悪魔のささやき
うつくしい夕焼けが、まだらな黒で
装飾を散らしたワインレッドの上衣をひるがえし、ヒールを鳴らして着地する。
背に生えた
『やあ、ギル。こないだぶり』
そう言って、右手で持ったクッキーをかじり、左手で持ったカップを口につけた。
「イブリース。何をやっている」
『だって、急に呼ぶから』
イブリースがカップを手放すと、
ギルバートが、気を取りなおして
「ギルバート・ブレイデンの名において要求する。俺と
イブリースが、いきなりギルバートの口にクッキーをつっこんだ。
眉をひそめたギルバートが、数秒のちにおとなしく
クッキーを飲みこむと、複雑な表情でイブリースをにらんだ。
「なぜアンジェリカが作ったクッキーを持っている」
『よくわかったね!? あはは、ギルきもちわるい!』
「また勝手に
ばれると色々と面倒なので、いまのところ、国王には秘密である。
『それよりギル。その右耳のピアス、説明してほしいな』
「これか?
右耳を見せてやると、イブリースがなぜか半眼になった。
『ふーん。エリオットとおそろいで
「おそろい? 同じ術具なんだから、あたりまえだろ」
『ギルはそういう認識か』
「それより、さっさと融合しろ」
『そんな顔色で、耐えきれるの?』
「寝ていないだけだ。魔力は残っている」
『微量すぎて、働く気になれないよ』
やれやれ、とイブリースが首を振る。
『言ったら聞かないからな、僕のご主人様は。報酬がもらえるまで、またブレイデン公爵家で待機か』
「一流シェフのディナーが食べられるぞ」
『デザートにフォンダンショコラ出る?』
「作らせよう」
『さっすが次期当主!』
パチン、と指をならしたイブリースが、ギルバートの背に抱きつく。
『ああ、そうだ。
「は!? おまえがクッキーをつっこむからだろ!」
ギルバートは身をよじり、背中のイブリースを追い払おうとする。
イブリースが笑って、ギルバートの背中に溶けこんだ。
温暖な昼間とは違い、
肺に
乗騎する竜が、なにかを知らせるように短く鳴いた。
ゼノが周囲に目をやると、夕陽をふくんだ赤い雲に、複数の影がちらついた。
「――魔鳥イクティノス」
つぶやくと、雲の切れ間からそれが飛来した。
見た目は巨大な
ゼノは
つがえた矢は白銀、
当たれ、と念じて矢を放つ。
風切り音とともに飛んだ矢は、イクティノスの脳天を弾き飛ばした。
「やるな、ゼノ」
レスターが竜を寄せて、ゼノを
「
「魔獣の弱点だからな。傷さえ付けば、勝手に死んでくれる」
証明するように、レスターが振るう白銀の
その向こうがわで滑空する翼を、ゼノが射抜く。
翼がはじけた魔鳥は、あっけなく落下した。
白銀の圧倒的な攻撃力に、ゼノは感嘆のため息をついて、矢を撫でる。
「ほんとうに頼りになるな」
「――俺は?」
「もちろん。いちばん頼りにしていますよ、レスター先輩」
笑いをこらえて、ゼノが返す。
冗談に聞こえたかもしれないが、まぎれもない本心だ。
さきほど、空におおきな魔術陣が現れるやいなや、エリオットが真顔で「回収してくる」と言い残して離脱した。
ふたりきりで討伐を
「この調子なら、すぐに
「だからって、気を抜くなよ。イクティノスは、気配を消して後方から
「背中合わせで戦います?」
「それより、上に注意しろ。すさまじい高度から降下してくると――ゼノ!」
なにげなく空を見上げたレスターが叫ぶ。
ゼノが反射的に
振り返ると、直前までいた場所に、魔鳥が連なって飛び込んできた。
ざっと見ただけで、十羽はくだらない。
レスターがおおきく槍を振るう。
数羽が死に至るが、半数以上が
弓が武器のゼノは、身を守る術がない。
たまらず逃げの一手を取るが、
左右から飛び込んでくるイクティノスに、竜が急停止して身をよじる。
背負った
ゼノはとっさに手を伸ばす。
「つかんだ――!?」
喜んだ矢先、浮遊感に凍りつく。
手をついた先に竜がおらず、
「――ぁぐっ!」
あげた悲鳴が、
ベルトについた命綱が、限界まで伸びて、ゼノを救った。
ゼノは、犬のように、ハッ、ハッと短く息を吐く。
逆さまの世界で、発狂しそうになるのを、理性で押しとどめる。
背骨が
天に昇った一羽が、急降下してくるのが見えた。
――迷えば死ぬ!
竜の横腹をかかとで踏みしめ、空と水平に身体を保つ。
「当たれ!!」
魔力を込めた白い矢は、光となってイクティノスを
「やった――!?」
落下する羽毛の影から、新たな個体が
視界の端を、赤い炎を横切った。
ゼノに爪をかけたはずの魔鳥が、爆音をたてて砕け散る。
強烈な熱風にあおられ、竜ごと回転した勢いを味方に、
うろたえる竜の手綱を引き、首をたたいて
ゼノを助けたのは、正確で強大な炎の魔術。
それを
周囲に
「ギルバート団長!」
ゼノの声に、黄金の瞳が
彼は抜刀する動きで、ついでのように近くの魔鳥を断ち切った。
ギルバートは、散らばった鳥に特攻し、次々にとどめを刺していく。
漆黒の魔術剣は、白銀ほどの攻撃力は無い。
それでも彼は、圧倒的に強く、
魔鳥を
つられてそちらを見たゼノは、新手の群れの存在を知る。
風に乗って聞こえてくるのは、仲間に警告をうながすような、短く繰り返す鳴き声だ。
ギルバートが身をひるがえし、空を駆ける。
群れの中央に突っこみ、両腕をおおきく振り払った。
「
天と地を分かつように、火炎が水平に空に広がる。
魔鳥を飲みこみ、大爆発を起こした炎は、辺りを昼間のように明るく照らした。
絶命したイクティノスが、雨のように地上に落ちていく。
「ギルバート団長! 突出しすぎです!」
叫ぶエリオットが、ギルバートの取りこぼした魔鳥を、確実に一羽ずつ仕留めていく。
竜騎士団の
レスターの竜が、おおきく
「ゼノ、無事か!」
「はい! ……でも、矢が」
地上は
「こんなこともあろうかと、持ってきた」
レスターが予備の矢筒を放って寄越す。
受け取ったゼノは、白銀の矢束に顔をかがやかせた。
「――ありがとうございます!」
「頼りになる先輩で、よかったな」
いつもどおりのまったく気後れしない態度に、ゼノは
ゼノには無い強さ、それに近づきたくて、感情がうずく。
与えられた矢筒を背負い、白銀の矢を引きだす。
白い矢じりは、まばゆいほどに陽光をはじく。
その
ギルバートは浮遊したまま、周囲を見渡す。
炎が消えた空は、薄墨を垂らしたよう、すでに
急激に暮れる太陽に、肉眼で見える距離が縮まっていく。
そう遠くない場所に竜の影が三頭、空中にそれ以外の気配は無い。
魔術剣が、白刃に戻る。
魔力が切れる前に
「……アンジェリカ」
最愛の妹との休暇が確定し、ギルバートは
肩でおおきく息をつくと、ゆるい
ここで気を抜いて
剣を収め、合流しようとギルバートが羽ばたく。
『ギルバート、上だ!!』
通信術具のするどい声に、考える前に体が動いた。
かざすように
目を見張るほどの太い
魔力を流しそこねた白刃があっけなく折れて、
「ぐっ!」
握り潰されたギルバートの翼が、音を立てて折れる。
ギルバートの
――消滅してしまう。
まばたきする間もない一瞬、
――アンジェリカとの休暇が!
痛みが怒りに変わる。
傷付くこともかまわず、蹴爪から
「低位魔獣のぶんざいで!!」
魔術剣の
片目をつぶされた鳥が、悲鳴をあげて暴れだす。
ふりまわされた堅い
すさまじい衝撃に、ギルバートの息がつまる。
骨にひびく打撃音が脳を揺らし、聴覚が消えた。
焼けるような痛みのなか、こめかみから耳朶に熱い液体が伝う。
まぶたの奥から、世界が白に浸食されていく。
かすかに残る視界のなかで、白い光が一閃する。
魔鳥の胴体に白銀の槍が突き刺さり、そこから鳥が破裂した。
空中に血のりをばらまきながら、ギルバートが
極限まで竜を
「受け止めました!」
後方に向け、ありったけの大声で報告を飛ばす。
すくいあげるように飛翔した後、平らな地面に着地した。
すぐさま竜の背から彼を下ろす。
竜が足を折りまげて、
ゼノは魔術で光球を
明りの下で見るギルバートは、想像以上に
漆黒の翼は折れて、あらぬ方向に曲がっている。
融合した魔人の肌は白いが、それを抜きにしても生気が感じられない。
大量の
「ギルバート団長、聞こえますか!?」
呼びかけに、ギルバートの
彼の意識が
ゼノは
さきほど彼に助けられたばかりなのに、イクティノスのボスが出現したとき、まったく動けなかった。
矢が届かぬ距離だとはいえ、敵に一番近かったのは自分だ。
エリオットがイクティノスを倒さなければ、どうなっていたかわからない。
「せめて、応急処置を」
自分の無力さを
――俺だって、すこしは役に立てるはずだ。
なぜか、強くそう思った。
それでも止血ぐらいはできる、とギルバートの
レスターとエリオットが、間近に竜を着地させる気配がした。
「――術式展開」
「待てゼノ!!」
「え?」
つよい制止に、ゼノが振りかえる。
治癒魔術が発動し、ゼノの手のひらが淡く光った。
「――あああ゛!!」
ギルバートが絶叫する。
視線を戻したゼノは、ギルバートの傷が広がり、血が
気付くと、背後からレスターに
なにが起こったのか分からない。
それでも、自分の治癒魔術が原因なのは間違いない。
よけいなことをしてしまった――
後悔に震えるゼノの耳に、エリオットの
「動くな、ギルバート!」
「ぅっ……ぐ!」
エリオットが、
折れた翼が地をたたき、彼が移動したわずかな距離、その地面が血でどす黒く変色している。
「れ、レスター先輩……」
ゼノは青い顔でレスターを
痛ましげにギルバートを見やるレスターが、静かに告げる。
「
「す、すみません、俺……」
どうしてだか、頭の中は自分の能力を
欲求を満たす行動をすべきだと、耳元でずっとささやかれているような気分だった。
「伝えていなくて、悪かった」
「いいえ! ……先走った、俺の
「そうじゃない。悪魔の
思ってもみないことを言われ、ゼノはレスターを見返す。
「瘴気は人の
レスターは、失敗した子供を見守るような目をしていた。
そうではない。
自分は役立たずではないと、証明したかっただけだ。
否定を口にする前に、レスターがつづけた。
「ちなみに俺は今、きれいなお姉さんといいことがしたい」
「――えっ!?」
「話なら後で聞いてやる。美人ぞろいの店でな」
「……焼肉がいいです」
こぼれた本音に、レスターが破顔した。
「それじゃ、さっさとエリオット副団長の『回収』を手伝って帰るぞ。来いゼノ!」
「はい!」
ゼノは歯切れよく返事をする。
こんどは自分のためではなく、ギルバートを救うために行動する。
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