(2)子犬と強盗犯
「か・ざ・ま・くんっ」
ぐっと背中に圧し掛かられた。弾みで机に突っ伏しそうになる。負荷に耐えつつ肩越しに見やると神坂さんがニコニコと手元を覗き込んでいた。
「何読んでるの?」
無言で文庫の表紙を掲げる。彼女は「あっ」と白い歯を溢した。
「罪と罰。借りたんだ。文量多くてヤになっちゃうんだよねー。どこまで読んだ?」
「お母さんから手紙を貰ったところ。……って神坂さん、内容覚えてないんでしょ」
「うん、全然。心の可哀想な強盗犯がずっと挙動不審な話だった気がする」
「ざっくりしてるね」
「うん、覚えてないもん」
両肩から手が離れた。軽くなった身体を起こす。さっきまで神坂さんが駄弁っていたあたりに目をやると南久保さんと大滝さんが意味深な貌をしていた。何だろう。あの子犬のじゃれ合いを眺めるような目つきは。
「神坂さん、何か用?」
問うと彼女は「あー」と頬を掻いた。軽い、取り繕うような笑みが張り付いていた。
「ほら、例の話。どうする?」
「例の話?」
「そ、例の話」
「……」
はて、何の話だろう?
眉間に皺が寄った。彼女の口許が情けない形にへにゃりと曲がった。
「ほ、ほら! 夏休みっ」
「夏休み……?」
「みんなで一緒に話したじゃん! 夏休みどっか遊びに行こうって!」
「したっけ?」
「したの!」
彼女は「しっかりしてよ~」と大袈裟に嘆く。僕は、むむむと腕組みをして記憶の引き出しを探ってみた。昨日。一昨日。一週間前。データを遡ってみたけれど、中から出てきたのはへらりとした笑みだけだった。
「神坂さん。それ誰かと間違えてるよ」
「間違えてないってば! 麻耶と紗奈ちゃんと……西尾くんもいた!」
「神坂さん、前科が多いからなあ」
「今回は間違いないの!」
どうだかなあと首を捻る。大方彼女たちがその話題で盛り上がっているときに近くにいたという程度のことだろう。でも彼女のなかでは僕の落ち度になったようだった。「まったく、失礼しちゃうよ!」とぷりぷりしていた。
「それで、どこに行くの?」
「うーん、紗奈ちゃんは動物園に行きたいって言ってたけどあたしは海かなあ。青い空。白い雲……真夏のビーチで燃え上がる恋!」
「ああ、神坂さん、好きなひとがいるんだよね?」
「え?」
彼女は、祈りを捧げるポーズのままびしりと固まった。どこかの神殿の彫刻みたいだった。僕がタイトルを決めるより先に、ぎぎぎと像の首が動いた。
「どうしてそれを……?」
声まで石みたいに強張っている。僕は、虚空を仰いだ。
「誰かが教えてくれたんだよ。誰だっけ? それこそ忘れちゃったなあ」
神坂さんの顔が面白いくらい真っ赤に染まっていく。キッと鋭く睨んだ先で、大滝さんがグッと親指を立てていた。僕は「ああ」と合点した。確か彼女が教えてくれたんだ。さすがにどこの誰かまでは教えてくれなかったけれど。
「そのひとのことも誘うの?」
彼女は「え!?」と頬を引き攣らせた。目をぐるぐる泳がせたあと、制服の襟元をぱたぱた仰いだ。
「ああ~? うん? どおだろうねえ? 誘ってみよおかな~? あはは」
珍しく照れているらしい。何だか微笑ましい気持ちになった。
「がんばってね、神坂さん。応援してるよ!」
声援を送ると彼女の両目が点になった。一転がくりと肩を落とし、
「あ、ありがと。アタシ、がんばるネ……」
元いたところへとぼとぼと帰っていく。
何かまずいこと言ったかな。
スパンと頭を叩かれる大滝さんを眺めながら、頭を掻いた。
程なくして始業のチャイムが鳴った。待ち構えていたみたいに扉が開く。入ってきたのは、公民の水嶋先生ではなく、副担任の山本先生だった。どよめくではないにしろ戸惑いのざわめきが起こる。先生は、咳払いをして告げた。
「あー、静かに。見ての通り水嶋先生はお休みです。お身内に御不幸があったそうでな。今日は代わりに自分が授業を受け持ちます」
「自習じゃないんですかー?」
ある男子生徒が茶々を入れる。先生は「自習じゃありませーん」と気怠そうに返した。
「ただ特別授業ということで近年の犯罪情勢について少し勉強して貰います。ノートは取らなくても構いませんが自分たちに関係ないものとして聞かないように」
先生が印刷した資料を取り出す傍ら、皆は不思議そうに顔を見合わせた。
「えー、まずは県内で多発している特殊詐欺について……」
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