第2話

 その甲斐あって牛男もよく懐き、と言いたいところだが、牛男には愛想がなかった。思えばハムスターは鈍くさくて警戒心が薄かった。それと比べれば牛男はもう少し野性的で、抱こうとすれば暴れ、かまおうとすればソッポを向いて逃げた。そのくせ放っていたら後を着いてくる。なんのつもりか知らないが、歩いている人間の足の間を通り抜けグルグルするのが好きだった。


 夜中ケージの中でガサゴソうるさいので、出してやって、そのまま朝まで放し飼いにしてやることが多かったが、寝ていると寄ってきて、布団の上に乗っかった。腹の上なんかだとまだいい方で、どういう分けか、寝ている俺の頭の上に乗っかって、鳥が止まり木の上に居るみたいに、そのままジッとしている事もあった。それでも、絶対に一緒に寝ようとはせずに、布団に入れてやったり抱いたりしてやろうとすると必ず逃げた。猫のように気まぐれだが、草食動物なせいか、猫ほど無防備に人に身を任せることはなかった。


 牛男は夜中に寝ている人間の邪魔をすること以外にもうひとつ、ものを囓ることにも熱心だった。夏は扇風機、冬はヒーターのコードを囓るのがお気に入りだった。チャールズ・ブコウスキーの『町で一番の美女』という本も牛男のお気に入りで、どういう分けか何冊も置いてある俺の本の中から、毎回町で一番の美女を狙って表紙を食った。いい趣味をしているなと思った。


 キャロルが可愛らしい赤ん坊だとすれば、牛男はもう少し年長のもの、元気にご飯を食べて、ちゃんと寝て、あとは好きなことをしていれば安心する。母はそんな風に彼のことを扱っていた。


 たまに外に連れ出していて、母が善モードの時は公園で遊ばしていた。まだ子ウサギの頃はカラスや野良猫がやって来ると固まって動かなくなるなんてことを言っていたが、かなりデカくなってから、母と牛男の花見に付き合った俺が見たときには、他の動物に怯えることなく、ノビノビと遊んでいた。後年は無駄に広いL字型のベランダで牛男の小屋を掃除していると、横でおとなしく様子を見ていた牛男が、ベランダの中に進入してきた野良猫をダッシュで追いかけていくというようなこともあった。そのまま、とても通れるとは見えない、隣との仕切りの狭い隙間を通ってしばらく帰ってこなかった。早くて逞しいウサギだった。


 酔っ払いというのは絶対に懲りないもので、ダーティーなモードの時には、母は飲みに行くのに牛男を連れ出した。キャロルを入れていた、あのトートバッグに突っ込んで。


 住んでいた家の二十メートルかそこら先に、社だけの小さな神社があって、母は酔っ払った状態で、そこまで辿り着いて力尽きることが多々あった。俺は夜中にそこで俯せで眠る母と、起こそうとしているのか、母の頭を掻いている牛男を見かけたことがある。とりあえず心配なので、牛男だけ連れて帰った。翌朝、母は泣きながら帰ってきて、「牛男がいない!」と叫んでいたが、ケージの中にいる彼の姿を見て崩れ落ちながら安堵していた。


 部活帰りと思われる、坊主頭の高校生が、母と牛男を両脇に抱え、「そこの神社にいました」と連れて帰ってきてくれたこともある。思い出すたびに、もう少し丁重に高校生へ礼を言っておきたかったという気持ちになる。


 デカいから無くさないとかそういう問題ではなく、牛男はその優しさから、母の元からいなくなることはなかった。


 母のことをヤバい奴だと思いながらも、フラフラとどこかへ行ったり、家に帰ったり、二十代の間中、俺は実家のことを都合よく使っていた。三十になる少し前に、付き合っていた女性にフラれて、それでどこかへ行くような元気がなくなって、フラフラせず家にいた時期がある。起きてから寝るまでの間、ずっとウィスキーを飲んでいて、出かけるときはスキットル型のトリスの小瓶を持ち歩いていた。ツイていないことが重なる時期で、アル中みたいに酒を飲む期間は長引いた。


 最初はジョニーウォーカーとアーリータイムスを交互に買っていたが、金がどんどん無くなっていくので、途中から、『凛』というウィスキーを名乗る、アルコール入りのどぶ水を飲むようになった。それだけ飲んでいると、ションベンが異様に近くなる。トイレに行くたびに、牛男は不審な表情で俺を見ていた。たまに気まぐれで撫でてやると、牛男はグイグイと頭を手のひらに押しつけた。そんでお返しのように、俺の手を舐めてくれた。雄弁は銀、沈黙は金なんて言葉はウサギの為にあるようなもので、俺がどうしようもないことをウジウジと言うのを牛男は黙って聞いていた。優しくて、彼自身はなにも文句を言わない寡黙な男だった。

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