第4話 優しい彼氏さん


 その日、仕事を終えて彼氏さんの宿泊するホテルの部屋に着いたみるちゃんは、ノックしてすぐに開いたドアの向こうに彼氏さんの顔を見た途端、うわぁっと泣いちゃったの。

 彼氏さん、みるちゃんの手を取って部屋に引き入れて、抱きしめてしばらく背中をさすってくれたそうだけど、みるちゃんの涙はそう簡単には止まらない。だって、ずっとずーっと不安だったんだもの。

 そしたら彼氏さん、

「ごめん。意地張ってた」

 って、ポツンと言ったんだって。

「へ……?」

 みるちゃんはちょっとびっくりして顔を上げた。そしたら彼氏さんはみるちゃんの頬を撫でて、こう続けたの。

「部屋のこともバレンタインのことも、みちるがやけに無理してるように見えたんだ。それで俺も、ちょっと意固地になったのかな。そんなに無理して頑張ってほしくないって。頼んだわけじゃねえなんて、思っちまった」

「無理なんてしてないもん」

「みちるはそう思ってるんだろうけど。でも、仕事が忙しいのに、わざわざ一人暮らしする必要あんのかなって思ってさ。一人分とは言え、家事もしなきゃならねえんだぜ」

「それは――」

「お母さんとも仲いいんだろ? みちるが家を出たら、寂しがるんじゃないか」

 みるちゃんは俯いた。確かにその通りだったから。みるちゃんとお母さまは、まるで姉妹みたいに仲良しなの。


 ここで少し話は逸れて、みるちゃんとお母さまのことについて少し話しますね。

 お母さまはお若くしてお父さまと結婚して、みるちゃんと三歳下の弟くんを産んだのだけど、たぶんまだ五十歳ちょっとくらいだと思う。聡明で健康的で、お茶目で可愛らしいお母さまよ。正直、みるちゃんとは性格は似てないかな。

 でも、実を言えばその仲の良さが、みるちゃんにとっての心配のタネをもたらしたの。

 お母さま、みるちゃんが仕事で遅くなったとき、お泊まりするって連絡を入れない限りは絶対に寝ないで待ってるそうなの。たとえ真夜中に帰っても、疲れてるみるちゃんに夜食を食べさせ、お風呂に入って寝るのを見届けてから、後片付けをしてお休みになるそうよ。しかも翌朝、みるちゃんが起きたらもうちゃんと朝ご飯の支度が出来てて、お母さま必ず笑顔でおはようって言ってくれるんだって。

 そんなお母さまだから、みるちゃんは心配になったの。このままだとお母さまが身体を壊しちゃうって。実際、去年の秋頃には体調を崩されたこともあったみたい。季節の変わり目は要注意よね。だからみるちゃんは何度も、自分の帰りは待たないで先に寝て欲しいって頼んだそうだけど、お母さまは「心配だから」のひとことで、みるちゃんのお願いを聞く気配はなし。

 だからみるちゃんは一人暮らしを決めたの。つまり、大好きな彼氏さんのためだけじゃなくて、大好きなお母さまのためにも必要なことだと考えたのね。


 お母さまのことを言われて、みるちゃん、さらにわあっと泣いちゃった。お母さまはみるちゃんの一人暮らしを賛成してくれたけど、すごく寂しそうにしてるのも知ってたから。

「泣き虫だな、みちるは」

 彼氏さんはもう一度みるちゃんを抱きしめて、頭ぽんぽんしながらちょっと困ったみたいに言った。わぁ、あんなイケメンにぎゅっとされて頭ぽんぽんなんて、みるちゃん、とことん果報モノよね。

「……そんなことないわ」みるちゃんは涙声で言った。

「だって、明日俺が帰るときにはまた泣くんだろ? いつだってそうだもんな」

「今から言うなんて、意地悪ね」

 すると彼氏さんはみるちゃんの手を取って部屋の中まで連れて行って、ベッドの端っこに座ったら、にっこり笑ってキスしてきたんだって。みるちゃんは一瞬で“ほわん”となって、肩の力が抜けたそうよ。そして、突然で驚かされたけど、明日まで彼氏さんと一緒にいられるんだって考えたら嬉しくなって、涙もすっかり引っ込んだみたい。それで、ずっと不安に思ってた自分が、ちょっと情けなかったって、あとで教えてくれた。何度も言うけど、恋をしたみるちゃんがこんなにしおらしくて素直なの、本当に初めて。彼氏さん、それだけでもすごい。さすが。 



 で、その夜、二人で部屋探しの話になったそうなの。

 みるちゃんは自分が選んだ物件を、彼氏さんがことごとく難癖をつけるのはどうしてなのか訊いたんだって。

 すると彼氏さんはみるちゃんに言ったの。

「――そもそも、おまえのあの物件選びの基準ってなんなの? いちいち文句つけたくなるような、クセのある部屋ばっか選んでよ」

 ほらあやっぱり! 彼氏さんだってそう思ってたのよ! 私と同じ!

 でもみるちゃんはピンとこない。なぜなら、自分にとってあたりまえに必要な条件だと思ってるから。

「新横浜周辺ってのは分かるよ。新幹線の駅だからだろ。俺のこと考えてだよな」

「そうよ。少しでも楽だと思って」

「あと駐車場付きってのも分かる。車があれば、事件が起きたときの呼び出しにもすぐに対応できる」

「ええ。タクシーを呼ぶ時間を省略できるわ」

「けど、本来ならみちるが夜中の呼び出しに応じる必要ないと思うけど。つかそもそも、連絡してくるヤツがいるってのが驚きだ」

二宮にのみやくんよ」

「あいつがいたかー」彼氏さん、苦笑い。

 二宮くんっていうのはみるちゃんの部下で、バディを組んでるの。彼氏さんともそこそこ仲良し。みなさんよーくご存知よね。

「わたしが頼んでるの。絶対に『時間も時間だし、女性だし、キャリアだし、やめとこう』ってならないようにって」

「ふうん」

 彼氏さんはちょっと不満そうな声で、腕枕してるみるちゃんの髪をくるくると指に巻き付けて言った。「――ま、仕事のことは俺がどうこう言える立場じゃねえからいいけど」

 あれ? ちょっとヤキモチ妬いてる? って、みるちゃんは思ったそうよ。

「そんで一番おかしいのは、いろいろと制約がなくて緩い、っていう条件。何だよそれ、どういうこと?」

「言葉の通りよ。面倒くさいルールとか、うるさい管理人とかに煩わされないってこと」みるちゃんは平然と答えた。「職業柄、そういうのって邪魔になるでしょ」

「気持ちは分かるけど、そんな条件で探すと、とんでもねえ物件を選んじまうリスクがあるぜ」

「え、そうだった? わたしが今までに選んだのって」

「まぁ、とんでもねえとまではいかないにしても、どれもイマイチだった」

「そうなのかなぁ」

 みるちゃんは人差し指をほっぺに添えて、うーんって考える仕草をした。「だったら、どんなのがいいの?」

「鉄壁のセキュリティ。それだけは譲れねえ」彼氏さんは即答した。

「あ――」

「おまえ、自分が警察官だからって、なんか過信してるみたいだけど、関係ねえからな。まさか『わたしは警察官です』って吹聴して回るわけでもねえんだし、みすみす危険性の高い状況に自分から身を投じるなんて、逆に自覚がねえ馬鹿のするこった」

「そこまで言わなくても……」

「マジな話だから。制約が少ないってことは、それだけ気楽でいろんな人間が集まってくるってことだ。中にはイカれてるヤツもいるかも知れない」

 彼氏さんは言葉の通り大真面目な顔で、みるちゃんの顔を覗き込んで言った。うん。彼氏としては当然よね。

「――心配してくれてるの?」

 みるちゃんは今さらそれに気付いたの。もう、呆れちゃう。

「あたりまえだろ」

「だったら、そう言ってくれればよかったのに」

「……けどさ……」

「けど、なに?」

 みるちゃんはすっかり嬉しくなって、彼氏さんに顔を寄せて目を大きくして見つめた。彼氏さんはそんなみるちゃんのおでこにchu♡とキスをして、それから言ったの。

「明日、一緒に見に行こう」

「えっ――?」

「いろいろ調べてみたんだ。二軒ほど、いいんじゃないかなってのが見つかった。内見の予約も入れてある」

「……ほんと?」

「気に入らなかったら、また探せばいい」

「そのために来てくれたの?」

「だって、言うだけじゃどうせ聞かねえし」

 みるちゃんはますます嬉しくなって、彼氏さんに抱きついた。彼氏さんはみるちゃんの肩を撫でて、「泣き虫で、甘えん坊だ」と言って笑ったんだって。


 みるちゃん、素敵な彼氏さんと出会えてよかったね。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る