夏は恋。秋は深まる。冬は棚上げ。春はさよなら。そしてそれから……。

夏秋冬春・第41話 ゆしかと真心①『よかった』とは言えませんが……決して無駄じゃなかった

 その渓谷の流れは、まるで薬品を混ぜたような鮮明さだった。


「本当に蒼いな」


 蒼というよりエメラルドグリーン、という表現のほうが近いかもしれない。流れの緩やかなところほど色は濃く、かき氷のシロップよりもビビッドだ。

 自然界でこれほど蒼い色を、真心は見たことがない。それなのに周囲の木々や岩と調和しているのがとても不思議で、ただ見ているだけなのに飽きない魅力がある。


 首から提げたカメラで、何度もシャッターを切った。

 撮ることによって、自分がその一部に溶け込んでいくような感覚を持った。

 遊歩道は主に上りで、脚と心臓に負荷がかかったが、ちゃんと整備されている。普通に歩くよりは大分ゆっくりなペースで進んで、しかし数十分後には、最奥部に至った。


「おお……滝だ」


 見晴台から見下ろせる場所に、放射線状に広がる滝があった。落下した水が溜まる周囲は水深が深いのか、一際蒼く見える。

 真心は肩に掛けていたバッグから折りたたみ式の三脚を取り出しながら独り言を言った。


「よし、セルフで撮るか」


          △


「やだ」


 結局ひとしきり笑った後、真心のプロポーズにゆしかはこう返答した。


「わたし、別に結婚したいとは今のところ思ってないからなあ」

「い、一緒に生きるってそういうことじゃねえのか?」

「そうかな? てゆーか真心だって堂々とわたしの身内として振る舞いたいだけでしょ?」

「それのなにが違う?」

「少なくとも付いた名前の固定観念で見られるのを、わたしが好まないのは知ってるでしょ」

「そりゃそうだが、なんつうか、覚悟というか、けじめというか」

「うわ、うざったい。じゃあ訊くけど、真心にとって結婚ってなんなの?」

「……マジで答えればいいのか?」

「うん」

「様々な法制度上の優遇を受けられる国の制度だ。税制、社会保険なんかの配偶者控除は結構でかいし、結婚後に築き上げた財産は夫婦共通のものになるから、仮に離婚すると折半になる」

「夢も希望もない答えをありがとう」

「夢も希望もあるだろ、現実的に。少なくともお前にとって、メリットはたくさんあるさ」

「メリットでするもの?」

「そういう側面もある」

「なら、やっぱやだ。損得が先に来るうちは、しない。わたしがちゃんと働いて、真心も『してもしなくても変わらない』ってなったとき、したくなってたらする」


 言い切ったゆしかの口調は、現実逃避をしている風でも、遠い未来の仮定を語る風でもなかった。確実に将来実現しようという思いを感じさせる目と声だった。

 真心は「さっきまでの涙はどこへ行ったんだ」という感じで、溜息をつきながら苦笑した。


「解ったよ」




 結婚はしていないが、一生を共にしたい大切なひとが、命の危機に瀕している。

 この国の社会通念では、こういう説明を理解してもらうのはとても難しいだろう、と真心は考えた。だからこそ「結婚しよう」という結論に至ったのだが、断られたのでは仕方がない。


 真っ向から、会社にも、ゆしかの叔父夫婦にもぶつかった。何度も説明の仕方を変えて訴えた。それはまるで、美術品の真贋を主張するような難しさを伴う行為だった。

 そしてその結果、叔父夫婦には、ゆしかが信頼を寄せる相手として認めてもらった。


「ゆしかさんは俺の全てです。なにを投げ打ってでも支えたい、一緒に生きていくひとです」


 叔父は噂に聞いていたとおりゆしかにあまり関心がないようで、外面は悪くなかったが「自分のために愛想を振りまく人種」だと、社会人として多くのひとに会ってきた真心にはすぐに解った。世間体を気にしなければ、内心は願ったりというところなのだろう。


「うん。つまり、婚約者ということだろう。それでいいじゃないか、君たちがなにか思っているのは解ったが、僕たちや周囲にとってはそうしよう」


 叔父との話が終わった後、残った季子からは涙を浮かべて頭を下げられた。


「ごめんなさい……私は、あの子に酷いことを」


 張り詰めた糸のような精神状態にあることは、面識の少ない真心にも解るくらい悪い顔色だった。何故、夫である叔父や、子どもたちはそれに気付かないのか、気付いていて無視しているのか……真心は季子をむしろ気の毒に思った。


「頭を上げてください。ゆしかはきっと、あなたを責めたりしません。それどころか、感謝しているはずです。

 こんな話は本来不謹慎なのでしょうが……とても悲しく、不運な出来事を含めて、ゆしかがこれまで歩んできた道のりがあったからこそ、俺はあいつに会うことができた。

 もうあとはただ食って寝るだけの無味乾燥な人生を消費するだけだと思っていた俺も、これまで経験したことがひとつでも欠けていたら、ゆしかに会うことはできなかった。

 そう思うと、過去のつらいことも『よかった』とは言えませんが……決して無駄じゃなかった、全てが、必要だったんだと今は愛おしく思えるんです」


 季子は肩を震わせて無言で泣き、真心はそれが落ち着くまで近くでじっとしていた。




 ゆしかはその後さらに、身体だけでなく、精神的にも弱り切って不安定になっていった。

 しばしば真心へ別人のように八つ当たりをすることもあった。

 優しい言葉も逆効果になり、自己嫌悪に押し潰されそうになった。

 それでも真心はもう、離れることはなかった。ゆしかが苦しむのを、すぐ傍で見つめ、穏やかな声を掛け、寄り添った。


 やがて髪は大半が抜け落ち、眼球はくぼみ、自力で歩くこともできなくなった。

 その骨に皮が付いているだけの細さになった手足に触れると、生きているのが不思議なくらいだった。命が、少しずつ身体からこぼれ落ちていくみたいに見えた。


 長い、長い闘病生活だった。

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