(2)白いキャンバス
鬼哭岩の件から三週間が経った。
あの日、姫神さんは自らの命を絶つことを願った。
僕と秀玄さんは、彼女が生きることを願った。
誰の願いが叶い、誰の願いが叶わなかったのか。
僕は未だに整理できずにいる。
整理できないまま、穏やかな時間を渡されてしまった。
順番に事実を並べよう。
まず僕は、落下の衝撃で右脚を骨折。全治二か月と診断された。聞くところによると滝の落差は三十三メートルもあったそうだ。骨を折っただけで済んだのは本当に運が良かったのだと思う。必死だったから覚えていないけれど姫神さんを抱えて自力で岸まで泳ぎ着いていたらしい。岸辺の岩にへばりついていたところを秀玄さんに引き上げられた。
秀玄さんは軽傷だった。頭と肩を強打していたものの骨にも脳にも異常はなく、すぐに僕たちのところへ駆けつけてくれた。もし彼が自力で動けないほどの大怪我を負っていたら……僕たちが転落したことに気付いてくれなかったら、今頃は最悪の結末を迎えていたはずだ。やはり運が良かったのだ。
そして姫神さん。彼女は一時的に心臓が停まっていた。秀玄さんの救命措置で辛くも蘇生に成功したけれど一歩遅ければ命を落としていただろう。市内の総合病院へ搬送され、意識不明のまま検査を受けることとなった。結果、大きな怪我や異常は見つからず、直に目を覚ますだろうと診断された。僕と秀玄さんはひとまず胸を撫で下ろした。
でも、そうはならなかった。
転落から一夜明け、再び一日が終わる時間になっても彼女は眠ったままだった。脈はある。息もしている。脳の波形にも異常はない。なのに意識を取り戻さない。主治医の先生はしきりに首を捻っていた。
彼女はそのまま目を覚まさず、次の日もずっと眠り続けた。そして三日目の朝ようやく半身を起こしたとき、以前の彼女はもういなくなっていた。
「恐らく過去の君と似たような症状だな」
秀玄さんは改めてそう語った。
院内の誰かを待っているのだろうか。中庭では二人の小さな女の子が走り回っていた。姉妹のようだが背丈はあまり変わらない。双子かも知れない。
僕たちはベンチに腰かけ、仲睦まじい光景をぼんやりと眺めている。
「言葉は覚えている。生活の知識も忘れていない。だが自らに関する記憶が全て失われている。君は実感が持てないかも知れないが、まるで別人だよ。私はようやく慣れてきた」
そう。目を覚ましたとき、彼女は全ての記憶を失っていた。
過去のことも。僕のことも。何ひとつ覚えていなかった。秀玄さんは、自分は義兄であると説明し、彼女が事故で転落したことを理解して貰った。僕は秀玄さんの元患者で、事故の現場にたまたま居合わせたことになっている。嘘ではなかったし、僕としてもそちらのほうが話を合わせ易かった。僕の中にも彼女に関する記憶は残ってないからだ。実際、姫神さんのことは秀玄さんの話と、転落前の会話でしか知らない。けれど秀玄さんの指摘とは逆に、以前の彼女とは違うという実感だけがあった。
「眠り続けた三日間で、彼女は生まれ変わったのかも知れない」
どんな遊びなのか。女の子二人は中庭の落葉を一所懸命に集めていた。僕の足元にも同じものが落ちてある。穴の開いた枯葉をじっと見つめた。
「じゃあ、以前の彼女は死んだということなんでしょうか?」
秀玄さんは、膝の間で手を組み合わせた。
軽い調子で訊き返してくる。
「風間くん、記憶とは一体何だろうな」
どう答えれば良いのか分からなかった。彼も答えが欲しかったわけではないだろう。
一拍挟んでから、続きを口にした。
「生物学的見地に立てば記憶とは脳に蓄積されたデータに過ぎない。しかし我々の行動、人格、意識、個人史、精神活動は間違いなく記憶を足場にしている。記憶を失うことは自我同一性の喪失であり人生からの乖離だ。形而上的にも白亜は最早以前とは同一の存在ではないだろう。死んだという表現もあながち間違いとは言い切れない」
間違いとは言い切れない?
「他の見方があるということですか?」
ふっと笑う気配がした。
「簡単な話だ。彼女は生きている」
思わず彼の顏を確かめていた。確信に満ちた目がそこにあった。
「生きているんだ。記憶を失っても人間は死なない。そして君も私も、彼女のことを姫神白亜だと認識している。そうだろう?」
「それは……」
確かにそうだ。以前の彼女はいなくなったかも知れない。けれど僕は心の底から彼女が死んでしまったとは信じていない。変わらずに彼女を姫神白亜だと認識している。
ふと悠さんの言葉を思い出した。記憶は風化する。変化する。時間に浸食されて元の形を保てなくなる。過去の出来事を全て覚えている人間が一体どれだけいるだろう? どの記憶を以って、これが自分だと主張できるのだろう? 自分とは何か? 記憶とは何か……。
余程おかしな貌をしていたのだろう。秀玄さんがくつくつと喉を鳴らした。
「実のところ私もよく分かっていないのだよ。まあ、こう考えれば良いさ」
彼は、無邪気な姉妹を見つめた。
「君も、あの娘も、真っ白なキャンバスを与えられたんだ」
そして嬉しそうに微笑んだ。
「描きたいものを描いていけば良い」
風が吹き、落葉を宙へ舞わせた。女の子たちは、わあっと感嘆の声を上げる。舞い広がる落葉を目で追うと、雲一つない秋空が中庭の額縁に飾られていた。広々としたキャンバスの上を白い翼が横切っていく。どこまでも、どこまでも飛んで行けそうな。
「……彼女の力はどこへ行ったんでしょう」
「分からない。記憶を失ったことが原因なのだろうが、今のところすっかり消えてしまったように見える。近くにいても記憶が奪われることはないし、彼女自身もそれを欲していないようだ。……欲する。そう、元を辿れば、そこへ帰結するのかも知れない」
沈黙で返すと、彼は眼鏡に手で触れた。
「風間くん、君は彼女の力を羨ましいと思ったことはないか? 他人の気持ちが知りたいと思ったことは?」
「……あります」
何度もある。人柄を、気持ちを、真意を、何度知りたいと願ったことか。
「他者の気持ちを知りたいと願うこと。自分の気持ちを理解して欲しいと願うこと。……それは人の心に巣食う根源的な病魔だ。知恵を得るということは、その限界を知ることでもある。限界を克服し、欠落を埋め合わせたいと願うのは、生物として自然な欲求だろう」
「つまり、陰喰の力は、その欠落を補うために進化したものだと?」
彼は、首肯した。
「しかし結果として彼我の境界が失われるという弊害がある。その急激な進化に脳が追い付いていないのか? それとも個を失うことが人類の欲求なのだろうか? 個を知りたいと願うことが、結果として個を失わせるという矛盾を孕んでいるのだとしたら? 何とも人間らしい、いじらしい在り方じゃないか」
秀玄さんは、そう言って目を細めた。
姉妹の元にスーツ姿の女性がやってきた。母親だろう。二人は競うようにお母さんの脚に抱き付いた。母娘は互いに笑みを交わすと三人で手を繋いで歩き始めた。
「なら、彼女が失ったものを取り戻したいと強く願ったら……そのとき、あの力もまた戻るということなんでしょうか」
「かも知れない。いつかはそんな日が来るかもしれない。だが、きっと大丈夫だ。きっと上手くいく」
何故そう言い切れるのだろう?
顔にそう書いていたに違いない。彼は、口許を綻ばせ、穏やかな眼差しを見せた。
「君が、あの娘の傍にいてくれるのだろう?」
僕は、もう一度母娘を見た。支え合うようにして歩いていく家族の背中を。込み上げてきた温かなものが、笑みとなって零れた。
「はい」
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