1-1 僕の内ポケットには新品のカッターナイフがある。

「本当にあった……」


 それは、たどりついた瞬間にそんな声が漏れてしまうほど非現実的なもので、そのわりには現実感のある建物の中に存在した。


 エレベーターさえない、古い五階建てのアパート。

 基本的には居住するだけが用途に思えるその建物の、最上階。


 殴れば突き破れそうな薄っぺらいドアにはたしかに看板が貼り付けられていたのだ。


『魔女の探偵事務所』


 いい感じに正気じゃない表札。

 僕にはもうここぐらいしか頼れるところがない。


 ちらりと見た呼び鈴には『故障中。御用の方はノックを』という紙が貼ってあった。


 ノックする。


 思った以上に大きく響いたゴンゴンという音が、このドアの予想以上の薄さを驚きとともに教えてくれた。


「開いてるよ」


 という女性の声が、くぐもりもせずにドアの向こう側から投げかけられる。


 僕はこの怪しすぎる探偵事務所に入ろうか入るまいか最後の選択肢が目の前にあるのを感じた。


 もちろんこんな怪しいところをたずねるのだから、不退転に近い決意があった。

 けれど、その決意を簡単に揺るがすほど、予想していた十倍ぐらいの怪しさが目の前にあるのだ。


「……行くぞ」


 自分に言い聞かせた。

 ブレザーの内ポケットに入れたものの感触を確かめた。

 そうして、ドアノブをつかんだ。


 薄っぺらさとは対照的にやたらと重いドア。

 汚い三和土たたき

 細い廊下がすぐ目の前にあって、その先には部屋の横幅いっぱいを占有するような机の向こうに、人の姿がある。


 ……逆光。

 夕刻間近だというのに、南向きの窓から差し込む光が異常なまでに眩しい。

 そのせいで、女性の姿は影にしか見えなかった。

 おおよそ人間的ではない、触手を生やした化け物のようなシルエット。


 ……勇気を出せ。ここまで来てしまったら、相手がどんな存在であろうが、もう、進むしかない。


「スリッパ、てきとうなの使って」


 ……まさか探偵事務所に来て靴を脱ぐことになるとは思わなかったので、多少まごつきながら、三和土たたきに靴をそろえてスリッパを借りて、中へ入る。

 人一人が通るのがやっとという廊下を三歩も進めば最奥にたどりつき、ようやく、逆光で見えなかった人物の姿がはっきりと見えた。


 その人物は椅子に座り、こちらに背中を向けていた。

 長い髪。長すぎる髪。真っ黒な髪。おぞましい化け物の触手のような髪。そいつはやたらと艶めいた美しい髪を見せつけるかのように、僕に背中を向けたまま、


「ようこそ、世界のどん詰まりに」


 そうつぶやいて、椅子をくるりと回して、こちらに顔を向けた。


「あれ? もしもし?」


 ……いぶかしむように首をかしげる女性。


 放心していた。だってあまりにも顔が綺麗すぎる。妖艶ではなく、あどけなくもなく、かわいらしくもなく、美人でもなく、ただ、美術品のように綺麗だった。

 名画を生で見た時に一瞬魂を持っていかれるあの感じを、この女性は顔面だけでやってのける。


 だというのに、その顔立ちをうまく認識できない。

 語るべき特徴がなんにも思いつかないのだ。見れば見るほど印象がぼやけて薄れていくのだ。

 十数秒も無言のまま見つめ続けていることに気づいて、ハッとその女性の顔から目を逸らす瞬間、ようやく、女性の目が虹色だという見逃しようのない特徴に気づいた。


 ……なにもかもがおかしい。


 築五十年は経ってそうなオンボロアパートの外観より、殴れば突き破れそうな薄っぺらいドアに貼り付けられた『魔女の探偵事務所』の表札より、経年による劣化というどうしようもない要因を感じさせる汚い玄関口より、その顔面がもっとも僕に忌避感を抱かせる。


 だけれどここから逃げ出す選択肢は、もはや存在しなかった。

 ……生き物としての根源的ななにかが、この女に背中を見せるなと言っている。


「あの、依頼を、しようと思って」


 どうにかそれだけ絞り出す。

 ……声が高くなってしまったのは、上擦った、という理由もあるだろう。


 女性はすりガラス越しみたいにぼやけて見える綺麗な顔の中で、虹色の目を細めた。


「依頼の内容と、君のパーソナリティ、当ててみせよう」


 楽しそうに言った。


 そして、僕の姿を見て――ただ見られているだけなのに異常なまでに居心地が悪い――


「少年」


 と、人生で一度も迷ったことがないというような口調で僕に対し呼びかけて、


「君は、学生だ」


「え、はあ、まあ……」


 あまりに肩透かしで、反応に困ってしまう。


 それはまあ、わかるだろう。

 なにせ、僕は学校指定のブレザーのまま、ここにいる。さらにスクールバッグまで肩から提げているとくれば、社会人には見えないだろう。

 通う高校はここからかなり近い。近隣の情報を知っていれば普通にわかるだろうし、細かにチェックしていればネクタイの色から学年まで見抜いてみせるだろう。


 先ほどまでの侵しがたいような、ある種の神々しい忌避感は一気に薄れて、あとには『この探偵、大丈夫か?』という、建物の外観を見ただけでわかるような感想が残った。


 僕の中で急激に株を落としていることを察してかどうかはわからないが、女性はちょっと慌てたように、


「もっと知られたければ、やり方があるよ」


「知られたければというか、当ててみようとおっしゃったのは、そちらなんですが……あの、自己紹介が必要なら、ちゃんとしますので」


「君、高校生ぐらいなのにしっかりしてるね……」


 来客を立たせたままの社会人に言われると、自信を持っていいのかどうか判断に困る……というかこの部屋、客用の椅子すらもない。


 発言一つごとに神性が失われていく人は、


「君のことを調べたいので、髪か、爪か、血がほしいんだけど、いいかな?」


 いや……

 なんだろうその、どう切り出しても絶対に拒否されそうな申し出。

 少なくとも出会って五分、まともな自己紹介もない状態でする要求では絶対になかった。完全に頭がおかしい。


 ……だから、その申し出に応じることにした。


「いいですよ。どれがいいとか、あります?」


「一番いいのは心臓だね。それをくれるなら未来までわかるよ」


「そりゃあ、わかるでしょうけど」


 心臓をあげたら、未来もなにもない。

 死んでる。


 というか選択肢のうちからどれかを選んでくれという文脈でした質問なのだが、答えは返ってこないし、選択肢が増えた。


 ……話をするごとに、ここに来たのは間違いで、事務所名を見た瞬間に失笑して記憶から消すべきものだという確信が深まってくる。

 だからこそ、僕にはここしかなかったのだけれど。


「では、髪、爪、血……そうだな、血をさしあげます」


「ふぅん? じゃあ、ちょっと指でも切ってもらおうかな。てきとうな刃物を……」


「いえ。持ってます」


 内ポケットから剥き出しのカッターを取り出した。


 ……この刃の存在を秘しておく選択肢ももちろんあった。

 けれど、よくよく見ればけっこうごちゃごちゃして汚いこの空間にある『適当な刃物』とやらで指を切ることへの衛生面での抵抗感が、刃物を秘めておきたい気持ちに勝った。


 チキチキと刃を伸ばしていると、女性は首をかしげて、


「内ポケットからスッとカッターが出てくるんだ。……君、美術部?」


「……帰宅部ですよ。このカッターはさっき、買ったんです」


 購入理由の一つにはもちろん、いかにも怪しそうな探偵事務所に来るのに備えて、護身の意味合いもあった。


 すると女性はあごに長い指を添えてうなずき、


「ふぅん。カッターだけに?」


「……」


「『カッター』と『買った』がかかってるんだけど」


 これ以上ないというところまで僕から彼女への評価が下がったあたりで、『笑いどころがわからないのかな?』という感じで僕に向けてくる視線を無視しつつ、真新しいカッターで指先を切る。


 すぐに血が玉になった。

 僕はそれを垂らさないように指を上に向けた。


 女性はぼんやりこちらを見ている。


「……」


「……」


「……」


「……あの、この血をどうすればいいんですか?」


「ああ! いや、急に躊躇ちゅうちょなく指先を切る人、初めて見たからさ。つい、まじまじと見ちゃった」


「あなたが血を求めたんでしょうが」


「人を妖刀みたいに言わないでよ。そのまま、そのままね。テーブル……に落とされるとこびりつくし、これでいいか」


 と、女性は書類の下敷きになっていたティッシュボックスを発掘すると、ティッシュを一枚抜き出し、テーブルの上に広げた。

 それの上に血を落とせということらしいので従った。

 

 血の玉がティッシュの中心部に落ちて、にじむ。


 女性はそのティッシュの周囲に油性マジックでなにかを(テーブルに直接)書き始めた。

 鳥を象形文字にしたかのような紋様。その紋様を囲むように円。

 テーブルの上に油性マジックで描かれたそれは、直線にブレがなく、円もコンパスでも使ったかのように綺麗で、また少しだけ、女性の底知れなさが戻ってきたのだが、


「あっ……しまっ…………ねえ、少年。テーブルに油性マジックって、もしかしなくても、消えないやつだよね……?」


 いや、その……

 僕が世界の油性マジックのこびりつき具合を司る神かのように、すがるようにこちらを見られても、僕には決定権がないので、残酷な真実を告げるしかない。


「基本的には消えないですね」


「……!」


『親か恋人、どちらか一人だけ生かしてやる』と言われた人だってここまで絶望的な顔はしないだろうと思われた。

 ついつい憐んで託宣を下してしまう。


「あの、除光液とかで消えますよ」


「持ってないよ」


 僕の視線を吸い寄せるのは、女性の爪だった。

 薄いピンク色のつやめいたその爪には、あきらかにマニキュアを塗っている様子が見受けられ、除光液はマニキュアを落とす時などに使われる。

 つまり、高い確率で女性は除光液を持っていると推測された。僕が探偵になってるじゃないか。


 そのことを指摘するかどうか迷って言いあぐねいていると、女性が視線をティッシュのやや上部中空に移し、


「……あ、結果が出たよ!」


 女性はなにかを見て『結果が出た』と判断したようなのだが、僕の視界にはテーブルに描かれた魔法陣のようなものと、その中心にある血のしみたティッシュという光景が不変のままあるだけだった。

 あと、バンドエイドもティッシュも渡されないので、所作なさげに上を向けたままの自分の指がさっきから視界の下の方を占有している。


 ……なるべく、頭がおかしい人しか頼らないような探偵を選んだつもりではあったけれど……

 おかしさの方向性が、僕の求めていたものとは異なっている気がしてきた。


 けれど、ここから彼女への評価がまた一変することになる。


「君は、」


 と女性が口を開くと、すらすらと僕のパーソナリティがその口から出てきたのだ。

 名前、性別、年齢、誕生日、成績、家族構成。


 ……驚愕する。


 もちろん、女性がグダグダやっているあいだに僕を監視カメラかなにかで見た仲間が、ネットでも使って調べ、なにかの隙にそのデータを送信して女性に伝えたのだろうという現実的な解釈もできた。


 しかし、女性はそんな現実を粉砕した。


「君は国語の成績がいいけれど、自分では数学の方が得意だと思っている」


 とか、


「君は自分には合う服と合わない服だと、合わない方の服を選ぶ傾向があるね」


 とか、


「よくつるむ友達はいるけど、その友達が自分のことを気味悪がっているのだという、ほとんど確信と言える予想を抱いている」


 とか。

 内面にまで踏み込んだ、僕の様子をよほど細かく見ていてもわからないであろうことを、すらすらとしゃべり始めたのだ。


 しまいには、


「君は幼い時からお姉さんのことが大好きだったけれど、そのことは誰にも言ってはならないと、当時から確信していた。君がお姉さんのことを好きだと言ってしまうと、周囲が君を異常だと責めることをわかっていたんだ」


 だなんて人生の恥部まで切開されて、僕はたまらずこえを吐いた。


「やめてください。もう、充分です」


「心臓を捧げてくれたなら、もっと細かく、君がこれから経験することまでわかるよ」


 その言葉は先ほどまでとは全然違った底知れない響きをともなっていた。

 心臓を捧げたら死ぬに決まっている、なんていう常識的な感想を抱いた自分がひどく呑気に思えてくる。


 この女性の基準では――


 心臓を捧げても、死なないのかもしれない。


「さて」


 女性は椅子から立ち上がり――思っていたより背が高い――テーブルの下をくぐってこちら側に来て、


「じゃあ、依頼をこなしに行こうか。ついてくるでしょう?」


「ま、待ってください。僕はまだなにも」


「……ああ、そうか。そうだね。君が依頼を自分の口で語って、私がそれを聞いた上で承諾する――その儀式は大事だ。私はすでに君の依頼を達成してしまって、あとは君を答えの場所まで案内するだけという段階にいるけれど、君の中では、まだ始まってさえいないからね」


「た、達成した?」


「そりゃそうでしょう。では、儀式を始めようか。君がここに運んできた謎はなにかな?」


 虹色の瞳がこちらを見てくる。


 ……とうに捨て去ったはずの、『逃げ帰る』という選択肢が、これ以上ないほど魅力的に僕の心をつかんでゆさぶった。


 でも、ダメだ。


 だって、ここで逃げ帰るのなら、それは、あまりにも、まとも・・・だから。


「あ、姉を……」


 決意が言葉をつむがせた、とは思えなかった。

 僕のはらが決まりきる前に、僕の舌は言葉を紡ぐ。


「姉を殺した犯人を、


「請け負った。さあ行こうか」


 女性はさっさと僕の横を通り過ぎた。


 僕はなかなか動き出すことができずに、数秒固まってから、小走りにあとを追った。


 ぽたり、と。


 止血を忘れた指先から、ひと雫、血が床にこぼれた。

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