(5)いまを生きる

 仮に雨が降っていたとしたら傘を差す気も起きなかっただろう。背負った鞄が嫌に重く、脚を動かすのも億劫だった。胸のどこかに穴が開いていて、そこから力が抜け出していた。夜風が穴に吹き込むと、一層惨めな気持ちになった。

 駅へ向かう道の途中、手を繋いだ男女とすれ違った。何を楽しそうにしていたのかは分からない。けれど女性の言った一言が、いつまでも耳から離れなかった。

「ねえ、どうして覚えてないの?」

 二人は、街の灯りのほうへ消えていった。

 電車に乗り、固い扉にもたれかかる。夜の景色が網膜の上で滑っていった。記憶に残るものは何もなかった。気が付けば地元の駅を降り、気が付けば自宅のマンションに辿り着いていた。扉を開けると奧から「おかえり」の声が聞こえてくる。倒れてしまいたい身体を引き摺ってリビングの引き戸に手をかけた。悠さんが戸棚から食器を下しているところだった。

「……博貴さんは」

「今日は取引先のひととお食事会。言ってなかったっけ?」

「そっか。そうだったね。ごめん。忘れてた」

 悠さんは、いいのよ、とフライパンの蓋に手をかけた。僕は洗面台で手を洗い、すっきりとしない顏に水を浴びせる。鏡には虚ろな瞳が浮かんでいた。

 ご飯には味を感じなかった。何を食べたかもよく覚えていない。運ばれてきたものを機械的に口に運んでいるうちに、いつの間にか全部なくなっていた。

 空っぽの器を見下し、在ったはずのものを思い出そうとする。

「はい」

 ことりとカップが置かれた。なみなみと注がれたチョコレート色から、ふんわりと湯気が立っている。仄かな甘い香り。ココアだ。顏を上げると悠さんがにんまりと笑っていた。そのまま正面の席に座る。口許が綻ぶのを自覚していた。

「ありがとう」

 悠さんは「何が?」ととぼけたフリをした。

 僕はココアが好きだ。そして僕がココアを好きなことを悠さんは知っている。そして僕に元気がないときは必ずココアを出してくれる。だから僕は、ココアが好きだった。

「僕が、初めてこの家に来たときもココアだった」

「よく覚えてるわね、そんなこと」

「覚えてるよ」

「若さかなあ」

「悠さん、その言い方、おばさんくさいよ」

「だっておばさんだもん」

 冗談めかして唇を突き出す。その仕草に頬が緩んだ。悠さんは「そうだねえ」と天井を見上げた。

「私はもう、想太くらいの齢のことはあんまり覚えてないんだよね。印象的なことは記憶に残ってるけど全体的にぼんやりとしてるって言うか」

「そうなの?」

 そうなの、と悠さん。

 僕は、湯気の立つカップに掌で包んだ。ステンレス越しにココアの熱が伝わってくる。やがて失われる温かさ。

「僕も……いずれそうなるのかな」

「多分ね。記憶なんてのは放っといたらどんどん消えていくし、思い出も少しずつ風化していく。人間ってさ、つくづく今を生きるしかない生き物なんだよね。だから過去にこだわっても意味がないってのが私の持論」

 穏やかに語ってから頬杖を突いた。

「だから想太にも今を生きて欲しいと想ってる」

 黒い瞳が見つめてくる。受け止められなくて目を伏せた。カップから誘ってくる甘い香り。でも猫舌の僕には、まだ少し熱かった。

 悠さんは、微笑ましそうに目を細めた。

「でもね想太。それでも忘れたくないもの……捨てられないものがあるのなら、それはもう過去じゃない。今なの。そのひとにとっての、大切な今」

「いま……」

「向き合って、抱えていくしかないのよ」

 カップに指をかけた。息を吹きかけ湯気を払う。一杯に注がれたココアは相応の重みがあった。だからだろうか。ふと疑問が浮かんだ。

「その重みで苦しんでいるひとがいたら、どうすればいいの?」

 彼女は、宙を見上げ、ほんの少しだけ思案する。

 それから、ふっと息を漏らし「そんなの決まってるじゃない」と腕を組んだ。

「困ってる人がいたら助けてあげる。当然でしょ?」

 その言い草があまりに簡単だったから、僕は呆気に取られてしまった。余程間抜けな貌をしていたのだろう。悠さんは、くすりと笑った。僕もつられて笑ってしまう。

 二人でくすくすと笑い合ったあと、悠さんは言い添えた。 

「想太。これだけは忘れないで。私は何があっても想太の味方よ。博貴さんだってそう。私たちは家族なの。困ったことがあるのなら、いつでも私たちを頼りなさい」

「……うん」

 ココアを口に含んだ。

「ありがとう、悠さん」

 甘くて、温かくて、忘れられない味だと思った。


 翌日の土曜日、学校は休みだったけれど、もう一度あの絵が見たくて美術室へ向かった。眺めて感傷に浸ることが目的じゃない。彼女を調べる手がかりが欲しかった。なぜ彼女に関する記憶が消えてしまったのか? どう頭を悩ませたって現実的な理由は出てこない。それでも存在まで消えてしまったなんてことはないはずだ。誰の記憶に残っていなくとも、きっと彼女を特定するための記録は残っている。

 そう信じてキャンバスを睨んだけれど掬い取れたのは虚しさだけだった。画布に描かれている以上の情報はない。記憶が蘇る奇跡も起こらない。

 気が付けば、また涙が零れていた。

(知りたい)

 その想いで胸が一杯になっていた。

 半日以上を絵の前で過ごし、やがて限界を感じた。負け犬の気分で美術室を後にする。そして階段を下り、玄関の扉を開けたときだ。本校舎のほうに人影が見えた。小走りで駆け寄ってくるそのひとは、僕を認めるなり声を張った。

「風間くん。……風間想太くんっ」

 眼鏡をかけた背広の男性だった。うちの教師じゃない。でも見覚えがある。

「貴方は、確か、診療所の」

「ああ。君がここにいると聞いて立ち入りの許可を貰った」

 夏、熱中症で運び込まれた診療所にいた医師だ。改めて名刺を差し出してくる。

「姫神だ。姫神秀玄という」

「姫神……」

 何故だろう。その響きには懐かしさがあった。まるで古い歌を口ずさむような。

 名刺の文字をぼうっと見下ろしてから数秒、ふと我に返った。先生の双眸に、怒りとも不快とも付かない感情が灯っていた。慌てて頭を下げる。

「失礼しました、先生。その節はどうもお世話になりました」

「挨拶は良い。至急私と一緒に来てくれ」

「え?」

「事情は車の中で話す」

 姫神先生は返答を待たず踵を返す。僕が動けないままでいると振り返って声を荒げた。

「頼む。急いでくれ!」

 彼の貌は、苦々しく歪んでいた。

「白亜が、いなくなった……!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る