春・第33話 答弁をする政治家のような①ベッドの上で言った

「桜を見に行こう?」


 四月も終わりかけのころ、ゆしかは自宅のベッドの上で言った。


「この前見たろ?」


 真心はマスクをして、その傍らにあぐらをかいている。

 微熱の続くゆしかは近頃、大学の講義やバイトを休みがちだ。平日、真心の家にしばらく現れなかったので、問い正したところ「季節の変わり目で、風邪を引いた。病院で薬はもらってきたし、大したことはないけど、うつしたら申し訳ないから」と言っていた。


 真心は「早く言え」と怒り、ゆしかの家に連日通うことになった。マスクと手洗い、うがいを徹底し、平日は仕事が終わってすぐ様子を見に来て、休日も朝から看病をしている。


 大げさなんだよ、と言いながらゆしかも逆らわない。ずっと寝たきりというわけではなく、むしろ大学やバイトに行く日のほうが多いが、帰ってくると力尽きたようにベッドに突っ伏す日々が続いていた。

 そんな中での「桜を見に行こう?」だったから、真心は困惑していた。


「県を跨いで大分南のほうにさ、樹齢五百年の桜が二本あるんだ。知ってる?」

「……ああ、あそこか」


 昔、周辺地域の名所を元妻と巡っていた真心には、すぐ想像がつく。その名を口にすると、ゆしかが「正解」と肯定した。


「確かにあそこは山のほうだし、開花が遅いから見頃は今だな。でもどうして?」

「……んー、なんとなく、だけど。凄いんでしょ?」

「俺も行ったことはないよ。まあ、桜並木とか山一面の桜じゃないのに有名なくらいだからな」

「一度、見てみたいんだよね。ずっとそう思ってた」

「でも今は、身体を治すのが先だろう」

「桜は待ってくれないもん。来週にはもう葉桜だよ」

「そりゃそうかもしれないが……悪化して寝込んだりしたら、ゴールデンウィークも寝たきりになるぞ。新緑とか、撮りに行くんだろ」

「大丈夫、だってば」


 根拠はない、と知れていた。真心は首を縦に振らなかったが、この日のゆしかはなかなか納得しなかった。やがて不機嫌になって口をつぐみ、昼食も夕食も摂ろうとしない。


「おいゆしか、怒るぞ。飯を食わないと体力も落ちる一方だし、薬も飲めないじゃないか」

「……じゃあ、桜」


 ゆしかは元々強情で、我が儘である。

 しかし、こういう我が儘の通し方をすることは今までなかった。真心は根負けする。


「……明日連れてくって約束したら、飯食って薬飲んで寝るか?」

「うん!」ゆしかが手を伸ばし、真心の頬に口づけをする。「ありがとう真心!」

「こら、よせって。興奮したら熱が上がるぞ」


 引きはがしながら真心は困った笑みを向けた。




 しかし翌朝、真心がゆしかの家へ迎えに来ると、ゆしかの顔は尋常でなく赤かった。


「やあ。じゃあ行こっか」


 玄関から顔を出したゆしかは出かけるための身支度を済ませていた。


「お前……熱は計ったか?」

「え、うん。いつもと変わらないよ」

「もう一度計れ」

「えー、大丈夫だって。どんだけわたしが大切なのさ」

「いいから計れ!」


 思わず怒鳴ると、ゆしかは身体をふらつかせ、そのまま足をもつれさせて尻餅をついた。


「あれ? はは……なんだよ。大きな声出すからびっくりした」


 言い訳にしても声が弱々しかった。目が半分くらいしか開いていない。

 部屋に連れていってベッドに座らせ体温計を脇に挟ませる。十数秒後、電子音が鳴る。

 熱は、三十八度の後半だった。


「……いつからだ」

「あ、なんでだろ。壊れてるのかな」

「頼む。答えてくれ」

「ほら、早く出発しないと。着くまでに暗く」

「行けるはずないだろう。そんな身体で」

「や、だって……約束」

「すまん。聞けなくなった」

「や、やだよ。だってさ」

「頼む。体調が良ければ来年必ず連れていくから、寝てくれ」

「約束……したのに」


 言いながら、ゆしかの身体から芯が溶けてなくなったかのように脱力し、ベッドに倒れ込む。


「ゆしか!」


 今まで堪えていたのだろう、目を閉じた途端、全力疾走した直後のような荒い呼吸になったゆしかの額に真心が手を当てると、冗談のように熱かった。そのくせ指に触れると、氷水に浸けていたかのように冷たい。


 真心はゆしかの身体を横たえ直し、毛布を掛けた。ひとまず冷蔵庫に入れておいた冷却シートを額に貼り、コップに水を入れ、ゆしかが病院から貰ってきたという薬の中から、解熱剤を出す。ゆしかの耳元で「おい。聞こえるか。とにかくこれを飲め」と言った。

 背中に手を差し込んで僅かに角度を付け、玉薬をゆしかの唇に差し込む。続いてコップの縁を口に付けさせて傾けると、ゆしかの喉が鳴った。

 飲み込んだことを確認してから、ゆっくり身体を寝かせて、真心は目を閉じた。


(落ち着け……落ち着け)


 頭の中で、やるべきことを整理した。そして再びゆしかの耳元に口を持って行って、


「必要なものを持ってくるから、少し外出する。すぐに戻ってくるから待ってろ」


 聞こえているかどうか解らないが、真心はローテーブルをベッドのすぐ隣に持ってきて、その上に冷蔵庫から出したペットボトルの水と、コップを置いた。

 念のためメモを残そうと思ったが、紙もペンも見当たらず、仕方ないので言ったのと同じ内容をSNSで送った。鍵を借りて家を出る。


 そして車で一番近いドラッグストアに行って、スポーツドリンクとゼリーとプリンとカップアイスなどを大量に買った。家に戻り、冷蔵庫にある食材と、幾つかの調理器具をバッグに放り込む。さらに冷凍庫へ入っていた氷を全て袋に入れ、ハンドタオルも何枚か持った。


 ゆしかの家に戻ると、さっきと変わらない姿勢でゆしかは寝ていた。熱で身体が痛むのか、顔は歪んでいる。まず手洗いとうがいをしてからマスクを着け直し、ひと声掛けた。


「帰ってきたぞ、ゆしか。待たせてすまん」


 台所に戻って、食材などを冷蔵庫に入れて、それから氷を幾つかの小袋に分け、残りは冷凍庫に保存した。小袋をハンドタオルで包んで、ベッドサイドに行く。


「いいか。熱が高過ぎるからまず下げるんだ。脇と首を冷やすぞ」


 一応声を掛けてから、ゆしかの着ているシャツのボタンを幾つか外して、服の中に手を差し込んで両脇にひとつずつ挟む。首の後ろにもひとつ差し入れる。


「う……」


 冷たかったのか、ゆしかが僅かに呻く。

 真心は毛布を掛け直し、それからゆしかの手足を触る。やはり全く血が通っていないように冷たかったので、ゆっくりと、力を入れ過ぎないようにさすっていった。

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