最終話「春の思ひ出」
(1)白亜
午後の院内に人影はなかった。コツコツと杖を突く音だけが響く。何もかも眠ってしまったみたいに静かで、起きてるのは僕一人しかいないんじゃないかと不安になってしまう。
でも、そんなのは馬鹿な妄想だ。
だって、ほら、向かいの棟を看護師さんが歩いている。仕事が一段落着いたのか、ううんと背筋を伸ばしていた。
静かなのは悪いことじゃない。平穏な証拠だ。だから杖を突く音がその平穏を壊してしまっているようで何となく後ろめたかった。
一息吐いて、窓を見上げた。
澄み切った空には雲一つない。晴れ晴れとした秋空だ。でも、どこか寄る辺がないようにも感じる。中庭の桜は葉を落とし、枯れ枝を風に曝していた。
グリップを握り直し、松葉杖に体重を預けた。
廊下にまたコツコツと音が響く。
「やあ、風間くん。いらっしゃい」
扉から顔を覗かせたのは秀玄さんだった。丁度お見舞いに来ていたらしい。引き戸を押さえてくれたので頭を下げて部屋に入った。
室内は明るかった。良好な陽当たりが潔癖な印象を一層引き立てている。白い壁紙。白いカーテン。白いシーツ。白いキャビネット。花瓶も白ければ、飾られている花も白い。部屋の主である彼女の髪も、肌も、まっさらに見える。
それは、まるで……。
「こんにちは、風間さん」
彼女は、ベッドから立ち上がり、丸椅子を勧めてくれた。
「うん、こんにちは。姫神さん」
杖を預けると手際よく壁に立てかけてくれる。何だか不思議な気分だった。彼女は、こちらの反応に首を傾げる。僕は「ごめん」と後頭部に手を当てた。
「これじゃあどっちがお見舞いされる側なのか分からないな、って」
彼女は、きょとんと瞬いたあと「ですね」と微苦笑を浮かべた。髪を耳にかけベッドに腰を下ろす。同じ目線で向き合った。
「調子はどう?」
指がシーツをさらりと撫でた。
「相変わらずです。毎日暇を持て余しています」
秀玄さんは、丸椅子を引きながら、くつろいだ調子で言った。
「君が来てくれて助かったよ。風間さんはまだかとうるさくて敵わんからね」
「もう、兄さんっ」
彼女は、朱に染まる頬をむっと膨らませる。兄が降参のポーズを取ると、ふっと表情を和らげた。
「でも実際、風間さんがお見舞いに来てくれて助かります。こんな何もない部屋に一日中いても気が滅入るばかりで。外の情報もあまり貰えませんし」
口許に自嘲を浮かべた。
「まるで囚人の気分です」
窓の外で鳥の鳴き声が聞こえた。
僕は笑みを装った。
「もうすぐ退院できるよ」
気休めに過ぎなかったが、秀玄さんが「そうだな」と同意をくれる。
「身体は健康そのものなんだ。症状に変化がなければ自宅での経過観察という話になるだろう。すぐに復学するのは無理かもしれんが、それもそう先の話じゃないさ」
彼女は、複雑な表情で、白い髪に指を絡めた。
秀玄さんが「さて」と席を立つ。
「あら、兄さん。もう帰るんですか?」
「ああ、ここの先生と少しね。それに若い二人の邪魔をするほど野暮ではないよ」
「兄さん!」
秀玄さんは、ははと一笑すると僕の肩に手を置いた。耳元で「後ほど」と囁くと、さっさと部屋を出て行った。彼女は、おずおずと上目で窺ってくる。
「ごめんなさい、風間さん。兄が変なことを」
軽く首を振った。
「僕が気を遣わないようにしてくれただけだよ」
鞄からスケッチブックを取り出した。頁を開き、鉛筆を握る。
「じゃあ、姫神さん。今日もお願いします」
彼女は、緊張した面持ちで「はい」と居住まいを正した。
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