(4)忘れ物

 轟音が駆け抜け、風と光に包まれた。目の端に捉えた車窓の影は、既に遠くへ過ぎ去っている。そうして線路が静けさを取り戻す頃には、誰の顏を見たのかも忘れてしまった。街灯が連なる夜道を眺め、ぼんやりと思う。

 いつの間に、こんなところまで。

 堤防から離れた、線路沿いの交差点だった。

 小西くんと別れたところまでは覚えている。けれど、どうやってここまで来たのかは覚えていない。ずっと煩悶としていたら、いつの間にかこの小路に立っていた。

 踏切を渡った先に駅がある。普段乗り降りしている無人駅だ。時刻表の前では数人の学生がスマホを覗き込んでいた。いつもと変わりない、学校帰りの風景だ。あとは彼らと同じように並び、彼らと同じように帰るだけ。それだけなのに……。

 視線が反対の方向へ誘われた。

 等間隔に並んだ街灯が、通い慣れた通学路を照らしていた。

 今になって学校へ戻る理由はない。そろそろ部活も終わる頃だし、何より電車を逃してしまう。また月曜になれば嫌でも通わなければならないのだから、引き返す必要なんてどこにもなかった。

(でも)

 背後で踏切が警報機を鳴らし始めた。下りの列車が来たようだ。

 点滅を繰り返す赤い光が、早く決めろと急かしてきた。

 僕は、うつむき、唇を噛んだ。

 理性と感情がせめぎ合った。

 そして次に顔を上げたとき、赤い道路を踏みつけていた。

 腕を振り、遮断機を後方へ置き去りにする。古ぼけた小橋を渡り、公園を通り抜け、神社の境内を突っ切っていく。思いつく限りの最短ルートを全速力で駆け抜けた。それでも心はその先へ。さらに先へと進んでいた。

 欠けている何かが見つかったわけじゃない。

 

 

 確信なんて全然ない。けれど確信よりもずっと強いものがあった。酸素が不足して思考が狭まっているのだろうか? 馬鹿々々しいと笑い飛ばしたくなってしまう。けれど、それを笑い飛ばせない想いが、僕を必死にさせていた。

「どうした風間。忘れ物か?」

 校舎に駆け込んだところで藤宮部長に出くわした。その手には美術室の鍵がぶら下げられている。職員室へ返却に行くのだろう。僕は、ぜえぜえと肩を上下させながら、呆気に取られる彼に答えた。

「忘れ物です」

 部長は、ぱちぱちと目を瞬かせたあと、笑みを浮かべた。

「もう忘れるなよ」

 鍵を受け取って校庭へ出る。ライトに照らし出されたグラウンドではサッカー部が号令をかけていた。それを眺める人影はない。桜の並木の脇を走り抜け、特別教室棟の扉を開けた。三階まで一足飛びに駆け上がる。

 美術準備室へ転がり込み、整理棚にある一枚を引っ張り出した。

 瞬間、眩しい光に包まれた気がした。

 震える脚から力が消え失せ、膝から床に崩れ落ちた。

 どうして忘れていたのだろう?

 どうして思い出せなかったのだろう?

 ずっと向き合ってきたはずなのに。

 梵字みたいと笑われた絵。他人には決して理解できない描き方。

 でも僕には分かる。読み解ける。

 これは、桜の下で微笑む彼女を描いたものだ。

「あ、あ」

 零れた涙が画布に落ちる。

 僕は、その肌に触れた。彼女の顏に……

「ああ……」

 絵を抱き締めた。濡れた頬を押し当てた。

 哀しかった。

 渇いた声しか出せないことが。彼女を名前で呼べないことが。

 誰もいない部屋の中で、僕は、枯れ果てるまで泣き続けた。

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