ブルームーン

@Tolao

ブルームーン

 私はそのとき、パリを旅していた。



 数年勤めた仕事をやめたあとの長期休暇だった。気軽な一人旅で、私はまっとうな観光客らしく、クロワッサンやシャンゼリゼ通りや凱旋門を心ゆくまで楽しんだ。ルーヴル美術館で首から上を失った天使の像をいつまでも眺めては、一体どんな顔が乗っていたのだろうと想像した。街角で適当に入ったカフェで注文したホットチョコレートは、目の醒めるような美味しさだった。


 かつてアメリカに住んでいたときに知り合った友人の女性も偶然パリに滞在していて、その日の夜は人気クラブのパーティーに行くから来ないか、と誘いを受けていた。私はスーツケースに詰めてきた限りある服の中から、一番そういう場に合いそうな明るい幾何学模様のプリント柄のシャツを選ぶと、ホテルを出た。


 その夜はいまいち何かがおかしな感じがした。街の中心部にあるそのクラブまではタクシーに乗ったが、窓から見えるエッフェル塔は、写真やテレビ映像で見慣れたくすんだ茶色ではなく、闇夜のように深い漆黒に、ギラギラとした金色の線がところどころ入っていた。東京タワーのように期間限定の装飾でもしているんだろうか。パリの人達はそういうのやらなそうなものだけどな、と、私はぼんやり思った。


 くだんのクラブでは、乱痴気騒ぎのパーティーが繰り広げられていた。『ブライト・ヤング・シングス』という映画の中で、粋な金持ちの若者たちが狂った仮装パーティーをするシーンがあるのだが、それはまさしくそういう類の催しだった。ステージの上では、ライトを受けてテラテラと光る小さなビキニだけを身につけた男達が、その美しい肉体を見せつけるように踊っている。フロアでは、派手なオレンジの毛皮のコートを着た赤毛の男の子と、粋な黒いタキシードを着たすらりとした女の子が、肩を組みながらボトルのシャンパンを回し飲みしていた。顔の上半分をうさぎの仮面で覆い、ファーで縁取られた小さなワンピースを着た女の子がトレーに乗せて運んでいるMIDORIのショットをひとつ掴むと、私はぐっと乾いた喉に流しこんだ。


 VIPエリアで待っていた友人は、すでにたくさんの酒とドラッグを浴びてすっかり出来上がっていた。彼女は相変わらず金髪で、胸や足をふんだんに出した服を着て、彼女が男だったらこうなるだろう、というボーイフレンド(背が高く黒髪で、マーベルヒーローのような体型の男)を連れていた。彼女の名前はパリスといった。彼女の親はどこかのホテル王で、子供にそういった名前をつけるタイプの人間だったのだ。パリスがパリスを訪れているなんて、なんだかおかしいし良いよな、と私は思った。


 どうしてパリスと親しくなったのかは、正直よくわからない。あるいは彼女は、どんな場所にいても結局アウトサイダーの立ち位置に落ち着いてしまう私のような人間と付き合うのを、おもしろいと思っているのかもしれない。私もパリスのことが嫌いではなかった。彼女のような存在は、真剣に考える必要のあることなど何もないのだ、と思い出させてくれる。


 せっかくの休暇なのだし、今夜は明け方に最後の曲がかかってフロアが明るくなるまでいよう、と私は心に決めていた。それなのに、不思議なことにその夜はちっともふけていかないようだった。腕時計をときどき確認したが、何度見ても時刻は深夜一時ごろから進んでいないように見えた。時差のせいで時計がおかしくなってしまったのかもしれない。そのうちに、店からはどんどん人が減っていった。いつの間にやら、パリスとその恋人も帰ってしまったようだ。それでも流れている音楽は変わらずピーク時の、ビートが強くアドレナリンを押し上げるようなタイプのもので、閉店間際に流れるようなメロウな曲には切り替わる様子がなかった。いつしか、店には私ひとりきりになってしまっていた。客の姿どころか、店員もどこにも見当たらない。何か悪い冗談なのかと思いながら、わたしはクラブの外に出た。


 相当な長い時間を過ごしていたはずなのに、店の外はまだとっぷりと暗い深夜のままだった。ビルの外壁に組み込まれているデジタル時計も、私の腕時計と同じく、1時7分を指している。その上、どこを見渡しても人っ子ひとり見当たらない。まるでパリの街がまるごと空っぽになってしまったかのようだ。私はしばらく人の姿を探してあたりを歩き回ったが、そのうち疲れ切ってしまい、小さな教会の前の石階段に腰を下ろした。


 しばらくそうして座っていると、ひとりの男がどこからともなく現れて、私のほうへ近づいてきた。男はまるで1940年代のような茶色の長いコートと帽子を身につけ、縁の太い眼鏡をかけていた。彼は私の前まで来ると、安堵した様子で言った。


「ああ、ここにいましたか。ずいぶん探しましたよ」


 私は自分以外の人間を見つけて心底ほっとした。


「探していたってどういうことですか?一体何がどうなっているんです?」


 私が尋ねると、男はゆったりとした口調で答えた。


「あなたは特定の時間の中に捕らわれて、正常な時間枠に戻れなくなってしまっていたんです。まるで壁にぶつかり続けるようにね。ブルームーンが来たときの影響で、そういう障害がいくつか起きてしまったんです」


「何が来たときの影響ですって?」


 私が聞き返すと、男は少し微笑んで手を差し出した。


「ブルームーンです。でもまぁ、それはまた追い追い。とにかく今は、あなたを正常な時間枠に戻さなくてはね。さぁ、行きましょう」


 促されるままに、私は男の手をとった。




 そのあとの記憶は、どうもはっきりしない。飛行機に乗った覚えもないのに、気がつくと私は見慣れた故郷の街を走るタクシーに乗っていた。街灯や信号機の明かりは私が子供の頃から知っているそれのはずだったが、じっくりと見ると何かがひどく違うような気もした。まるで何層にも重なる色を反射しているかのようにも見える。例の男は私を自宅マンションの前まで送り届けると、おやすみなさい、と言って去っていった。


 自分の部屋のある階までエレベーターで上がると、隣の部屋に住んでいるカップルが共有スペースの踊り場からぼんやりと外を見つめていた。「こんばんは、」私は彼らに声をかけた。


「何を見ているんです?」


「ブルームーンを見ているんです」


 花柄のワンピースを着た女のほうが、空を指差しながら言った。私は彼女の指差す先を見た。


 そこに浮かんでいたのは、見たこともないものだった。それは常に変化し続けていた。青やピンク、紫といった色が複雑に、オーロラのようにからみあう惑星だったかと思うと、次の瞬間にはよく前衛芸術家が「天使の真の姿」として描くような、いくつもの輪が重なりあって回転する形になり、その次には予算のかかったSF映画に出てくるような真っ白い宇宙船の形になった。そしてそれは、絶えずその形のどこかが回転し、循環し続けていた。


 それは圧倒的に美しく、とてつもなく恐ろしかった。


 あんまり美しいので私がビデオを撮ろうとすると、隣人の女性は同じく構えていた彼女のスマートフォンの画面を見せながら、


「駄目です。そういう形の記録はとっちゃいけないんです。インスタグラムのストーリーとかならいいけれど。でもそれも、アーカイブには残さずに、次の日には消さないといけないんです」


 と忠告してくれた。


「あれは何なんです?月なんですか?」


 私が訊くと、彼女は空のほうを向いたままぼんやりと答えた。


「ブルームーンはずっとそこにあります。一日中、昼も夜もです」


「昼も?太陽が出てるあいだも見えるんですか?」


 隣人たちはふたりとも、魅せられたようにブルームーンを見つめていた。


「太陽はもうありません。人工的なもの以外は。一日の決まった時間、人工の光が当てられます」




 家に入ると、同居している姉がマニキュアを塗っているところだった。実際にどれくらいのあいだ留守にしていたのかはわからないけれど、私は姉に再会できたことが嬉しくて、思わず彼女をハグしたい気持ちに駆られた。けれど、塗りたての濃紺のマニキュアを駄目にしてしまうかもな、と思い直しやめておいた。


「お姉ちゃん、ただいま。ごめんね、心配させて」


「おかえり。一体何があったの?」


 私は姉に「壁にぶつかり続けていた」ことを説明した。


「どれくらいのあいだ閉じ込められていたのかわからないんだけど、きっとずいぶん長いこと留守にしちゃったよね」


 私が言うと、姉はなんだか困惑したような顔をした。


「ずいぶん長いこと……どうだったかな。最近はどんどん夜が短くなってきてるから」


 姉が話し始めると、壁に取り付けられているエアコンがごおおおおおっとひどく大きな音を立てはじめた。彼女の声をほとんどかき消してしまうような騒音だ。こんなに大きな音してたっけ?と尋ねると、姉はまた混乱したような顔をした。


 なんだか何もかもの辻褄が合わないような気持ちがして、私は近くのセブンイレブンまで散歩がてら買い物に行くことにした。夜だというのに、通りにはたくさんの人が出ていた。車も数台走っている。


 ふと、急に周りを歩いていた人たちが一斉に道に倒れこんだ。私は驚いてあたりを見回した……すぐ近くにいた男性が、一緒に歩いていた女性に重なるようにして寝そべっている。彼はビクビクと痙攣するように体を震わせていた。彼の背中に、何か生き物がうごめいているかのような形が盛り上がるのが見えた。私は自分も急に意識が遠のいて、背中のあたりにビリビリとした感覚が走るのを感じた。私は一瞬、その場にしゃがみこんだ。


 ……しかし私はすぐに、意識と体の自由を取り戻した。起き上がって周りを見渡すと、私以外の人はみんな、道に倒れこんで眠りこんでしまっているようだった。妙なことに、すべての人が必ず二人組になって、寄り添うように眠っていた。一人で車に乗っていたであろう人ですら、一番近くにいた人がご丁寧にも助手席のドアを開けて、隣に座ってあげていた。中年の男女や、二人組の男性、母親と娘……どの人達もふたりずつ、重なりあうようになって、どこか安心したような安らかな顔で寝息をたてていた。


 私はいよいよ何がなんだかわからなくなった。まったく妙なことばかりだ。


 しばらく、眠りこんでいる人達を確認しながら歩いていると、ビシッとしたスーツを着た人達が数人、私のほうに向かって走ってきた。追いかけられた人間の習性なのか、思わず逃げようかと走り出したが、この状況で逃げても何も解決しない気がするな、と考え直し、素直に捕まることにした。彼らは私を取り囲むと、「一体どうしたんだ」と尋ねた。それは私が一番訊きたい、と思いながら、「わかりません」と答えた。


 彼らは私を、小さな十字路のような場所に連れて行った。そこには似たようなスーツを着た人達が、さらに何人も列を作るようにして並んでいた。彼らの一番前では、スーツ姿ではない人物が道沿いの建物の壁に何か——あるいは誰か——を、太いテープのようなもので貼り付けていた。不思議なことに、その人は私が見ている間にどんどん姿かたちが変わっていった。最初はクリーム色のシャツを着たラテンアメリカ系の男性だったが、次の瞬間には赤いサリーを着たインド系の女性の姿になっていた。私に気がついてこちらに歩いてくるときには、明るいグレーのスーツを着た、テレビでよく見る人気俳優の姿になった。彼は私を見るとすぐに、心底驚いたように言った。


「我々の一人じゃないか!どうして、僕は君のことを知らないんだ」


 私は時間に捕らわれていて、ついさっき「正常な時間枠」に戻ってきたばかりなのだということを説明した。彼は「なるほどね」と深く頷いた。それから彼らは私を、彼らのためのセンターに連れて行った。




 次の日から、私は彼らの一員になるためのトレーニングを受けることになった。じきに私も上司のように、姿かたちを自在に変えられるようになった。素晴らしい、手術の手間や費用が省けた、と私は喜んだ。


 ブルームーンがやって来てから、世界はすっかり変化してしまったのだということを、私はトレーニングの最初の段階で学んだ。太陽は忽然と姿を消してしまって、代わりに人工の光が、「昼」を作り出すために一日の決まった時間、世界中に当てられることになっていた。これは、ブルームーンの光の「恩恵」を受けられない人達の健康を考えて作られたシステムだった。


 私達の「仕事」が果たして何のためのものなのかは、いまいちよくわかっていない。正直なところ、私の上司や同僚の誰にもわかっていないのだと思う。時にはブルームーンの力を後押しするようなタスクを与えられることもあったし、逆にブルームーンの力を破壊するような作業をすることもあった。しかしそのどれもが、ブルームーンの指示で行われていることは確かだった。ブルームーンの考えることは——それに考える、という概念があればの話だが——、私達には理解できないものなのだ。けれど、私はこの新しい、ブルームーンのある世界に不満はなかった。それより前の世界を特に気に入っていたわけではなかったからだ。それに、私は人生ではじめてどこかに「属している」という感覚を味わっていた。私は確かに彼らの一員だった。それはどこかふわふわと照れ臭く、時折なんだか不安定な気分にもなる感覚だったが、心地のいいものだった。


 ブルームーンの見える場所にいる限り、私達は眠る必要がなかった。このため、センターはどの階も大きなガラスの窓で囲まれていた。疲れたり眠たくなったりすると、同僚たちは窓の近くに椅子とコーヒーの入ったカップなんかを持っていって座り、ブルームーンの光を浴びる。十五分ほどもそうしていれば、質の良い睡眠を七時間とったかのように回復することができた。




 ついに一人前としてデビューするとなったとき、私は登録の担当者に、今までとは違う名前で登録することはできるか、と尋ねた。


「ええ、もちろん。実は、そうする人がとても多いんですよ」


 とび色の髪をすっきりと一つにまとめ、銀縁の眼鏡をかけた登録担当の女性はそう答えた。


 生まれたときに付けられた私の名前は、「エッジがあるし素敵な名前だ」と言ってくれる人もいたが、私はいかにも悪役によくありそうな名前だと思い、あまり気に入っていなかった。それにこれから先、基本的に使おうと思っている姿にはそぐわない。私の登録ファイルをスクリーンに映しながら、「どんな名前にします?」と尋ねる彼女に私は、


「Prague/プラーグ(プラハ)なんてどうかな」


 と言った。なんだか危険な感じのする響きだし、何しろいつかプラハに行く機会があったとしたら、なかなかおかしい。


 彼女はちょっと申し訳なさそうに、


「すごくいい名前だと思うけど、残念ながらプラハという街はもう存在しないんです」


 と教えてくれた。私はすっかりがっかりしてしまったが、彼女は親切にも新しく付けられた世界中の都市の名前リストを出して見せてくれた。私はその中から響きの好きな都市の名前——*****——を選んだ。


 これはその後、同僚たちからずいぶん嫌がられた。何しろ*****には大きな支部があったから、その名前を呼ぶとき、どっちのことを言っているのかしょっちゅう混乱するからだ。けれど私の上司は冗談のわかる人で(余談だが、彼は実際にあの有名な俳優だった)、昨日にやにや笑いを浮かべながら新しい辞令を持ってきた。




 *****に配属されるのを、私は大変楽しみにしている。

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