えた。僕は歩みを止めた。

――本当におめでとう。

 職員さんのか細い声は、日高の発する雑音のせいで、明瞭に聞き取れない。うるさくてしょうがなかった。少し間が空いて、自分の前方から、すすり泣きが聞こえてきた。その泣き声の意味するところは、今までの経験から、容易に想像がついた。

 どうやら激励の声は、僕に向けられたものではないようだった。


「まあ、運が悪かった」

 平手はグラスに入った発泡酒を飲み干した。これ何杯でもいけるわ、とでもいう風に小さく頷く。氷のかすれる音は軽快だった。今まで聞いたことのないくらい、気持ちの良い音だった。

 囲碁会館の自動ドアを抜けてから、眼下に広がる日常の光景が僅かに変化したように感じる。五感がそれぞれ研ぎ澄まされ、不快だと思っていた色々なことを、受け入れられるようになった。あれほど憂鬱だった歩行者信号の音も、帰路では気にならなかった。まるで網目の粗いベールがはぎとられたかのようだった。

 ただ、得られた解放感が思いの外地味であったことに、失望を感ぜずにはいられなかった。もっと世界が温かくなることを期待していた。体内に仕込まれた時限爆弾の重みだけが、いつまでも腹の辺りに残っている。何か別のものに変わってしまったのだろうかと思ったけれど、元々そんなものは存在しないのだった。

「ほらさ、実力だけじゃどうしようもない時ってあるじゃん。スターリング・モスって知っとる? 超有名なレーシングドライバーなんだけど、一回もグランプリで優勝できなかったんよ。無冠の帝王なんて言われちゃってさ。要はそういうことだよ。悔しいかもしれんけどさ、まあ、向井の頭の良さがあればどこでだって活躍できるよ」

 平手はさっきから同じペースで酒を飲んでいる。このままだと酔い潰れてしまうだろう。僕もつられて缶を開ける。

 採用試験お疲れ様会と称した二人だけの集まりは、毎年恒例となっていた。適当に酒を飲み、録画しておいたバラエティ番組を見たり、ゲームを何個かやったりする。それに飽きたら、高校時代の思い出や、日頃の愚痴などを話す。

 平手の素直な性格はありがたかった。哀れみや同情はいらないし、度の過ぎた賞賛は気持ち悪い。段々酔いが回ってきて、何故自分が何杯も酒を飲んでいるのか、分からなくなった。これでいい、と思った。

 周りはすっかり濃い靄に包まれ、足元すらおぼつかない。確かなのは、これからどれだけ先に進んでも、今まで目指してきた場所にはたどり着けないということだった。

「入段したの誰なん」

「ああ、確か、白瀬って子」

「マジで、日高くん駄目だったかあ。Twitterでイキってたのに」

 平手はそう言うと、グラスに酒を注いだ。

 日高のツイートが過激であることは、仲間内でも話題になっていた。

 彼は囲碁界の仕組みを憂えていた。「アマチュアに負けるプロがいるのはおかしい」という呟きは、界隈の内外で炎上した。プロの中には、目上の人に対する礼儀がなっていないと、表立って彼を批判する人もいた。

 平手はずっと喋っている。弱いやつは駄目なんだ、報われない努力は努力じゃない、SNSばかりやっているから日高は強くなれない。それが間接的に僕に刺さっていることには、気付かないまま、延々と喋る。腹の辺りが急に重くなった。これから何度、悪意のない悪意に晒されるのだろう。

 異変を勘付かれないように、あくびをしながら、床に寝転んだ。フローリングが冷たく、気持ちよかった。

 天井近くに貼られたポスターを見ると、通常より長いスキーボードを持った金髪の選手が、満面の笑みでガッツポーズをしていた。ゲルナーとか、ゲオルクとかいう名前だった気がする。平手が囲碁のルールを全く知らないのと同じように、僕はこの選手が世界でどれくらいの位置なのか、また、どういう競技に取り組んでいるのか、知らなかった。雪が滅多に降ることのないこの街では、僕みたいな人間の方が多いと思う。

 平手は笑っている。多分僕の格好が、情けないからだ。起こそうとしているのだろうか、彼は日高のアカウントを出して、特に過激なツイートを読み上げた。ほとんど聞き取れなかった。

 プロ志望のうち何人が、彼を批判できるだろうか。院生になりたての頃は、皆自分のことを天才だと思っている。と言うより、そう思い込んでいなければ、何年も囲碁漬けの生活を続けることなどできない。院生研修、感想戦、師範の指導、検討、復習、詰碁、定石研究、オンライン対局、指導碁、その繰り返し。研修が終わった後、プロの運営する道場に通う人もいる。

 院生の唯一の目的は、プロになることだ。棋力のみに特化した精鋭が、研修に集う。当然、下位のプロより実力のある院生は、一定数存在する。そういう人たちにとって、いつまでも試験で足止めを食らうことは、歯がゆいことこの上ないだろう。

「うわー、向井聞いてよ、ゲルンハルト、ワールドカップで総合二位だ。すげえ」

 平手はそう言うと、スマホの画面をこちらに向けた。ポスターの選手がゴールする瞬間を、カメラが捉えていた。

「おめでと」

「怪我してたのに、やっぱりゲルンハルトはすごいよ」

 彼はしばらく騒いでいたが、僕の顔を見ると、気が付いたように喋るのを辞めた。僕は努めて明るい声で「おつまみ買ってきてもいい?」と言った。平手は頷くと、耳にイヤホンを差し込んだ。

 パーカーを着て外に出た。指に鋭い冷気が当たった。数時間前には碁石を触っていた手だ。親指の痛みはまだ残っている。

 アパートの外は暗く静まっていた。それだけで僕は安心できた。このまま誰の記憶にも残らないように、ひっそりと旅行に行きたいと思った。皆が自分のことを忘れてしまうくらい長く。できるだけ遠く、海を隔てたところがいい。実際には、そんなことは不可能だと知っていた。旅行に出かけても、身内から完全に逃れることはできない。それでも、普段と異なる空気を吸う想像は、悪酔いした身体を冷ましてくれた。

親にも、先生にも、まだ結果を伝えていない。今日帰ったら、伝えなければ。先生には、今まで受けた恩を考えると、直接会いに行って、挨拶をするべきだろう。本当に試験に落ちたのだな、という実感が、脈打つような悲しみを伴って、両方の目から湧き出した。

 どうしよう、どうしよう。

 どこで諦めるべきだったのか。そう問われると、色々な岐路が思い浮かぶ。窪田に初めて負けた時、窪田に先を越された時、院生を卒業した時。歩んできた靄の中をさかのぼっていくと、一気に視界が開けた。負け知らずのアマチュア時代。優勝の最年少記録も、華やかな連勝街道も、今となっては惨めな思い出にすぎなかった。

 プロを目指したのがそもそもの間違いだった。このような明確な解に帰着すると、家族に対しての申し訳なさが募った。今の僕は、時代遅れのゲームが少し得意なだけの、ニート予備軍だった。

 一方で、自分のような存在こそ、世の中には不可欠だと思った。挫折者がいなければ、成功者は評価されないのだから。矛盾した感情は、いつまでも混ざり合わず、心をかき乱した。

 今年は休学までして、頑張った。頑張りだけではどうにもならない世界だと知ってはいたけれど、情けなかった。ただ前を向いて、走っていれば良い時間は、終わってしまった。

 細かいみぞれが黒い生地に留まっては消え、斑点を残した。白い塊が溶ける様を、しばらく眺めていた。厚く積もった雪景色より、ずっと美しかった。斑点が染みになり、染みが所々融合して、まだら模様になった。

 みぞれは見る見るうちに勢いを増した。パーカーのフードを被る。辺りには誰もおらず、一度だけ、スピード違反の車が通り過ぎた。タイヤの軋む音だけが、生きていた。

 ぼんやりと白む街灯に沿ってしばらく歩くと、大通りに出た。目につくだけでも数軒コンビニがあった。それぞれ別の会社だけれど、安っぽいイルミネーションのせいで、同じものに見えた。

 一番遠いコンビニを目指して歩く。昔からの癖だった。店内はそこそこ賑わっていて、さっき歩いてきた道との落差に、何故か寂しさを感じた。スナック菓子とカルパス、それからビニール傘を買った。

 外に出ると、再び冷気に包まれた。傘置き場には似たように汚れたビニール傘が二、三本ささっていた。黄ばんで、不快な臭いがしたが、まだ使えなくはなさそうだった。さっきまで陳列されていた、真新しい傘と見比べて、ふと、かわいそうだと思った。役割をもって生まれたのに、結局満足に使われることなく、傘置き場で朽ちていく傘は、哀れだった。

 みぞれは風に舞って、鋭い角度で吹き込んでくる。

 吹いてくる風にまかせて、傘を傾けた。体重が少し軽くなった気がした。初雪かもしれないと思ったけれど、元来た小道に入る頃には、すっかり雨に変わってしまった。僕はまた憂鬱になった。


 会館の近くには中規模の書店があった。

 教科書や学習参考書の品揃えが多く、愛知県を中心にいくつか支店を構えている。特に一階の児童スペースは有名だった。一部屋全てが子供向けの本で埋め尽くされていた。大会や院生研修の帰り、書店に寄っては、積み木型の椅子に座り込んで、好きな本を読んだ記憶がある。

 かつての印象とは若干異なっていた。店内の雰囲気が、全体的に洗練されたように感じる。周りの客も、同年代か、少し年上の人が多い。

 二階に上がると、一面参考書で覆われたエリアが目に入った。そこだけ静まり返っていた。受験生は今頃、塾にこもって勉強しているのだろう。

 目を細めて棚を眺めると、参考書の色彩は急速に失われた。プロ試験を受けていた頃に戻れたような気がした。あの時見ていた景色は、確かにこのように色あせていた。

 一番上の段には、単語帳が隙間なく詰められている。突然それらが、自分の本棚と重なった。丁寧に並べられた、手筋集や打碁解説、詰碁本が、気が付けば目の前にあった。呼吸が浅くなり、目がくらんだ。なるべく早く、この棚から離れなければいけないと思った。

 今度は理学書の棚へ向かった。今日ここに来た本来の目的を、果たさなければならない。

 新品の教科書から、分厚く古びた事典のような本まで、数学に関する書物が、整然と並んでいた。それらは僕が本来学ぶべきものであり、来年からは、否応なく学ばされるものであった。

 数学と囲碁は相性が良く、共通点も多い。定理や公式は、定石と対応する。突き詰めても終わりはないが、才能と努力の量によっては、限りなく核心に近付くことができる。そして、その域に迫るほど、明確な解はぼやけて見えにくくなる。

 修めたい学問を選択するよう迫られた時、僕が迷いなく数学を選んだのは、多分囲碁によく似ていたからだと思う。

 理学部教育要項の参考図書欄と、本棚に並ぶ題名を、照らし合わせながら歩いた。必要な本をチェックし終えると、何だか穏やかな気分になった。適当に一冊取り出して、ページを開いた。谷山・志村予想が紹介されていた。

 どれくらいその場にとどまっていたかは分からないけれど、ページをめくるにつれて、僕を苦しめてきた試験の日々が、少しずつ遠ざかっていく気がした。皮肉なことに、保険で籍を置いた大学での学問が、初めて僕の抉れた心を、温かくさすってくれたのだった。

「おい、向井」

 振り返ると、頭一つ背の低い影があった。窪田が息を弾ませて立っている、そう理解するまで数秒かかった。サイズの小さいスーツは突っ張っていて、何かきっかけがあればすぐ破れてしまいそうだ。彼が理学書のコーナーにいること自体、かなり異様な光景だった。

「さっき聞いたんだ、向井が会館に来たって。会えてよかった、ほんとによかった」

 窪田はそれから、先生はもう戻っている、もう一度挨拶に行けば、と言った。

 重い腰を上げて東片端まで来たのだから、彼の主張に従うべきだった。だが、今の僕にはもう、来た道を引き返す気力は残っていなかった。腫れ物扱いされるより、老害となじられる方が、まだ気楽だった。

「ここ、懐かしいよな。一階でよく会ったの覚えとる? 大会で先負けて、俺がブチ切れて帰ろうとして、でもあんまり早く帰るとド叱られるからさ、ここで時間潰しとったじゃん。そしたらトロフィー貰った向井が来てさ、超気まずかったわ、あの時。マジ最悪だった」

 彼は本をのぞき込んだ。

「うーわ、何これ、難しそう。こんなん買うん?」

「別に。授業で使うかもしれないから」

「ふーん。俺囲碁以外分からんからなあ」

 これが彼の口癖だった。自分が興味のないことは、徹底的に切り捨てる。高校に上がらず、ほとんど本も読まない。

 まだ窪田が院生だった頃のことを思い出した。中学受験の模試のために院生研修を休んだ日、彼は電話をかけてきた。声は怒りで震えていた。

――算数なんか習うから向井の碁は面白くないんだ。

 布石の感覚の弱さを表すのに、その言葉はぴったりだったのだろう。それからというもの、彼は事あるごとに、僕が勉強するのを非難した。今日だって、大学に復帰することを、軽蔑しているに違いない。普段より口調が柔らかいのは、多分、窪田なりの気遣いではないだろうか。腹が立った。

「ともかくさ、インストラクターの枠空いてるから、来なよ。向井に教えてほしいっていう人、たくさんいると思うから。俺も一緒に仕事してえし」

「僕、囲碁続けるつもりないんだよね。今のところ」

 あんな時代遅れのオワコン業界とは縁切るから、とは言えなかった。

 窪田は何か言おうとしたのか、口を少し動かしたが、冷たい口調に怯えたのだろう、黙り込んで下を向いた。もはや僕と彼は、別の世界で生きていた。その歩む道が交わることはついぞないように思われた。棋界で輝く窪田新人王に、ライバル視された時期があったということも、今となっては信じ難かった。

 また気が向いたら会館に来い、と言い残して、彼はいなくなった。僕は一人棚へ取り残された。読んでいた本が、急に重く感じられた。手が震えていることに気付かないふりをして、慎重に元の場所へ戻した。

 あの場で、何か別のことを言うべきだったかもしれない。窪田が去ってしばらくしてから、そう思った。言語化を躊躇っていた鬱憤を、晴らすことができたら、どれだけすっきりしただろう。だが、そんなことをする勇気はなかった。僕のいる所はあまりにも不安定で、まかり間違えば、一生正しいところへ戻れないかもしれなかった。今できることといえば、卑屈に笑うことくらいだった。


 碁盤と碁石はどの段ボールにも入らなかった。特に碁盤の足が邪魔だった。切り落とせば何とかなるかもしれないが、そのためにわざわざのこぎりを買う手間が惜しかった。

 部屋のどこに置いても、碁盤は馴染まなかった。着古したTシャツを、テーブルクロスの要領で、何枚か重ねて、隅に置いた。ようやく普通の台のように見えた。

 足付き碁盤といっても、値段は様々に異なる。僕の持っているものは、下の上程度の見切れ品だった。初めて全国大会で優勝した時、ごほうびとして買ってもらった。

碁石の方が高級品だった。アマチュアだった頃、抽選会で当てた。ハマグリ製の白石にうっすら浮かぶ筋は、流れた年月を如実に表していた。

 早く捨てた方が未練もなくなる。だが、何となく、自分の人生全てを否定されるのが、怖かった。

 韓国の採用試験で、不正が行われたらしい。ネットニュースで少しだけ話題になっていた。その気持ちはよく分かる。プロにならなければ、価値を認めてもらえないのだから。

 数年前、人類がAIに敗北したゲームとしてスポットが当たった。今度は、AIに頼ろうとしたプロ志望が、ニュースに取り上げられた。そういうきっかけがなければ、注目されない世界なのだ。

 もっとも、中韓と日本では多少状況が異なる。漫画によるブームは過去のものとなり、各地の教室や碁会所は潰れていく。プロですら、レッスンで稼ぐ人が大部分を占める。このような、狭く厳しい世界の中で、僕そのものの価値は何円くらいなのだろう。

 計算結果から目をそらすように、今度は棚いっぱいに詰まった詰碁の本や定石研究、観戦記、棋譜をまとめたノートなどを、段ボールに入れた。空いた本棚には、教科書と、大人買いした文庫本を並べた。

 ポケットに振動を感じる。平手からの電話だった。

「アルバイトする気ない? 子供のお守り」

「内容による」

「うちのいとこ、今俺らの母校通っとるいとこのことなんだけど、向井のこと話したら、自分もやるって言って聞かねえの。おばさんもそういうこと熱心だから。元院に教えてもらえる機会なんて、そうそうないわよ、みたいな。好きな金額払うで、週一で教えてやってほしい」

 真面目な口調からして、冗談ではないようだった。

 プロになれなかった院生経験者のことを「元院」と呼ぶことがある。レベルの違いはあるけれど、一般のアマチュアに比べると、非常に棋力が高いことから、しばしば尊敬の対象として扱われる。

 元院のその後は多岐に渡る。院生での経験や囲碁のセンスを、別の業界で生かす人がいる一方で、インストラクターとして囲碁に関わり続ける人もいる。彼らの一部はアマチュアの大会で好成績を残している。完全に囲碁を辞めてしまう人も存在する。

 インストラクターをする気は毛頭なかった。教える才能がないというよりは、負け組として業界に寄生するのが、どうにも格好悪いと思ったからだった。僕は断る旨を伝えた。

「また気向いたらいつでも言って」

 平手は切り際そう言った。

 書店で買ったポストイットを一枚ずつ段ボールに貼った。思いつくまま、マッキーで「クソゲー」と書いた。すると、今までこんなものに真面目に取り組んできた自分が、たまらなく愚かに思えてきた。

 平手に寄付したら、上手く処理してくれるかもしれない。彼はオークションアプリで一財産稼いでいた。

 

 片付けが終わってから、選挙に行った。投票会場は通っていた小学校だった。年配の大人を中心に、プール脇の即席通路を渡っていく様子が、少し滑稽だった。

 特別教室の並ぶ廊下を抜ければ、体育館があった。ここは特に思い出深かった。

 全校集会で表彰が行われる日、対象生徒だけが先に集められることになっていた。僕たちは、理科準備室の前に整列させられた。市大会で優勝した部活のキャプテン、課外活動がメディアに取り上げられた美化委員会、校内かるた大会の優勝者。各々が自分の賞状を抱えている姿が、鮮やかに蘇った。

 たいていの児童の賞状は、サイズが小さかった。文字も全て印刷されたものだった。その中で、自分の背丈に近いトロフィーを抱えている時の、高揚感といったら! 賞状の紙は厚く立派で、美しい筆文字が大会の結果を記していた。それらは特別に、応接室に飾られた。あの時の、誇りに溢れた足取りを思い出した。

 列が前に進み、現実に引き戻された。気疲れがひどい。成人してから初めての選挙だった。周りに同年代の人はいない。それもまた不安だった。

 院生を卒業してから、選挙という制度に距離を置いていた。政治経済の授業で、若者の投票離れについて学んだけれど、世間一般の理由と、僕が選挙に行きたくない理由とは、少し違った。僕は、年齢制限が近づいていることを、実感するのが怖かった。

 囲碁のプロになるまで、二度の年齢制限が設けられている。

 まず、十七歳までにプロ入りできなければ、強制的に院生を卒業させられる。

 アマチュアとして試験に挑戦することも可能だが、厳しい予選を突破しなければならないし、院生に比べて試験内での序列が低い。同率の場合、この序列に従って最終順位がつけられるため、入段の可能性は小さくなる。二度目の年齢制限である二十二歳を超えると、受験資格を喪失する。

 そのため、普通の人なら嬉しいはずの誕生日でさえ、陰鬱な気持ちで迎えることが多かった。

 今は、焦りこそなかったけれど、生きているという感覚も希薄だった。どうでもいいから、早く選挙を終わらせて、家で寝ていたかった。

 体育館に入り、受付の学生に名前を告げた。彼女は一瞬静止して、僕の後ろを見た。行列はちょうど途切れていた。

「向井くんだよねえ? 私んこと覚えとる? ほら同じクラスだったじゃん」

 下世話な名古屋弁には聞き覚えがあった。僕は確かに彼女を知っていた。見た目が垢抜けていたから、間近に来るまで気付かなかった。

 彼女はいわゆる番長タイプで、六年生の時、クラスを仕切っていた。

 ある程度自由に過ごせた中高時代と異なり、小学校そのものに良い思い出はなかった。特に最後の数年は、中学受験と院生の掛け持ちで精一杯だった。この地域で塾に通っている小学生はほとんどいなかったし、担任の先生は、院生という言葉を知らなかった。「将棋でいう奨励会のようなものです」と親が説明するのを、黙って見ていた覚えがある。

 林間学校や修学旅行などは、特に支障がなかった。むしろ、行事を休むということに、ある種の優越感を覚えていた。他の同級生が、ファイヤートーチやナイトハイク、分散学習に取り組んでいるはずの時間に、自分は棋譜並べをしている。そう思うと、普段の何倍も捗った。

 だが、合唱コンクールの期間は、憂鬱で仕方がなかった。コンクールは晩秋の主要行事だった。各学級が好きな曲を選び、完成度を競う。一位を取ったところで、賞品はないし、調査書にも記載されない。使いまわしのくすんだトロフィーが、年度末までの半年間、教室に置かれるだけだった。だが、周りの同級生は、熱を入れてコンクールの練習をした。僕にはどうしても理解できなかった。率先して自主練を促すパートリーダーも、必ず途中で間違える伴奏者も、将来合唱に携わる可能性はゼロに等しいのに、どうしてここまで拘るのだろう、と思っていた。

「練習早引けすんのやめやぁ、みんなに迷惑かけとんの、分かれよ」

 コンクールが迫った昼放課、図書館で玄玄碁経を読もうと、後ろ扉から出た時に、彼女は鋭くそう言った。

 あの時期は、誰もが、何かしらのはけ口を探していたのかもしれない。特に彼女は指揮者だった。クラスを引き締めなければ、気が済まなかったのだと思う。

 院生はアマチュアの大会に出ることができない。だから、学年が上がるにつれて、僕の存在感は急速に薄れていた。「将来の夢はプロ棋士です」と文集に書いても、果たしてそれが何をする仕事なのか、完全に理解していた人は、ほとんどいなかったと思う。

 試験真っ只中の十一月。

 序列一位で臨む試験は初めてだった。一番不安だった窪田との対決を制し、初めて入段が現実味を帯びた。コンクールに構っていられるほど、僕の心は幼くなかった。加えて、クラス全員の前で絡まれるのは、気分が良くなかった。大きく舌打ちをして、彼女の手を振り払った。誰も僕に話しかけなくなった。

 僕はその年の試験に落ちた。次点だった。プロになったのは、年上の院生で、最後の対局が終わってからも、席を立とうとしなかった。その人はずっと泣いていた。「もう駄目だと思っていた」と繰り返した。僕はすました顔をするしかなかった。

 小学校を卒業してから、実に十年が経つ。僕は人生の目標を失い、健気にアルバイトをする女子学生と、向かい合っている。

「同窓会こればよかったのに。皆向井くんのこと話しとったよ。プロ、もうなれたんでしょ? いつかタイトル獲るってゆうとったがん」

 静かに首を振った。彼女は首を傾げた。

「そっかー。でも、次あるんでしょ? 頑張りやぁ」

 後ろに人がつかえていたので、会話はそれで終わった。投票用紙に候補者の名前を書いている時も、校舎を出る時も、心臓の動悸が止まらなかった。

 何もかもが駄目に思えてきた。

 人間はもちろん、屋内に入った途端体を覆う不快な熱気、乗車したバスの人工音声、踏みしめるアスファルト、それら世界中に溢れるものがゆっくりと、自分に敵対していく感覚。僕が何かをするたびに、あるいは何もしていない時も、目の前に迫ってくる、透明な敵意と嘲笑。

 すみません、プロになれなくてすみません、だからもう気にしないでください。僕のことなんか忘れて、考えないようにしてください。心の中で土下座を繰り返す。そうすればするほど、世間のとげが頭に食い込んでいくような心持ちがする。

 途中棄権した長距離選手に拍手は送られない。完走こそが美学だからだ。燃え尽きた姿が、感動をそそるからだ。僕のような、中途半端な挫折者は、世間に好まれるはずがなかった。

 窪田のように、囲碁以外全て捨てることができたら。自分はプロになれたかもしれない。無理だったとしても、今のように、醜い後悔は残らなかっただろう。保険をかけるのは見苦しい。

 すみません、すみません。すみません、すみません。たくさんお金をかけてもらったのに。何度も指導碁を打ってもらったのに。

 小学校の通学路をひた歩いた。通りのコンビニは吸収合併され、新しいロゴマークが光っていた。店の前に子供がたむろして、お菓子を分け合っている。隣の公園では、中学生の集団が屋根付きのベンチに座り、話し込んでいる。かつて一番人気を誇り、始終ぐるぐる周っていた、地球儀のようなジャングルジムが目に入る。剥がれかかった塗装が目立つ。鉄の棒に「使用禁止」と印字されたラミネートが、括り付けてある。会館に向かう車の中で、何度も見た光景だった。

 喉がからからに乾いていた。おぼつかない足取りでコンビニに入る。何か話しかけられた気がした。同い年くらいの若者だった。

 ここ数年、同級生と鉢合わせるのが嫌で、わざと遠いコンビニを選んでいたことを思い出した。コンビニだけではない。スーパー、カラオケ、文房具屋……。一目でも彼らの幸せそうな姿を見たら、合唱コンクールでの選択は間違いだったと、それだけではなく、今までの葛藤が全て無駄だったのだと、認めることになってしまうから。

冷えた水を飲んだら、お腹が一層重くなった。今日は何も食べていない。

 

 インストラクターとして最初の仕事は、段ボールと足付き碁盤を平手の車に運び込むことだった。オークションへの出品代行と引き換えに、少年の指導を頼まれたのだ。

 週に一度、少年の部屋で手ほどきをするということで話がまとまった。平手が家までの送迎を担当することになった。一時間で三千五百円という値段は、他のバイトに比べても、かなり好条件だった。断り続ける勇気も、貫き通す意志の大義も、すでに失われてしまった。

「悪いねほんとに。おばさんがすっごい乗り気なもんで。最近、碁とか将棋とか、そういう知的な習い事が、流行り始めてるらしい。で、この本全部売っちゃっていいの? 教える時使わんの?」

「入門書だけ抜いといたから、大丈夫」

「了解」

 平手は付箋を見て「クソゲーは笑うわ」と言った。作業が終わり、車が動き出した。ガソリンの臭いが染み込んでいて、気分は良くなかったが、彼の運転が丁寧なおかげで、乗り物酔いはしなかった。

 自分もいつか、運転免許を取らなければならない。もたもたしている間に、平手は僕より二年早く、大学を卒業する。就職してからは、今のように頻繁には会えないだろう。

 だらしない部屋着姿を見慣れていたからか、平手がきちんとした服を着て、ハンドルを握っている姿が、どことなく奇妙に感じられた。

 少年の家は、八事の奥まったところにあった。イオンの見える交差点を左折すると、車は急勾配の坂を上り始めた。それから何度か蛇行が続いた。確かにこの道を歩くのは大変そうだった。

 アイボリーの洒落た外壁が見えると、車は徐々にスピードを落とした。家の大きさに気圧されたが、今更後には引けない。案内されるまま、中に入った。

 平手のいとこは想像と全然違った。いかにも賢そうな眼鏡っ子で、色素の薄い髪の毛は、幼い印象を与えた。中学二年生には見えなかった。

「黒田圭っていいます。プロ棋士くらい強いって本当ですか」

「いや、全然」

「どれくらいやれば向井さんくらい強くなれますか」

「まあ、十五年くらいかな」

 冗談のつもりだったけれど、少年の顔が強張った。これほど年下の人間と話すのは、久しぶりだった。距離感が掴みにくい。

「一応予習してきたんです。だから、簡単なことは分かります。黒から打ち始めるとか、多くエリアを囲んだ方が勝ちとか、打っちゃいけないところがあるとか」

 圭が得意げに知識を披露するのを、黙って聞いていた。どう教えたものか考えていたのだ。

 熱意とセンスがあれば、一年で初、二段まではもっていける。そのままの勢いで、県代表レベルまで登り詰める場合もある。もちろん、スランプが無ければの話だ。

 彼はおとなしく待っている。こちらの反応を伺っている。ふと、目の前の少年は、手痛い挫折を経験したことがないのだと思った。彼だけではない。周りにいる人を見て、脈絡もなく、そう思うことがあった。彼らは、何も分かっていない。自分がどれだけ幸せに暮らしているか、そして、その陰で泣いた人がどれだけいるか、自覚することなく、老いて、死んでゆくのだ。

 気に食わなかった。そういう人に限って、うわべだけ同情を示し、心の奥底では、自分はああならなくて良かったと、安堵する。

「向井さん、碁盤って、こんな重いんですね」

 圭の間延びした声が聞こえて、我に返った。僕は今日、彼に碁を教えに来たのだった。彼が準備をしている間に、置いてあった座布団を二つ、適当に並べた。

碁笥から石を数個取り出し、盤の上に置くと、しばらく距離を置いていたからだろうか、手触りが変に気持ち悪く感じられた。

「エリアを多く囲んだ方が勝ち、君の言う通り。黒白順番に打つこと以外、ほとんど制約はない。基本的にどこに置いてもいい。囲んだエリアの中にある交点の数が、それぞれの稼いだ『地』になる。一目、二目って感じ。実力が同じ人と対戦する時は、黒を持つ人の方が有利だから、白の人に六目半のハンデが与えられる。中途半端な数字にしたのは、勝ち負けをはっきりつけるため。ここまで大丈夫?」

 圭は頷いた。

「どこに置くかは自由だけど、打つ手の価値は場面によって全然違う。例えば黒の初手の価値は大体十三目。一番小さい手は、三分の一目しか価値がない。一手一手の重みを忘れず、ミスのないように最善手を積み重ねていけば、誰にでも勝てる。少なくとも僕はそう思う。何か質問ある?」

 圭は首を振った。黒石を一つつまんで、ざらついた表面を眺めている。その瞳は大きく見開かれていた。少なくとも、期待外れではなさそうだ。

「向井さんなら最初はどこに打ちますか?」

「そうだなあ」

 碁盤上を片付けて、黒石を一つ手に取った。

 最善の初手はプロ棋士の間でも結論が出ていない。碁盤の一番端を一線といい、一本隔てるごとに二線、三線と数える。三線か四線上に打てば、まずまずの勝負になると言われている。主流は各辺の四線の交点である「星」、もしくはそこから一つずれた「小目」だった。

 たとえ初手論争に決着がついたとしても、全員がそこに打つようになったら、囲碁というゲームの面白さは半減してしまうだろう。初手について考えていると、碁に対する情熱が完全に消えてしまった訳ではないことに気付いた。我ながら、驚かされた。

 僕は星に置いた。圭はずっと、盤面を睨んでいた。文句を言われるのかと思ったら「いい音ですね」と褒められた。


 週に一度のペースにしては、上達が早かった。圭はセンスが良かった。囲碁特有の概念を、順調に理解した。ルールがシンプルなだけに、感覚をつかむまで、つまり楽しむ余裕が出てくるまで、時間がかかる。特に厄介なのが、終局のタイミングと、石の生死の概念だ。彼はその時期をきちんと乗り切った。年が明ける頃には二桁級を脱することができるのではないか。そう思われた。

 囲碁を教えている時は、外出時に苦しめられる腹痛も、倦怠感も、だいぶ弱くなった。圭は、柔らかい原石のような存在だった。磨くことに集中していると、雑念が心の中から消える。僕と彼はたった二人、碁盤を介して会話を続けた。

 帰り道、平手は不安げに口を開いた。

「いやさ、最近ちょっと熱入りすぎじゃね? こうひたむきだと、ポッキリ折れちゃうんじゃないかって、ちょっと不安なわけよ」

「集中できる趣味ができたのは、良いことだろ」

「もちろんそうだけど」

平手はため息をついて続けた。

「不憫だよなあ。やっぱり今から始めても、向井には到底及ばないんだから」

 何と返事をすればよいか、分からなかった。

 僕が圭の立場だったら、確かに二の足を踏むだろう。ただそれは、十五年取り組んでも、一つのことを極められなかった自分が、今から何かを始めたところで、上に登り詰めることはできないという、諦めの感情から来るものであった。

 この頃から僕は、囲碁に魅せられた小さな少年を、自分の作品として観察するようになった。時には現実から逃げるように、彼と何度も早碁を打って、悪手を指摘した。適度に褒め、改善すべき部分は根気よく教えた。圭は概ね期待に応えてくれた。育成ゲームにのめり込む人の気持ちが、よく分かった。

 新学期は着々と近づいていた。そのことについては、なるべく考えないようにしていた。プロになれなかったら、四月から復学する。それは決定事項であり、今更どうしようもなかった。

 学期が始まるまでは好きに過ごせばいい。親にはそう言われていたし、旅行でもしたらどうかとすすめられたこともある。だが、荷造りをしようと一念発起しても、旅行にかかる費用と手間を考えると、腹痛に悩まされた。かといって、何の目的もなく漫然と日々を過ごすことは、恐ろしかった。

 黒田圭を強くすること。自分と同等とはいかないまでも、プロを視野に入れた強者と、張り合えるくらい強くすること。これを当面の目標に設定した。

 もちろん、最終目的は、作品を完成させることではなかった。二月末に開催される、中学生限定の県大会。彼はそこで必ず敗北する。絶望的な、力量の差を悟る。

 愛知県のレベルは高い。東京や大阪に比べたら格は落ちるかもしれないが、長年に渡り粒ぞろいのアマチュアを全国大会に送り込んでいる。中には、院生と張り合える中学生のアマチュアもいる。

 宝石は叩き割る瞬間に一番輝く。元が綺麗ならなおさら。バンクシーの絵がシュレッダーにかけられた時、興奮を覚えたのは、きっと僕だけではないと思う。


 一月初旬のある日、僕と圭は碁盤ではなく、ノートパソコンをのぞき込んでいた。画面の右上にはハンドルネームと国旗、棋力が羅列されている。

「この『toraemon』っていうユーザーが、僕」

「変な名前ですね」

 圭はそう言うと、少し笑った。

「このボタンを押せば、適当に同じ棋力の人と対戦できる。観戦したい時は、左側のルーム一覧をクリックすればいい。無料会員だと、色々機能が制限されるけど、とりあえず打つ分には困らないと思う」

 画面を閉じようとした時、ウィンドウがポップアップして、「対局申込が入りました」という女性の声が響いた。久しぶりに聞く声だった。

「向井さん、打ってみてくださいよ。いつも僕ばっかじゃつまらないでしょう」

 ウィンドウに表示されたバーが、みるみる短くなっていく。一定時間経過すると、このウィンドウは消えるようになっている。

 一局くらいなら、いいだろう。

 誰かが耳元で、そう囁いた気がした。大会に出る訳ではない。匿名のオンライン対局だ。それに、数か月前までは、毎日のようにここで打っていたのだ。僕は『許可』のボタンを押す。対局条件を設定すると、見慣れた碁盤が表示された。

 相手はアマチュアの九段だった。

 オンラインの段位制度は、対局サイトにもよるが、現実世界と少し異なる。このサイトでは、決められた勝敗成績によって、昇段・降段が決まる。最高段位が九段だった。同じ段とはいっても、勝率九割以上を保つトッププロから、八段と行ったり来たりしているアマチュアまで、かなりレベルの振れ幅がある。

 僕がタッチパッドで対局を進めるのを、圭は黙って眺めていた。邪魔になるといけないと思ったのだろう。

 観戦者が続々と入ってくる。序盤は互角だったが、相手の無理な手が少しずつ目立つようになった。打ち込み過ぎの石を咎めると、猛烈に反発してくる。早打ちに乗せられないよう気を付けながら、冷静に対処した。

 相手の劣勢は明らかだった。投了の意思表示の後に、軽快な音楽が流れた。

「九段に勝ったんですか?」

 僕が頷くと、圭は目を丸くした。九段のレベルの違いについて説明しようと思ったが、面倒くさいのでやめておいた。この対局で、圭がやる気を高めてくれれば、十分だった。

 久しぶりの対局にしては、満足のいく内容だったが、対面対局ほどの張り合いはなかった。

 プロ試験の時のような、心臓に悪いプレッシャーを経験することは、二度とない。そう思うと、少し悲しかった。完全に囲碁を辞めてしまう元院の気持ちが、分かったような気がした。遅かれ早かれ、僕はそちら側へ行くだろうと思った。


「向井さんほど強くても、プロになれないって、本当に厳しい世界なんですねえ」

 彼がそう言ったのは、確か棋譜を並べているときだった。窪田が初めてタイトルを獲ったトーナメント戦、窪田二段が窪田新人王になった日の対局だ。

 言われ慣れたその言葉に悪意は全くなかったから、どう答えればよいものか、少し悩んだ。

「誰かに何か吹き込まれたのか」

「お母さんが言ってました。プロ試験の結果が載ったサイト。時代が時代だったら、プロとしてバリバリ活躍してたんじゃないかって」

 彼の母親は、恐らく、公式ホームページを見たのだろう。そこには、年度ごとにプロ試験の記録表が保存されていた。僕の名前を検索して、そのページにたどり着いた。大体そんなところだろう。

 あの白丸と黒丸の羅列で、対局室の地獄に近い雰囲気を感じ取れるとでもいうのだろうか。たった十局のリーグ戦で、一度の負けが命取りの対局で、人生が左右される、そういう喜びと悲しみを、あのページ一つで理解できるだろうか。

「どうでもいいこと考えてないで、棋譜並べに集中した方がいい。大会も近いから」

 できるだけ感情を込めずに言った。その日は結局、練習碁を打たなかった。やみくもに対局するだけでは、棋力の向上は望めないからだ。不服そうに石を並べる手つきは、かなり様になっていた。

 しかし、昔の自分と比べると、物足りなく感じた。

 僕は最近、先生の教室に通っていた頃の記憶を、思い出すようにしていた。先生の事情で教室がなくなるまで、僕と窪田はほとんど毎日そこに通っていた。

 街のはずれにある公民館の一室で、リーグ戦を行い、対局のない時は、詰碁のプリントを解いた。薄い藁半紙には、全部で十題の詰碁が印刷されていた。プリントには番号が振られている。十題全て正解しないと、次へ進めないようになっていた。番号の大きさを常に窪田と競っていた気がする。全部で何枚あるかは、結局分からずじまいだった。

 段持ちは五人ほどいたけれど、僕たちは飛びぬけて年齢が低く、必然的に打つ回数も多かった。負ければ猛烈に悔しい。勝てば先生に褒めてもらえる。そういう単純な欲求の充足が、互いの棋力向上に寄与したのかもしれない。

 始めた年齢が、遅すぎたのだろうか。それとも、ライバルのいない環境が、まずいのだろうか。どちらも、僕に解決できるものではなかった。

 大会までには、段を取れるかもしれない。だが、まず高段者には勝てないだろう。僕はそれを想像すると、たまらなく悔しくなった。美しくない作品が、勝手に壊れたところで、何の感動もない。今となっては、より高いところへ導きたいという思いの方が、強くなっていた。


 帰りの電車に乗って、ブラウザを開いた。普段なら、漫然と動画を見るところだが、今日はそういう気分ではなかった。

 他の様々な界隈と違わず、プロ試験についての情報交換をする掲示板があった。予選が始まる季節になると、投稿数が増える。たいていは外野の戯言か荒らしで埋められるが、ごく稀に、試験の参加者が近況を投稿する。誰が負けた、誰がラストイヤーだ、といった風に。ご丁寧に、各人の入段する確率を計算したコメントもあった。

 掲示板のページを開く時、指が震えた。このサイトに良い思い出は一つもない。ここには悪意が、それも醜く、意図的な悪意が満ちている。広告を踏まないよう、気を付けながらタップした。

 かつてより更新頻度が低いように感じた。近頃のプロ志望は、個人的なSNSで、自ら情報を発信していた。掲示板の意義自体が薄れているのかもしれない。

「自力は日高だけか」

「向井敗確? 囲碁インストラクターで頑張って頂きたい」

「最終戦:日高〇…日高、日高×白瀬〇…白瀬、日高×白瀬×…向井」

「枠潰し老害、早く消えろ。カス」

「東海の話ばっかりだな。ラストイヤーが多いから?」

「向井が勝ち。日高くん、次回頑張れ」

「東海ってレベル低いんですね」

「窪田が若手トップって終わってる」

「奨励会の方が映画やドラマになるのは当たり前。囲碁の入段話はダメだわ、これじゃ人を惹きつけない」

「向井って劣化AIみたいな棋風だよね」

「メンタル雑魚すぎ。外来はいらない」

「女流採用の情報あく」

 最後のコメントは一昨日投稿されていた。

 自分に向けられた誹謗中傷は、予想より少なかった。ページを開くまでの緊張が、馬鹿みたいに思えた。

 東海地区への不満は、以前から、定期的に、この掲示板を賑わせていた。どのような主張であれ、結局は競技人口の違いに帰着するのだが、「彼ら」は執拗に、レベルの低さを指摘した。

 東海でプロ入りした奴はもう一度東京か関西で試験を受けてみろ、次点にすらなれないだろう。大体の批判が、こういう論調だった。

 「彼ら」こそ、こちらで受けてみればいい。実際、関西・東京の元院が、東海の予選を受けることは、決して珍しくない。もちろん、毎週末の新幹線代や宿泊費は、自分で負担しなければならない。加えて、東海で採用されれば、七年間は所属を変えることができない。相当な覚悟と、確実に合格できるという自信が、要求される。

 「彼ら」が元プロ志望なのか、それともただの囲碁愛好家なのかは分からない。だが、挑戦をせずに、外野から文句を垂れるのは、最も醜い行為であると思う。

 掲示板は全部で十個あった。僕は機械的に、ページ内検索で、自分の名前を入力した。そして、ヒットしたコメントを、一つ一つ丁寧に黙読した。古い掲示板に移動する度に、見覚えのある名前が増えた。あの人も、この人も、プロにはなれなかった。今どこで何をしているのか、知っている人は少なかった。他人の日記を盗み見ている時のような、背徳感があった。誰かの悪口を見た時は、背筋を他人に撫でられるような感触がした。僕は確かに安堵していた。自分だけではない。自分だけではないのだ。

 ある時期から、窪田の名前がよく見られるようになった。二〇一一年十一月、彼はプロになった。その前後には、彼に対する好意的なコメントが、多数投稿されていた。

――東海地方、希望の星が現れたな。

 何気なく目に留まったそのコメントが、頭から離れなかった。

 この年は、勝敗成績が八勝二敗と同率だった。規定により、院生順位の高い方が入段すると決められていた。そして、当時の院生一位は窪田だった。

 彼とは試験で二回戦い、どちらの対局も勝利した。僕が喫した二敗のうち、一局は半目差だった。もう一局は、大きな見損じがあった。勝って当然の対局を落としたのだから、入段できないのは、傍から見れば当たり前かもしれなかった。

 それでも、納得がいくまで、相当な時間を要した。どうして、窪田だったのだろう。どうして、僕ではなかったのだろう。院生研修は不調続きだったけれど、少なくとも試験の場では、自分は窪田に白星を重ねた。それでも入段できないのは、おかしいと思った。

 あの時から、八年もの歳月が流れていた。にも拘らず、号泣する窪田におめでとうと言った時の、憎々しく情けない気持ちは、風化することなく、腹の内でくすぶっていた。

 雑誌に掲載された彼の名前を、「向井」に変えて読んでみたこともあった。自分のしていることがどれだけ愚かしく、意味のないことであるかは、承知していた。だが、そうせずにはいられなかった。

 あの一局を、もう一度やり直すことができたら。こういった類の後悔は、きっと元院のほとんどが抱えているだろう。それにしても、と思うのだ。どうして窪田に勝っていた僕が、毎日こんなに苦しまなければならないのか。


 全国中学校囲碁選手権愛知県予選は、他のアマチュア大会と同じように、会館の八階大ホールで行われる。

 予選に出る選手は全部で七名。上位二名が、京都で行われる全国大会への出場権を得る。高校受験直前の時期ということもあり、予選の参加者は少なかった。同日に行われる級位者向けの大会には、各地域の中学の囲碁部員が多数参加しているらしく、たった二人で碁を打っていた圭にとっては、その賑やかさが少し気まずいようだった。

 トーナメントの振り分けは、トランプを用いたくじ引きで決定される。初戦の相手は、全く知らない中学一年生だった。

 圭にペットボトルを渡すと、彼は目を細めた。

「負けたらどうしよう」

 どういう言葉をかければよいのか分からなかった。僕が囲碁クラブに所属していたのははるか昔の話で、地方大会で負けるなんて、考えたことがなかった。今の圭よりずっと幼く、単純だった。先生は先生で、極めて口数の少ない人だった。大会のことで、叱られた記憶も、褒められた記憶も、ほとんどない。

「怒りゃしないから。大丈夫」

 僕はそっと囁いた。

 黒田圭さん、と招集がかかり、彼は別室へ向かった。初戦くらいは、何とか勝ち進んでほしいと思った。自分が育成に深く関わったのは、彼が初めてだった。

 始終、怯えていた。先生やプロ棋士と、なるべく顔を合わせたくなかった。何をしているのか、そう問われるのが怖かった。大勢いる保護者の間を縫って歩き、空いた席に腰を下ろす。皆上品な服に身を包んでいた。夫婦で来ている家庭もあった。自分の着古したシャツが、みすぼらしく思えてくる。見知った顔はおらず、人混みの中で、ようやく安心することができた。それは何か、満員電車の不快感の中で時折身に染みる、一人であることの自由さに似ていた。

 圭の母親は、今何をしているのだろう。隣の女性は、ヴィトンのバッグを机に置いて、唾を吐き出しながら、周りの人に喋りかけていた。こういう人でなければ良いな、と思う。

 考えてみれば、このバイトが始まってから、一度も会ったことがない。要求や給料のやり取りなどは、全て平手を通して行われていた。ただ甥の友人だというだけで、面接もせずに、自分の子供を任せるだろうか。

 安くない金を払って、息子に習い事をさせているのだから、初めて出る大会くらい、見に来ると思っていた。

 漫然とスマホを眺めながら、時間を潰した。喜んで顧問に結果を伝える声と、すすり泣く声が入り混じり、煩わしかった。自分の対局がない大会が、こんなにも退屈なものであるとは、知らなかった。

 向こうから、圭が駆けてくるのが見えた。顔を見なくても結果は分かった。

「勝てました。ヒヤヒヤしたけど。次の相手、同中の子なんです」

 彼はそう言うと、コンビニの袋をほどいて、おにぎりを食べだした。

 自分を見ていた瞳の、純真無垢であることが、これほど憎たらしいとは思わなかった。それは多分、彼が持っているような輝かしい未来が、自分にはないからだった。

 級位者の部は大方昼休みに入っていた。部活の顧問と思しき人が、中学生の集団を一か所に集めていた。指導に熱がこもっている。熱血吹奏楽部のドキュメンタリー番組を見せられている気分になった。

 奥の方には、母校の先生がいた。彼は、僕が入学した時からずっと、棋道部の顧問を務めていた。囲碁と将棋をまとめて「棋道」という名前が付いていたけれど、部員のほとんどは将棋しか指せなかった。今はどうなっているのか、全く見当がつかない。圭はさっき、同中の子と打つのだと言った。学ラン姿の中学生が多いせいで、誰が後輩なのかは分からなかった。顧問が付き添っているということは、多分数人出場しているのだろう。

 準決勝は午後に行われる。用意していた昼食を手早く終わらせ、圭と一緒に、トーナメント表を見に行った。

 相手の名前には見覚えがあった。彼の所属クラブは、長年愛知県の囲碁界を席巻してきた。指導陣にはプロ棋士はおろか、元院すらいない。だが、高段者の層の厚さには、目を見張るものがあった。

 その中でも彼はひときわ輝かしい戦績を残していた。全国大会で二度優勝している。小四の時と小六の時。もっとも、世代が違うので、直接打ったことはない。

厳しい戦いになるだろう。圭に伝えた方が良いだろうか。

 僕は首を振った。目的を見失ってはいけない。何のために時間をかけて黒田圭を強化したのか。打ち砕くためだ。自分が少し優秀なことを鼻にかけて、熱意さえあれば何でもできるとうそぶく奴らに、世の中の現実を見せつけるためだ。

 圭の母親は、どだい囲碁に興味などないのだろう。だから応援には来ない。この会場にいる母親の大半も、同じような連中だ。子供のためになると思って、適当な習い事をさせているだけ。

 頭に血が上って、冷静に考えられない。親指に爪を食い込ませた。いつもの痛みが戻ってきたけれど、怒りは収まらなかった。

 圭は完成には程遠かった。まず読みが粗い。局面にもよるが、三十手先まできっちり読むべきところを、十手で諦めてしまう。それが単なる実力不足ならまだ許せる。どうやら彼は、難しいところを感覚で打ってしまう癖があるようだった。

 終盤も弱い。一目の損得を地道に計算するのが苦手だ。向き不向きはともかく、満足のいくレベルには達していない。一目の重みをまだ知らないのだ。一目の見損じで、人生が変わるということを、まだ分かっていないのだ。

 それでも、序盤のセンスの良さや、戦いの強さには、空恐ろしさを覚える時があった。オンライン対局で培ったものだと思われる。最近の対局サーバーの隆盛は著しい。思い当たるだけで四、五個のサーバーがあり、国籍も棋力も様々に異なる碁打ちが、切磋琢磨している。

 圭の荒々しい棋風は、自分の理想とする堅実な打ち方とはかけ離れていた。そして今後ますます離れていくだろうと思った。それが良いことなのか悪いことなのか、断言するのは難しかった。

 また招集があった。圭は、今度は不安そうに、部屋へ入っていった。様子を見に行こうか、何度も迷った。立ち上がりかけては思いとどまり、まんじりともせず時を過ごした。あの張りつめた緊張感の中に入っていくのは、どうしても気が引けた。

 スマホでニュースを読んでいると、急に肩を叩かれた。

 振り返ると、見覚えのある青年が立っていた。日高だった。

「お久しぶりです」

 前見た時より、体調が良さそうだった。僕はそのことに少なからず安堵した。と同時に、気まずさを感じた。

「ここで会うとは思わなかったよ」

 口にしてから、言葉の違和感に気付いた。今日は院生研修のある日だし、ここにいるはずがないのは、間違いなく僕の方だった。

「ああ、そうですね。僕たまに見に来るんですよ、ジュニアの大会。院生研修ばっかりだと息が詰まるんで。向井さんと違って、僕はアマチュア歴の方が長いですから。こっちの方が落ち着きます」

 日高は、さっきまで圭が座っていた椅子に、腰を下ろした。しばらくいるつもりなのだろう。何故かは分からない。たまに試験で顔を合わせるくらいで、特に仲が良かったわけではない。

「打ちたいなら、碁盤持ってくるけど」

「ああ、違うんです」

 声の響きに、ただならぬものを感じた。

「今日って、誰かの付き添いだったりします?」

「そう。中学の後輩が、初めて大会に出るから」

 日高は少し首を傾げた。嘘をついた訳ではないが、この言い方だと、部活の面倒を見ているという風に誤解されかねない。僕は、やはりここにいるべきではないと思った。

「答えたくなかったら、いいんですけど。向井さんって、囲碁、続けるんですか?」

「迷ってる」

 言い終えてから、答えとして全く十分でないと気付いた。僕は、一言一言を吟味しながら、できるだけ自分の考えが相手に伝わるように努めた。

「試験が終わるまでは、これで駄目だったら辞めようと思ってた。大学を卒業しなきゃいけないし、色々犠牲にしてきたこともあるから。それに、元院が大会で幅利かせるの、顰蹙買いそうで嫌だから。でも、ここ最近、インストラクターもどきみたいなバイトもらって、何て言うんだろうな、結構楽しかったんだ。ネット碁も、この前久しぶりに打ったけど、きちんとした勝負になった。だから、迷ってる。もちろん、こんなクソゲー始めるんじゃなかったって後悔する時もあるし、同期が活躍してるのを見ると、死ぬほど悔しいけど」

 途切れ途切れの言葉を、日高は笑うでもなく、聞いてくれた。

「何か、棋風と大違いですね。もっと人生プランカッチリ立ててるかと思ってました」

 彼は下を向いた。この時になって、ようやく気付いた。日高は院生を辞めるのだ。どこか諦めたような口調。先の見えない、今後の生活に対しての不安。彼の姿が、かつての仲間と重なった。プロ試験の時の、何とも形容しがたいうめき声が、思い出された。

「お疲れ」

「いや、色々思うことはありますけど、この数年楽しかったですよ。都会に来れることなんて、そうそうないし。うーん、トータルでみれば、やっぱり辛いことの方が多かったですけど」

「地元どこだっけ」

「福井です。バス乗るのも最後かと思うと、何だか感慨深いなあ、なんて」

 日高の表情を、まともに見ることができなかった。彼の夢を絶ったのは、自分に他ならなかった。

「会うのも最後だと思うんで、この際言っちゃうんですけど、俺ずっと向井さんに憧れてたんですよ。負けた時は死ぬほどウザかったですけど。ネットで棋譜集めて並べてた時期もあるくらいで。すごい綺麗な碁を、シンプルで合理的で、抽象画みたいな碁を打つなって思ってました」

「何、それ。お世辞とか勘弁」

 自分の碁をけなされたことは、何度もあった。先生にも、窪田にも、他のプロにも、たいてい同じことを言われた。

 独創性がなく、つまらない布石だ。形の悪さを嫌うのは、ただ頑固なだけだ。人の批判を素直に受け入れないから、いつまでも試験を突破できない。

 日高の意外な賞賛は、だから、彼が思う以上に、僕に響いたのだと思う。

「別に言い訳じゃないんですけど、いや、やっぱり言い訳なんですけど、最終局で凡ミスやらかした時、引導を渡された気がしたんです。『もう十分頑張った』って。プロ試験を受けるくらい実力のある人って、打ち砕かれる瞬間がきっと何度もあるでしょう? 今までの自分が、全否定されるような感覚。格下に突き上げられて、格上には届かない、そういう地獄みたいな日々が、しばらく続くでしょう。多分、それを乗り越えられる人が、否定を受け止めてなお成長できるような人だけが、プロになれるんじゃないかなって。俺は無理でしたし、性に合わないと思ってしまって」

「ああ、それ、窪田も同じようなこと言ってた。向井は自分に自信持ちすぎなんだって」

「窪田さんも、何ていうか、向井さんのこと、めっちゃ評価してたんですよ。多分、恥ずかしがり屋だから、本人には言ってないだけで。僕が負けて、落ち込んでた時に、昔の向井を見てるみたいだって声かけられたんです。先に入段すべきだったのは、俺じゃなかった。そう言ってました」

 あれほど身近にいた窪田のことを、何も分かっていなかったのだと、気付かされた。彼は一度だって、そういう素振りを見せなかった。

「マジできつかったです、この数年。一回落ちるだけでも、耐えられないくらい惨めっすわ。二度と参加してやるかって思うんです。でも三日くらい経つと、俺はプロにならなきゃいけない、こんなところで終われないってまたしゃかりきに頑張って。それでも駄目。周りは頑張れ頑張れって言ってくるけど、自分的にはもう頑張れないくらい頑張ってるんですよね。家族に言えないですよ、今日もまた負けたって。みんな、地元のみんなは、日高はプロになるって信じて疑ってないわけですから」

 彼の体は少し震えている。

「SNSで大口叩いてたのも、自分に負けるのが嫌だったからです。すみません、ほんとに。色んな人に迷惑かけるの疲れたんです。同級生の人生と、自分の進む方向が、どんどん離れていくのが怖かった。名古屋駅の出口から見える、あの細いウンコみたいなオブジェ、あるじゃないですか。あれってまさにプロの世界だと思うんですよ。ピラミッドよりもきつくて、綺麗で。ボトムの方でいいから、あの世界に入ってみたかったなあ! なんて今言っても遅いんですけど。でも何でだろう、院生にならなきゃよかったとは全然思えないんですよね。言い訳だって思われるかもしれないけど。マジで罪作りなクソゲーですね」

「これからはどうするの? 大会にはもう参加しないの?」

「いいえ。とりあえず、家族へ恩返しするために、しばらくは続けようと思います。囲碁。高校選手権も頑張りたいし、運が良ければ、団体戦組めるかもしれません。地元のクラブで、結構頑張ってる子がいるから。僕は僕が居心地の良い世界で、のびのび碁を打とうと思ってます。そんな日が来るかどうか分からないけれど、もしまた打つ機会があったら、よろしくお願いします」

 日高は立ち上がって、一礼した。自分より大分背が小さい。そういえば、彼はまだ十五歳だった。

 ここで別れたら、彼とは二度と会えない気がした。直感的にそう思った。たとえどちらも碁を続けて、再会したとしても、その時の日高は、今の彼と、完璧な別人であるように予想された。そして、僕もまた、今とは変わっているだろう。

 喋るべきことは、まだいくらでもあった。できることなら、最終日の対局の感想戦をしたかった。それが無理でも、圭のことを話したり、今の院生事情を聞いてみたり、話題には事欠かないはずだった。僕はエレベーターが到着するまで、日高が戻ってきてくれることを期待した。

 だが、彼は振り返らなかった。

 圭は今、次へ繋がる一局を打っている。一方で、日高はこの街から、厳しい世界から去っていく。

 報われない努力は努力でないと言った人がいる。プロフィール欄に、ステータスメッセージの空白に、その残酷な言葉を載せる人がいる。全く間違っていると思う。もしそれが真実だったら、日高の存在自体を否定することになるから。


 先に部屋から出てきたのは、対戦相手の方だった。ここまでは予想の範囲内。今の圭が勝てる確率は、残念だが、ゼロに近い。しかし、戻ってきた圭の顔に悔しさは感じられなかった。

「知らない定石打たれちゃいました。全然駄目で」

「それは、仕方ないな」

「でも、ちょっと感動したなあ」

 圭は少し首を傾げた。

「今打った子、確かに強かったです。本当に勝ち目はなかったんですけど、やっぱり、向井さんの方が実力ありますね。何ていうか、対局の時ってどちらも勝とうとするわけじゃないですか。特にこういう大事な大会では。お互いがお互いの戦略を読み合って、相手の好きにはさせるまいと、臨機応変に対応する。それを繰り返して、結局はミスの少ない方が勝つわけでしょ? 準決勝で僕はコテンパンにやられちゃいました。それでも、相手がひるんだ瞬間を感じたんです。向井さんと打つときには、そういう隙が全くありませんでした」

 さっきの中学生軍団が引き上げていく様子が目に入った。きっと遠方から参加しているのだ。圭は目を輝かせて、僕が何か返すのを待っている。早く返事をしなければ。焦るけれど、言葉が出てこない。体が急に重くなる。

 強い人が強いと気付く瞬間は、僕にもあった。確か、院生に上がる直前、先生と打った時のことだった。圭はもう、精神的には、その域に肉薄していた。相手の強さを感じられる程度には、強くなっていた。

 もちろん、日高と圭を打たせたら、五子置かせても勝負になるか微妙だろう。だが、僕は目の前にいる子どもの可能性、底知れないモチベーションに伴ってきた棋力が、たまらなく恐ろしく思えた。それは、僕や日高のようなタイプが、決して持ち合わせないものだった。

 大会は、圭の負けた相手が優勝して、幕を閉じた。簡単な表彰式と、写真撮影が行われた。その後、残っていた参加者全員に、参加賞が配られた。

「大会の結果に満足した人、悔しい人、本当に色々な人がいると思います。そういう経験一つ一つが、いつか必ず皆さんの糧になりますのでね、今後も頑張ってください。またいつかこの面々と顔を合わせる日が来ることを願ってやみません」

 主催者のスピーチが終わると、ホールに拍手の音が響いた。

 僕は十年ほど前のお笑い番組を思い出した。今の挨拶が、あるコンビのつかみにそっくりだった。テンポが良く、面白い漫才だったから、印象に残っていた。「これも一つの出会いですから、十年後になるか二十年後になるか分かりませんけれども、またこのメンバーで集まれると良いですね」とボケが微笑む。ツッコミが「それは無理かな」と言い放つ。観衆は笑う。同じメンバーが集まることなど、ありえないから。

 僕は、今まで打ったことのある院生の顔を、できるだけ思い出そうとした。棋風や相性などは、何となく覚えていたが、顔や名前まで分かったのは、数人にとどまった。帰途、どうしようもなく、喪失感に苛まれた。


 ヘルマン・ゲルンハルトが交通事故で大怪我を負い、昨日未明に死亡したことは、海を隔てて遠く離れた日本でも、少し話題になった。

 彼はノルディック・コンバインドという種目で、ジュニア時代からドイツを牽引してきた、稀有な存在だったらしい。オリンピックでは二度、金メダルを獲った。ジャンプ着地の際の大怪我で、一時は競技引退すら囁かれたが、最近は全盛期に近い活躍を見せていた。

 ネット記事に淡々と綴られた事実が、平手をどれだけ苦しめているかは、想像に難くなかった。

 とりあえず、電話をかけてみることにした。だが、彼の悲しみは、多分彼自身にしか理解できないだろうし、自分が共感し、慰めること自体、おこがましいことだと思った。

「俺さあ、何のために生きてるのか、わかんなくなっちゃった」

 開口一番、平手はこう言った。

 彼の泣き言を聞いたのは、高校一年生の時以来だった。近くの女子高の彼女に振られた時のことだ。今回の方が、ずっと深刻には違いないが。

「痛かっただろうな、苦しかっただろうなって思うのよ。誰だって死ぬし、いつその日が来るかは分からない。明日かもしれない、五十年後かもしれない。けど、ゲルンハルトには、もうちょっと頑張ってほしかったなあ。やっとなんだよ、粉砕骨折で、二度とスキーできないかもしれないってところから、やっと復活したんだよ。なあ、いくらなんでも不公平すぎないか」

 画面から、微かに、本来聞こえるはずのない、不快な音がした。何かを、ひっかくような音。最悪の想像が頭をもたげる。できるだけ早く、彼を連れ出し、好きなものを食べさせて、頭の中に広がる地獄の風景から、意識を離す必要があると思った。

 だが、口から出てくるのは、なぞり、さするような、慰めの言葉ばかりだった。傷つかない代わりに、響きもしない、当たり障りのない文句を、小さな声で、ぼそぼそと。

 彼が元の状態に戻るには、時間が要るだろうと思った。生々しい苦しみは、きっといつまでも腐臭を放ち続けるけれど、時間さえあれば、その記憶には、何重にも保護膜が張られる。経験上、そう知っていた。

 今、外に連れ出したとして、彼は無理をするに違いなかった。休ませた方がいい。僕は、届いているかも分からないような慰めの言葉を、途切らせないよう注意した。外へ出て、最寄りのコンビニに入った。ポカリと栄養ドリンクとプリンを買った。

「今、そっち行くから。とりあえず寝てて」

 返事を聞かずに電話を切った。電車に乗っている間中、最悪の想像がいつまでも頭から離れなかった。僕はもう一度、ゲルンハルトについてのWikipediaを読んだ。それから、彼のSNSを見た。

 最後の投稿は、友人らしき人と一緒に、肩を組んでいる写真だった。ゲルンハルトは、ポスターのような満面の笑みではなく、何かを言いかけているような、中途半端な微笑みを浮かべている。

 平手の言う通り、不公平だと思った。こんな風に、楽しげに談笑している人が、突然いなくなるのは、合理的ではない。だが、事実として、彼は亡くなった。コメント欄に並ぶ異国の文字、時折挟まれる泣いた顔の絵文字やスタンプが、更新する毎に増えた。

 人の死が、昔より、ずっと近くなったように感じる。それだけではない、人の喜びも、怒りも、こういう道具のせいで、まるで自分の目の前で起こったかのように、感じることが増えた。向こうはこちらが生きていることすら知らないというのに。

 インターホンを押して、ドアが向こうから開いた時、僕はほっとした。彼の顔は涙や汗でべとべとになっていた。顎の辺りが少し青い。だが、死んではいない。

「わざわざ、ごめんよう」

 しゃくりあげる彼の後を、足音を立てないように歩いた。部屋に入ると、そこには、異様な光景が広がっていた。ポスターは丁寧に畳まれて、部屋の隅に置かれている。スキー板のミニチュアのような飾り物も、ワールドカップのブルーレイディスクも、ユニフォームのコピーモデルも、隅にまとめられている。彼の部屋からゲルンハルトに関連するものが消えると、これほど殺風景になるとは、想像もつかなかった。

「バイト、クビになったし、四月から社会人とか、考えられねえ。人生落単しそう」

 顔を引きつらせながら、冗談を言う彼を見ていると、全く不合理な考えには違いないのだが、ゲルンハルトがどうしようもなく憎らしく思えてきた。僕はポカリとプリンを冷蔵庫に入れて、栄養ドリンクを渡した。平手はそれを少し飲んで、咳込んだ。

「黒田くん家の送り迎え、もうしなくていいから。ほら、ちゃんと休んだ方がいいし。打ちたかったら、オンラインでも打てるから」

 平手は頷いた。彼は何度もごめんと言った。布団に戻ったのを確認してから、外へ出た。僕は軽くなった両手を、適当にぶらぶらさせながら、帰路に着いた。

悲哀は常に目の前にある。ただ、注意しなければ見えてこないのだと思う。


 指導対局は問題なく行われた。圭がやる気を失っていないか心配だったけれど、打ち進めていくうちに、杞憂だと分かった。彼は、三段と四段を行き来するところまで成長していた。まだまだ先は長いが、僕の教える役割も、概ね終了したように思う。

 ログイン回数の増加に従って、通常対局を打つ機会も増えた。有象無象の勝負を繰り返すうちに、自分が院生だったこと、院生を辞めてからもプロを目指していたことが、遠い昔のことのように思われた。

 プレイヤーは、ハンデ戦でなければ、平等な条件で勝負を行う。多くの場合、才能のある方が勝つし、努力量の多い方が勝つ。だが、一度碁盤に向かい合えば、今までの練習は、ただの心の支えでしかない。ハメ手や小手先の技術などは、高段者同士の対局では、通用しない。最初の一手を打つときは、誰もが平等なのだ。これは、世の中にも通ずるような気がした。僕は多分、不平等な世界の平等さに気付かせてくれたこのゲームに、どこかで感謝しているのだと思う。

 それでも時折、周りにかけた迷惑や、自分の情けない振る舞いを思い出しては、嫌な気分になることがあった。苦い記憶がフラッシュバックして、時限爆弾のカウントダウンが、耳の奥にこだまする瞬間があった。

 そういう時は、元院の仲間のことを思い出した。

 僕は最近、プロ試験での対局や、院生研修でとった棋譜を、並べ直すようにしていた。相手によって異なる微かな癖を、棋譜を通じて感じ取る。彼らがいたことを、彼らが僕の人生に、少しでも関わったのだということを思い出すために、僕は何度も棋譜を並べた。

 上位の院生だと、ネット上の棋譜データベースに、公式戦の対局が、保存されている場合があった。自分のつけた棋譜をおおかた並べ終えた後、僕はそれらを、執念的に集めた。特に日高のものを並べた。

 感傷に浸りたかったわけではない。ただ、彼の発言が本当かどうか、確認したかった。自分なら次どこへ打つか。そういうことを想像しながら、ゆっくり並べていると、部分部分ではあるけれど、感覚の似た打ち方が見られた。予想が当たった時は、嬉しさよりも、気恥ずかしさが勝った。

 僕の棋力は、全盛期から比べると、少しずつ下がっていった。成績は乱高下を繰り返し、減衰曲線のように、八段へと収束した。これでいいと思った。僕の目指す世界は、別のところにある。多分。


 ゲルンハルトが死んでから、数週間が経過した。マスコミはそのニュースを報道しなくなったけれど、平手は相変わらず寝込んでいた。

 新学期は否応なしに近づいていた。自然と囲碁に割く時間は減り、代わりに、数学書を読むことが増えた。休学の分のブランクは、なかなか埋まりそうになかったが、こればかりは根気よく続ける他ないと思った。

 その日、僕は圭に五子置かせて打っていた。

 三々にカーソルを合わせる。最近では、AIの影響もあって、置き碁でなくとも三々に打たれることが多くなった。昔では考えられなかったことだ。最善の一手は、時代を経る毎に変わっていく。

 圭はしばらく考えている。持ち時間は二十分、秒ヨミは三十秒が三回。かなりの早碁だった。もっとも、彼は早打ちなので、この時間さえ余らすことが多い。

 だが、五分経っても、十分経っても、盤面は進まない。何となく嫌な予感がした。LINE通話をかけるが、応答はない。

 この局面で考え込むことなど、彼にしてはありえないのだ。何かが起こっている。確実に、何かが。どうするべきだろうか。

 何とかしなければならない。だが、その策が浮かばない。知らず知らずのうちに、親指を噛んでいた。治りかけていた傷跡の周辺から、懐かしい、鈍い痛みが、戻ってきた。

 向こうの持ち時間が無くなり、秒ヨミが始まった。三十秒のカウントダウンが、合計三度行われる。人工音声の、微妙に違和感のある声が、スピーカーから発せられる。いち、に、さんし、ご、ろく、しち、はっち、きゅう、じゅう。残り、二回です。

 スマホを取り、電話のアイコンを選択しようとするけれど、手が震えて、何個も何個も、別のアプリを起動してしまう。また、人工音声が聞こえる。しち、はっち、きゅう、じゅう。最後です。

 ようやく、電話をかけることができた。呼び出し音が鳴る刹那、時間切れ勝ちを示す、軽快な音楽が流れた。


 待合室で待っている間、初めて黒田さんと話をした。

 彼女の話によると、圭は床に倒れこんでいたが、幸いなことに、軽い打撲のみで済んだという。彼女は会話の間中、何度もごめんなさいと言い、その度に僕は気まずくなった。

「もともと、失神しやすい子だったんです。小学校の集会では、何回も倒れてしまうから、特別に椅子を用意してもらって……。最近は、大丈夫かなと、思っていたんですけど」

 黒田さんは手を組んで、どうしよう、もし大学受験で倒れてしまったらどうしよう、というようなことを繰り返した。僕はそれを黙って見ていた。


 ほどなく名前が呼ばれ、僕たちは立ち上がった。渡された面会カードを首に提げ、病室の方へ歩いた。圭が本当に無事であることを、早く確かめたかった。黒田さんは無言が怖いのか、病室に入るまで、ひっきりなしに話しかけてきた。

「向井さんがケンちゃんの友達だって、もっと早く知っていたら、どんなに良かったでしょう。今の圭の担任は、専門科目が数学で、あなたのことはもちろん存じ上げてました。十年に一人いるかいないか、そういうレベルの生徒だって。碁打ちを目指さなければ、きっと良い数学者になっただろうっておっしゃってました」

 彼女はそこまで言ったところで、口をつぐんだ。僕は、何か答えないといけない、と思った。

「それは買いかぶりですよ」

「いえ、本当に。もし向井さんさえよければ、これからは、勉強の面倒を見てやってほしいと思ってるんです。最近囲碁に没頭しすぎで、私としては、もう少し勉強も頑張ってほしくて」

 要するに、知育としての囲碁が、邪魔になったということだろう。そのことに対して、もう怒りは湧かなかった。彼女のような親は数えればきりがないのだ。僕は断り文句を探したが、思いつかなかった。

「いや、まあ、家庭教師なら、僕より向いている人は、たくさんいると思います」

 看護師が立ち止まり、ドアを示した。会話が終わってほっとした。

 圭はスマホをいじる手を止め、こちらを見ると、顔をほころばせた。

「来てくれるとは思わなかった」

「何言ってるのよ。大丈夫だった?」

「うん」

 彼は体を僕の方へ向けた。

「棋道部、入ろうと思ってるんです。同級生に誘われて」

「うん、いいじゃないか」

「それで、大会とか、頑張って出てみようかなって思ってるんです」

 黒田さんが何か言いかけたが、圭はそれを制止した。

「教えてもらうのは無理でも、たまには、部活に遊びに来てください。みんな僕のこと、結構羨ましがってるんですよ」

「行くよ。いつでも声かけてくれれば」

 圭はこちらの目をまっすぐ見た。僕は少し驚いた。初めて彼自身と対話しているような気分になったからだ。彼は、もう、僕の作品ではなかった。

ぎこちなく笑うと、圭も笑顔を返してくれた。顔にはえくぼが浮かんでいた。


 怠惰な日々は、忍び寄るように戻ってきた。特別な用事がない限り、僕は朝十時に起きた。それからブランチをとり、囲碁と数学の勉強をして、疲れたら眠った。他にやるべきことも思いつかなかったのだ。

 僕は自分の生活の変化に、それほど驚かなかった。多分元からこういう人間だったのだと思う。圭のことに気を取られて、自分のだらしなさが、見えにくくなっていたにすぎない。

 違うことといえば、平手がいないことだけだった。たまに電話をしたり、様子を見に行ったりはしたけれど、あの日以降、向こうから誘ってこなくなった。振り返ってみれば、長い付き合いの中で、僕から遊びに誘ったことは数えるほどしかなかった。

 先生の元を訪ねてみようと決めたのは、何もできていない自分、友人一人まともに慰められない自分が、情けなかったからだと思う。考えてみれば、試験が終わってから、挨拶に行くタイミングを、ことごとく逃していた。

 僕は未だに、これからの身の振り方を決めかねている。先生ならば、その解を教えてくれるのではないか。僅かながら、そういう期待もあった。一度決心したら、あとは早かった。開いていた本を閉じて、一通り掃除を済ませ、行き慣れた会館へのルートを、頭でなぞった。


 暖かい光がテーブルを白く染めていた。遠くに見える朧雲は若干灰色がかっている。しばらくぶりに雨が降るかもしれない。天気だけではなく、道端の色づいた雑草や、時折揺れる並木の枝が、微かな春の訪れを感じさせる。何気ない風景が、今までより美しく、意味深げに映る。

 一階に併設されたカフェで、僕は先生を待った。十五年間外から眺めるばかりで、一度も入ったことがなかった。大抵は閑散としていたけれど、今日のように子供向けの大会が催される日に限って、保護者で賑わうのだった。

 この人たちの子供は、時限爆弾と一生縁のない生活を送るのだと思っていた。同じ建物で、同じ競技に関わっているのに、自分の味わう苦しみを知ることなく、幸せに暮らしていくのだと思っていた。圭の笑顔が脳裏に浮かぶ。彼の抱える爆弾に、気付けなかった。皆それぞれの爆弾を抱えている。

 ドアの開く音が聞こえた。店内にざわめきが起こり、何度か挨拶が交わされた。始終僕は窓を見ていた。先生は今、入門教室を担当しているから、ここに知り合いが多いのも不思議ではない。

「どうも」

 先生に会釈を返す。顔の小皺が増えた気がする。目の奥に潜む厳しさは、相変わらず見え隠れしている。窪田と先生とで研究を重ねた日々が、つい昨日のことのように思えた。

「急に呼び出してすみません」

「いえ。私もね、会いたいと思っていたんです」

 先生の表情は読めない。

「窪田くんも会いたがっていましたよ。残念ながら、今日は東京で対局ですが。君は、元気でやっていましたか」

「はい。四月からは、復学する予定です」

「そうですか。頑張ってくださいね」

 僕は、ここに来た理由を先生に伝えるのが、少し恐ろしかった。先生の前だと、言葉が上手く出ない。昔からそうだ。

「わざわざここに来たのですから、他に話したいことがあるのでしょう? 何でも、遠慮せずに言ってください」

 僕は頷いた。アイスティーを口に含むと、普段より苦く感じた。

「これからのことに、ついてなのですが……、もちろん大学は卒業しようと思っています。余裕があれば、教職も取るつもりです。相談というのは、囲碁を続けるかどうか、ということです。嫌気がさした時期もありますが、やっぱり僕にとっては、囲碁がない生活は、張り合いのないものでして」

「なるほど」

 先生は頷いた。同じようなことを、誰かに相談されたことがあるのだろう、後の答えは流暢だった。

「これは、ある有名な小説家の言葉なのですが、今の君には大切なことだと思うので、伝えますね。『何かになってから自分の本当の人生が始まる、とは思わない方がいい。何かを目指しているときも、かけがえのないあなたの人生なのだから』……大体こんな感じだったかな。つまり、院生として碁に向き合っていた時間も含めて、君の人生なのです。後々、役に立つ日が来ると思いますよ。この言葉を心にとどめて、あまり気負わずに、好きなことをやってみればよいでしょう」

「ありがとうございます」

 少し、腑に落ちなかった。先生は、何かを言いあぐねている気がした。気のせいかもしれなかったが、僕は思い切って尋ねた。

「何か僕に隠しているのであれば、包み隠さず言っていただけると助かります。会うのも最後かもしれませんので」

 先生は最後の一言に目を細めた。まるでその言葉を、待っていたかのようだった。穏やかな口調ではあったが、まるで別人のように、先生は喋り始めた。

「窪田君がプロ入りを決め、君が脱落した。私はね、結果的に、これが一番良い結末だったと思うんです」


 店員が近づいてきて、会話は一時的に中断された。運ばれてきたコーヒーから仄白い湯気が立ち上る。僕はそれを静かに目で追った。先生の言ったことが、よく分からなかった。

「窪田君はあまりに幼い。囲碁と出会っていなければ、社会を生き抜けたかどうか。それに比べて君は、非常に優秀でした。病的な負けず嫌いで、その上頑固だったけれど。ただ、プロ試験は難しいもので、強い人が必ず勝つ世界ではないのです。もちろん、実力のある方が、有利には違いありませんが。君もよく分かっているでしょう」

 追っていた湯気が、空気に吸い込まれた。僕は少し嫌な気分になった。

「これから私の言うことは、先生としてではなく、向井君と同じように、かつて夢を諦めた者の意見として、聞いてください。……どうして、私があの教室を畳んだか、幼かったあなたたちは分からなかったでしょう。それは、怖かったからです。情けなかったからです。かつての仲間たちは、プロになるか、社会人として会社に勤めるか、そのどちらかでした。私は、違った。自分が負けたということを、そして、永遠に負け組に勘定されることを嫌って、碁を打ち続けた。カルチャーセンターや、近くの碁会所で働いて、細々と暮らしました。しかし、アマチュアはアマチュアです。将棋と違って、編入制度はありません。どれだけ強くなろうが、一生、夢見た舞台には立てないのです。それは生殺しに近かった。だから教室から逃げ出したのです。じゃあ、今またここで教えているのは何故か。あなたはきっとそう思っているでしょう。理由は簡単です。私には、この世界しかないのです。他の世界で生き抜けるような、学も、社会経験も、ありません。中年の私に残っていたのは、肥大化したプライドと、無駄ともいえる碁の技術だけでした。いくら儚く、未来の不安な業界でも、すがるしかなかった。君は、違うでしょう?」

 先生は、何かを思い出したように、コーヒーを啜って、言葉を続けた。

「元院のプライドなんて、役に立ちはしません。捨ててしまいなさい。……周りはよく言います。院生時代の経験が、仕事の役に立っている、と。とんでもないと思いましたね、私は。彼ら、合理化しているだけです。あの期間が、夢を追いかけて挫折した期間が、無駄であったと認めてしまったら、自分が崩壊すると思っているのです。そうなれば、生きていけないと思っているのです。取り巻きはそれを信じて、美談に仕立て上げる。反吐がでますよ、本当に。……君は強い。少し界隈に詳しい者なら、その強さは分かっています。だからこそ、これ以上踏み込んではいけません。ただでさえ先細りのこの業界と、心中する必要はない。まして、プロになれなかった人に教えを乞う人は多くないのですから。大会に出ることを止めはしません。学生棋戦なら、優勝も狙えると思いますし、楽しいに違いない。でも、その先に未来はないのです。分かりますか、向井君」

 先生は、囁くように、僕の名前を呼んだ。

「それに、君は、自己中が過ぎる。自分へ自分へと向けているその意識を、一度でもいいから、他人に向けてやってはどうですか。私はねえ、人の世と碁には、共通点があると思っています。それは『分かり合えない』という点においてです。分かり合えないからこそ、探り合い、時には妥協する他ないのですよ。そしてね、探り合うことで、最善の一手により近づくことができる。このことを忘れなければ、たいていのことは上手くいくと思いますよ。……さて、長くなってしまいましたが、私の言いたいことは大体済みました。君自身が適切な評価を受ける業界で、存分に輝くことを、期待しています。さもなければ、私のようになりますよ」

 先生はコーヒーを一気に飲み干して、ゆっくりと目を閉じた。そこに座っているのは、あの厳しかった先生ではなく、一人の哀れな元院だった。

 僕は小さな声で尋ねた。

「先生は、後悔していますか。囲碁を辞めなかったこと」

「どうでしょう」先生の表情は、来た時よりも穏やかだった。「私も、毎日後悔している訳ではありません。たまに、君や窪田君のような、才能に溢れた子供と関われると、自分も全く外れの人生を歩んでいる訳ではないのだなと、元気が出ます。私の心は、例えるならば、シーソーのように揺れ動いています」

 先生は時計をちらりと見た。

「そろそろ午後の教室が始まるので、失礼します」

「ありがとうございました」

 僕が頭を下げると、先生は無言で微笑み、出口に向かって歩き出した。それから一度も振り返ることはなかった。僕は彼をずっと眺めていた。コーヒーの残り香が、徐々に薄れて、消えた。

 

 東片端の交差点で信号を待っている間、僕は確かに周りの風景が変化したことを感じ取った。どこに焦点を合わせても、平凡で鈍重な名古屋の街並みが広がっていた。大して感傷的ではなく、それでいて、どこか懐かしいような……。試験終わりの景色が美しかったことも、周りのもの全てが自分の敵に見えたことも、夢の中での出来事であるように思われた。

 かつて夢にまでみた、靄の先に広がる、美しい王国。そのようなものは、もうどこにもなかった。その世界の影は、僕の腹にあった重い何かとともに、消え去ってしまった。残ったのは、厳しく静かな現実だけだった。僕は初めて自分自身を、他人の視点から見たような心持ちがした。

 探り合いながら、最善の一手を探す。先生の言ったことを、心の中で復唱した。

 院生時代の記憶が、囲碁への様々な思いが、心の片隅に追いやられていくのを感じた。そう長くないうちに、この心の騒乱は、過去のものになってしまうだろうと思った。元院であった自分は、死ぬのだろうとも思った。

 不思議と、後悔は感じなかった。ただ、これからの生活に対する不安と、それを凌駕する期待があった。

 車の流れが止まり、信号が青に変わった。駅に向かって、ゆっくりと歩き始める。

 僕は、平手の赤くなった目のことを考えていた。できるだけ早く、彼のところへ行かなければならないと思った。今なら、彼にかけるべき言葉を、見つけられる気がした。(了)

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元院 荒波一真 @Kazuma_Q

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