冬・第30話 幸せなんだよ②世の中『先っぽだけ』って言って先っぽで済んだためしはねーぞ!

 それから真心は、淡々と、運転の暇潰しみたいに語った。


「彼女は大学の同級生で、元は友人だったこともあって、端から見ても仲の良い夫婦だったと思う。俺たちは旅と写真を好み、学生のころから毎月のように出掛けた。そのうち旅を写真に収めるのではなく、写真を撮るために旅をする、という風に変わったくらいだ。


 卒業して間もなく、元からそう決まってたみたいに籍を入れた。それから数年、小競り合いのような喧嘩は数え切れないほどしたけど、幸せな家庭を築けていたと思う。俺たちは同じものが好きで、いつもたくさんの言葉を交わした。


 その日常が唐突に途切れたのは、懐妊がきっかけだった。

 いや、もちろん子どもができることが悪いわけじゃない。俺は戸惑いながらも喜び、家族が増える準備をして、一緒に将来を語り合った。


 だが二ヶ月目に、彼女が体調を崩した。

 妊娠の初期症状のひとつだから大したことはないと、彼女は笑った。微熱が続き、時々高熱になった。それが一ヶ月続き、流産の危険がある、と産婦人科で診断された。直ちに大病院で精密検査を受け、数日後に診断結果が出た。


 世界的に症例が少ない『極めて稀な疾患』だとさ。


 原因は解らん。妊娠で免疫が落ちてたからかもしれない。その病の進行は極めて早く、とにかく彼女は、既に一歩間違えれば命を失う状態だった。


 胎児は諦めるしかない。

 医者に言われ、気が遠のいた。だが彼女ひとりに選ばせてはならないと思った。

 あの子を見捨てたのは、俺だ。


 それから、彼女の闘病生活が始まった。

 彼女はとても頑張っていた。無菌室に隔離され、抗がん剤で少しずつ痩せこける彼女を見て、俺は毎日狂いそうだった。だが彼女のほうがずっと苦しいと思うと、目を逸らせなかった。


 一ヶ月を過ぎたころ、寝たきりながら彼女の容態は徐々に安定しつつあった。そして数時間かけて、胎児を、分娩した。俺たちは、その子を、火葬した。


 それからさらに一ヶ月近くが経ち、彼女は寛解し、要通院、経過観察という前提で退院した。


 けどな。本当にきつい日々は、そこからだったんだ。


 時間が経つにつれ、彼女は俺を苛むようになった。『もっと早く病気に気付いてくれれば』『あなたのせいで、一生再発のリスクを抱えて生きなきゃいけなくなった』となじった。


 もはや俺と彼女の間には大きな認識のずれが魔物のように横たわり、どんなに言葉を尽くしても、まるで違う時間を生きる住人のように噛み合わなかった。


 やがて彼女と彼女の親は俺に離婚を迫り、数年の間に調停を経て裁判になっても対話を求め続けたが……結局は俺も受け入れた。


 彼女は俺とのそれまでの全てを否定した。一緒に思い描いた将来の温かさも、家族が増えると知ったときの幸福感も、数え切れないほど見せてくれた笑顔も……出会ったことそのものが間違いだったと、なにもかもを黒く塗り潰した。


 けど俺には、あの積み重ねた日常全てが間違いだったとはどうしても思えなかった。


 だから、ゆしか。

 俺は本当に最低の屑野郎だ。


 不治の病と闘って亡くなってしまうひとの物語は、世の中にごまんとあるだろう?

 あっちのほうがましなんじゃないかって、一瞬でも思っちまったんだ。


 もし彼女が闘病の末に亡くなっていたら、きっと俺は一生、彼女の墓を綺麗に保って、褪せない記憶の中で彼女を愛し続けることができた。でも彼女は生き延び、俺を人生の汚点にした。もう、仮に先に亡くなっても、俺に墓参りをしてほしくはないだろう。

 それを俺は、彼女が死ぬよりもつらいと思ってしまった。


 大切なひとが病で亡くなる以上に、全てが間違いにされて葬られてしまうことが、怖い。なにが『本物』なのか解らなくなることが、なによりも恐ろしい。


 彼女と一緒に生きていたころ、俺には手の中にあるものが『本物』だって確信があった。

 けど今はもう、自分がひとを愛する気持ちも、誰かが俺を愛する気持ちも、心底信じることができねえ。そのときは『本物』だと思えても、いつそれがひっくり返されるか解らねえって怯えが、常に張り付いてる。

 だから、お前の想いをはぐらかし続けた」


 そこで真心は一旦言葉を切った。あくまで平坦な口調だったが、なんでもないことのように語るなんでもないわけがない内容に、ゆしかは酷く打ちのめされた。


 言葉が出てこない。ずっと知りたいと思っていたことを聞いたはずだったのに。

 ひとり暮らしなのにどうして一軒家に住んでいて、家具が多人数向けなのか。どうして夜、うなされているのか。どうしてゆしかの好意をはぐらかし続けたのか。


『お前がこうして俺の前にいてくれることに、心から感謝してる。

 でもお前が、俺のことを、大切に思う必要なんてないんだ』


 そう言った理由。全てが繋がった。なのに、だからこそ、心臓が痛んだ。

 真心が大きく息を吸い、もう一度口を開く。


「正直な気持ちを言ってもいいか?」


 もちろんゆしかに首を横に振る選択肢はない。しかしとっさに声が出ず、躊躇うような空気になってしまった。「言って」と、ようやく捻り出すまでに随分長い間ができた。


「……俺は、お前に出会えたことを奇跡だと思う。お前と過ごす日々はまるで人生をやり直してるみたいで、感謝しかない。

 でも同時に、ぶっ壊れかけてる俺の人生に、お前を付き合わせたくないんだ」


 それはなんの結論も案もない、ただの素っ気ない思いだった。しかしそれだけに、一切の嘘はないとゆしかは受け取る。


「解るよ」


 と、小さく呟き、数秒後にもう一度、噛み締めるように繰り返す。


「よく解る」


 そのまま、長い沈黙が訪れた。

 車のタイヤが地面を滑る音をやけに大きく感じながら、ふたりは前方を見続けた。


 やがて家が近付くにつれ、ゆしかが力尽きたようにダッシュボードへ頭突きした。そしてその姿勢のまま右手を伸ばし、真心の肩に力の入らない猫パンチをする。


「……で、どーするよ絶望おじさん。わたしたち、これから」


 おどけたつもりはなかった。もはや迷宮の袋小路に行き着き、脱力するほかないのだ。


「……だよなあ」


 真心も同じ思いなのか、運転する横顔は疲れ切って気が抜けている。


「一応確認だけど、お前『もう放っておいて』的なこと言ってたけど、本音では嫌だろ?」

「そりゃあね……」


 再び、間ができる。

 しばらくしてから不意に真心が、側道に車を停車させた。


「え、なに? どしたの?」


 真心は車を停めた割には、ゆしかのほうを向いていない。ハンドルを握ったまま、フロントガラスの遙か向こう、空にUFOでもいないか確認するような目をしている。そして、


「棚上げするか」


 と言った。


「……は?」

「互いの事情を少しは理解した。で、だからこそ正直進むのも引くのも難しい、だろ?」

「……そう……だね」

「だから、聞かなかったことにはしねえけど、聞いた上で、一方通行同士の関係でいかねえか。俺は勝手にお前を大切にする。お前は勝手に俺を大切にすればいい」


 目を丸くしてからゆしかは真心と同じような、やる気のない半眼に変わる。


「……それって、真心が言ってた『相互に思い合ってるかどうかは関係ない』ってやつ?」

「ああ、そっか…………そうなるな」

「つまり、今までと同じってことじゃない?」


 今気付いた、というように真心が「ああ」と手を打つ。ゆしかに顔を向け、微かに笑った。


「でも、今までと違って、約束できるぞ。お前に踏み込まない以上、他の誰にも踏み込まない。俺はお前を勝手に、一番大事にする」


 ゆしかはダッシュボードに突っ伏すのをやめて、シートにもたれかかる。わざとらしい大きな溜息をついて、口角を引きつらせた。


「格好いいこと言ったつもりかもしれないけど、相当ヘタレ発言だからね? それ」

「う……そうだけど、正直ではあるぞ……」

「いいよ」


 梅干しを頬張ったような顔をする。


「どうせわたしも、真心以外要らないし」

「あ、いや……それは別にいいんだぞ? 他の男を好きになっ」


 発言の途中で真心は顔面に猫パンチを受ける。


「ほんとわたし、お前のそーいうとこ嫌い」


 眉間に皺を寄せて睨んでから、ゆしかは真顔に戻る。


「いいけどさ。ひとつ条件、っていうか、お願いを聞いてよ」

「……お願い?」


 真心は鼻面を押さえて涙目で見返す。ゆしかは真心の肩に手を置いて握った。


「その万年無精髭、剃って」

「あ? なんで……」


 言いかけた途中で、ゆしかは引き寄せながら真心の頬に唇を付ける。

 触れた、と真心が思ったときには既に離れていた。


「こーするとき、じょりじょりするから」

「な……なにしてんだお前!?」


 真心は狼狽して、逃げるようにドアへ背中を付ける。


「はあ? バツイチのくせにほっぺちゅーくらいでガタガタ言うんじゃないよ。一方通行なんだから、真心が嫌がらないことはいいじゃんか」

「い、嫌がらないことってお前……」

「嫌なの?」

「そりゃ嫌……じゃねーけど……けどさぁああああ!」


 苦悩の表情で真心が頭を抱える。


「だ、駄目だろお前。世の中『先っぽだけ』って言って先っぽで済んだためしはねーぞ!」

「は? なに言って……」


 首をかしげる途中で、ゆしかはみるみる赤面した。


「こぉの変態!」


 今度は容赦のない普通の拳が、真心の顔面を捉えた。




 そして再び車を走らせ帰路につく途中、ゆしかは顔の腫れた真心の隣で、唄うように言う。


「来月になったら桜もチューリップも新緑も、いっぱい、いっぱい一緒に見に行こうね」


 真心は「ああ」とぶっきらぼうに返事をするのが精一杯だった。

 殴られたところが痛んだからではない。

 幸せそうに笑うゆしかが今までで一番可愛く見えて、気を抜いたらうっかり深夜のポエムばりに物凄いことを口走りそうだったからだ。


 そんなことはつゆ知らず、ゆしかは上機嫌に窓の外の青空を仰いで、呟いた。


「もうすぐ、冬が終わるね」

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