(3)路地裏とホワイト

「じゃあね、風間くん。他にも誘いたいひとがいたら声かけといてね」

「神坂さんも。誘えるといいね。好きなひと」

「あ、うん。はい」

 部活を終え、僕たちは校門で別れた。(なぜか)うなだれて去っていく彼女を見送ったあと、商店街に足を向けた。街の文具店で画材を買い足したかったのだ。雨は上がっていたけれど空はまだ雲に覆われていた。湿った石畳を数分も歩くとアーケードが見えてくる。馴染みの文具店に入り、棚を眺めた。欲しいのはホワイト。けれど白にも種類があって価格も違う。容器の一つを手に取ってみた。比較的高価なメーカーのチタニウムホワイトだ。いつかは使ってみたいと憧れているけれど敷居が高くて触れ難い印象があった。そっと棚に戻し、いつもの安物をレジへ運んだ。

 気ままに商店街を眺めて歩く。お洒落な看板の珈琲店。神坂さんお気に入りの雑貨屋さん。ローカル番組で紹介されていた喫茶店。老舗の書店。そして交差点に差しかかったときだ。とある店舗の硝子戸にポスターが張られているのが目に止まった。

『忘れられない夏を あなたに』

 旅行会社の広告だった。紙面には夕暮れの砂浜と手を繋ぐカップルの姿が写っている。その女性のほう……燃える夕陽を望む姿が、別の誰かと重なって見えた。

『誘いたいひとがいたら声を』

 別れ際のやり取りを思い出し、頭を振った。

 親しいひとだけの集まりだ。誘ったところで、来るとは思えない。

(それに)

 二か月前のこともある。秀玄さんの苦言とも忠告とも付かないあの言葉。素直に従ったわけではないけれど、彼女と話す機会は取れていなかった。廊下ですれ違うことはあっても何となく声がかけづらい。佐々木先輩の件で浅はかな相談をしてしまったこと。その浅はかさを転嫁するような態度を取ってしまったこと。それに引け目を感じている。

 別に彼女も怒っていたわけではないと思う。それよりももっと切実な、訴えかけるような何かがあった。何か不確かなものにすがるような、そんな……。

(分からないことばかりだ)

 秀玄さんの真意。苦しみの記憶ばかり食べる理由。そして僕自身のこと。

 一度、彼女とゆっくり話をしてみたかった。海に誘うかどうかは別にしても、ちゃんと彼女のことを知りたかった。けれど今は。

 思考がぐるぐるとループする。いっそのこと彼女のように記憶を読み取る力があれば良いのに。そう溜息を吐いたときだ。

 硝子戸を人影が横切った。「え?」と慌てて振り返る。影は交差点を曲がったところだった。キャップのようなものを被っていたけれど後頭部から覗いていた、あの白い髪は。

「姫神さん……?」

 脚が自然と駆けていた。曲がった先を覗いてみる。石畳の舗装路は、仕事帰り、学校帰りのひとたちで溢れていた。疲労と笑顔の向こう側で、キャップ姿が別の路地へ消える。その横顔。間違いない。彼女だった。

 追いかけ、影が吸い込まれた小路を覗いた。次の角を曲がったのだろう。彼女の姿は既になかった。さらに奧へ入る。狭く薄暗い裏路地だった。これはもはや道ではなくただの隙間じゃないか? 疑念を覚えた矢先にピンク色のけばけばしい看板が掲げられていたりする。漂う排気臭と、饐えた臭い。じめじめとした空気が生理的な嫌悪感を煽ってきた。

 こんな場所に何の用があるのだろう?

 彼女にはすぐに追いついた。こちらに気付いた様子はない。呼び止めてはいけない理由はないけれど、呼び止めて構わないのだろうかという不安があった。どこか良くない場所へ行こうとしているのだとしたら? 結果、黙々と後をつけることになる。

 まるでストーカーじゃないか。

 情けなさを覚えながら、角を曲がったときだった。

「え……?」

 行き止まりだった。薄汚れた壁と室外機。足元には黒い水溜り。それだけ。それだけだ。彼女の姿はどこにもない。確かに、ここを曲がったはずなのに。

 彷徨う視線は、足元を浚い、壁面を這って、上方へ向かった。ビルの隙間の赤い空を、一羽のカラスが横切った。

「動くな」

 冷たい声が耳に刺し込まれた。

 一瞬で強張ったうなじに、鋭く尖ったものが突きつけられる。

「動けば刺す」

 嘘みたいな言葉が路地に反響する。僕は、ごくりと唾を呑んだ。無抵抗を示すためにゆっくりと両手を上げる。腕は震え、下腹が緊張に締め付けられた。両眼を壁面に固定したまま浅く息を吸った。

「ひめかみ、さん……?」

 沈黙。

 無反応。

 耳が痛くなるほどの静寂が続き、そして、

「……っふ」

 背後で「あはは」と声が弾けた。うなじに突き当てられていたものが離される。胸を撫で下ろして振り返ると、姫神さんがお腹を抱えて笑っていた。

「もう……びっくりしたよ、姫神さん」

 彼女は「あー、可笑しい」と目尻を指で拭った。整えられた爪先は、刺さるぐらいに尖っている。彼女は、笑みを引き摺った貌で左手を腰に添えた。

「風間くんこそ。か弱い女性の後をつけるなんて褒められたシュミとは言えないわね」

 返す言葉がなかった。疲労感に肩を落とす。そうしているうちに次第に理解が追い付いてきた。

 姫神さんは、僕の記憶を喰べたのだ。

 この行き止まりで彼女と接触していたのだろう。もしかしたら会話も交わしていたかも知れない。けれど、その記憶は奪われた。僕の意識は彼女を追いかけていた時点に戻り、その隙に彼女は背後へ回る。結果、角を曲がったところで姿が消えてしまったかのように錯覚する……。

 人形を持たされたときと同じだ。全く気が付かなかった。意識が途切れることなく続くから、違和感も、実感も抱けない。

 腕をさすり、尋ねた。

「こんなところに何の用があるの?」

 一度帰宅して着替えたのだろう。彼女は制服を着ていなかった。ベージュのカットソーに、黒のボトム。白い髪はキャップで覆われている。普段と違って随分とラフな姿だ。けれど立ち振る舞いが綺麗なひとだから、どこかの令嬢がお忍びで街へ繰り出したみたいにも見える。

 彼女は、鍔を掴み、ビルの壁面を見上げた。

「別に。風間くんをからかおうと思って入っただけよ」

「危ないよ」

「そうかしら?」

 試すような目つきをする。

「風間くんこそ、私に何の用?」

「それは……」

 返答に窮する。要件は、つまるところ会話と質問だ。けれど率直に切り出すのは憚られた。だとしたら確かに、何のために追いかけたのかという話ではあるのだけれど。

 口ごもっていると、彼女は「まあいいわ」と踵を返した。

「食事でもしながら、ゆっくりと話しましょう」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る