夏空

 病室棟四階の廊下、美和の病室の前で鉢合わせになり、会話もなく並んで入った。

 中では美和の母親がやつれた顔をして座っている。目が合うなり、疲れ果てた顔で唇の両端をなんとか吊り上げた。

 ベッドに横たわった美和は顔面を包帯で巻かれミイラ状態だ。口の周りが黄色く汚れており、血の混じった粘液を垂らしている。思考しているのかすらわからない。

 ぼくはさらに自分が情けなくなる。美和はどんな気持ちであっても、理解されず、泣き縋ることさえできないのだ。


「生きててくれて、良かった……」


 燈子はメビウスの下に安堵を灯した声色で言った。

 理解されて泣き縋りたかったぼくはには、まったくもってそうは思えなかった。


 島袋美和にとってはそれ以上に残酷だろう。

 アイドルとしての自分象徴する顔は誇りであったに違いない。ナルシストではあるが、彼女にとって大事なものだ。それを彼女自身の手で破壊させられた。アイドルとしての島袋美和は死んだ。ぼくの目の前で、惨たらしく殺された。


 美和の母親と燈子との間で昔話が往復する。

 小さなころから美和には虚言癖があった。いわゆる、霊感がある、といった類のものだった。当時から目立ちたがり屋だった。

 母親曰く、美和の評判は決して良いものではなかったが、燈子と付き合い始めてから受け入れられるようになったという。


 やがてぎこちない会話も続かなくなり、燈子はぼくの袖を引きながら病室を出た。


 廊下を少し歩いた先、燈子はロビーの長椅子にすとんと力なく腰を下ろす。表情は相変わらずメビウス症候群に阻まれているが、丸い背中が心情を物語っていた。

 ぼくは彼女の顔が見えないよう、彼女に見られていると意識させないよう、隣に腰を据える。

 陶器のような白い手を膝に置き、燈子は少し声を潜めてつらつらと話した。

 思い出話かと思いきや、まぎれもなく懺悔だった。


「幼馴染とか、そんな素敵な関係ではありません……わたしは美和さんを利用していただけなんです」


 ミステリアスで人を寄せ付けない燈子と、派手で社交的な美和はどこかちぐはぐだとは思っていたが、それもそのはずだった。

 霊感があると嘯く美和と、霊感を持つ燈子。

 友情というよりも利害の一致、ウィンウィンの関係だったのだ。燈子にしてみれば、美和はちょうどいい社会との緩衝材で寄生先――ぼくにしてみればカメラや中西と同じ役割を果たしていた。


「わたしはこの通り無愛想なもので、気持ち悪がられたり、余ったり、居ないものとして扱われるような……そんな子どもでした。いい子なんかじゃないです。怒ったり悲しんだりしてもどうせ伝わらないから、諦めていい子にしているしか、選択肢が無かったんです」


 ぼくは妙にその理屈に共感していた。

 うつむく彼女にぼくは少し冗談めかして「ああ、なるほど。わかります」と相槌を打った。

 実際、彼女は特別な子どもで、だからこそぼくの境遇よりもハードだったに違いない。理解されない力と理解されない顔を持ったのなら、おのずと人間社会との間に太い境界線が引かれるだろう。


「だけど、美和さんは信じてくれて――というより、使と思ったんでしょうね。わたしは身の回りで起こる不可解なことを、全部美和さんの力のせいにしました。美和さん、演技下手だから嘘だってバレバレでしたけど、みんな笑って済ましてくれるんです。美和さんにも、不思議な力があるんだなって……」


 彼女の強烈な棒読みは、まだ耳に残っている。美和が霊能者枠だったらさぞインチキ臭くて笑えただろう。それももう、取り返しがつかない。

 ロケはたった数日前のはずなのに、遠い昔に思えた。


「美和さんは上京することになって……ちゃんとネタばらしして、許してもらって、わたしも居場所ができたと思ったんです。でも、美和さんがいなくなってからは……。わかりやすい美和さんと不気味な人形では、言葉の聞こえ方が違ったんです。それから……いろいろあって、美和さんの勧めでわたしも東京の大学に進むことにしました」


 余ったり、居ないものとして扱われ、輪から外れ、あまつさえ東京に追い出された燈子。

 彼女は話をすっ飛ばしたが、いじめにあって、『不気味な人形』なんて罵倒も受けたのではないか。それはクラスや学校といった範囲ではなく、それこそ近所や街ぐるみだったのではないか。

 いじめの的にしていた弱者が――実は鬼だったと知り、さらに排除が攻撃になったのではないか。

 ぼくはオタク特有の野暮な考察をぐっと飲み込んで耳を傾けた。


「わたしは美和さんに依存していただけなんです。だから……せめて恩返ししようと思っていた……」


 燈子がはっと息を呑み、そして深く溜息をついた。

 自分の失言に気が付いてしまったのだろう。美和が望む恩返しなど手遅れだと、燈子もわかっているのだ。

 燈子はさらに背を丸め、うつむいた。黒髪が暗幕のように顔を隠す。


 看護士と患者が廊下を歩き、リノリウムがきゅっきゅと鳴る音がいくつも通り過ぎていった。

 やがて、院内の生活音にかき消されそうな声で、燈子はぼそぼそとつぶやく。


「いい加減、自分で立って、誰かを助けられるくらいにならないと……情けないですよね」


「ぼくは十分に助けられてますよ。情けないのはぼくの方で……いまだって、正直いうと燈子さんに頼りに来たんです」


 さすがに、泣き縋りにきたとは言えなかった。


「そう……でしたか。わたしを……」


 燈子がこくりと頷いて絹のような黒髪を揺らし、「吉瀬さん」とそのメビウスの表情を見せたところだった。

 何が言いたいのか、どんな心情なのか、まったく読めなかった。


「美和!」


 燈子の二の句に代わって、甲高い女の声が廊下を貫通した。

 美和の母親だ。


 悲鳴じみた声で娘を呼ぶ彼女の背中――その先に、すーっと階段方面に走っていく美和の姿が見えた。


 じんわりと血の気が引くのを感じた。

 美和の身体は美和の意思で動くようには見えなかった。ならば、美和ではない誰かの意思が。


 考えがまとまるより先に廊下を走った。

 突き当り、不規則な足音が聞こえる上り階段を上がる。


「吉瀬さん!」


「上だ!」


 ひとフロア分を上がるとどん詰まりの踊り場。屋上への扉が丁度閉まったところだった。

 ドアノブに手をかけるが、まるで向こう側から誰かが握っているかのように回すことさえできない。

 それが美和本人だったら、いくばくかマシだが。


 ヤツは邪悪で残忍だ。

 とてつもなく。

 至る想像は一つだった。


!」


 息を上げながら階段を上ってきた燈子にはすでになにが起きているのか見えているのだろう。半ばぼくを押しのけてドアノブを握った。

 どういうわけか、ノブが熱されていたかのごとく、ジュウッと鳴り、彼女が触れた箇所から煙があがる。

 彼女の唇から気合とも苦痛ともつかない声が漏れ、ノブが回った。


 開かれたドア。

 青く広い空。

 きらめく日光。

 蝉時雨。

 茂る樹々の匂いが吹き込む。

 コンクリートの縁の上に、白い患者服がこちらを向いて立っていた。


 今度はぼくが燈子を押しのけた。

 走る。

 目いっぱいに。

 がむしゃらに。

 足を振上げては生暖かい空気を切り裂き、コンクリートに叩きつけ、身体を前へ前へと押し出す。


 美和の身体が、向こう側へ傾いた。


にいくな――!」


 右腕を突き出し、上半身が縁の上に乗り上げるほど前に出て、その服を――掴んだ。

 美和の身体はほぼ水平だ。


 雄たけびを上げながら、ぼくは服を掴んだ右腕を引き、片足を掴む。

 途端、美和が耳をつんざくような、人間の声帯から発せられたとは思えない音で叫び身をよじる。

 ぼくの身体も宙にそうだった。

 遅れて――燈子だろう――白い手がぼくの右腕に添えられる。


 その瞬間、奇妙な感覚があった。

 強烈に助けを求める意識が理解できた。


「美和さん、もう、大丈夫! 大丈夫だから!」


 その声に、燈子が答える。

 これが彼女の霊感、あるいは超能力的な力だというのか。


 暴れる美和の上半身がなんとか縁の上にまでずり上がる。

 悲鳴を上げながら美和の母親が駆け寄ってきた。

 三人ならば――と、安堵の空気が流れた。

 燈子を通じて伝わってくる、助けを求める感覚が安心に和らいだ。


 ボン、と奇妙な音が響き振動が腕に伝わった。


「だめ」


 横から燈子の力ない声が耳をかすめる。

 美和の身体は突然に何倍にも重みを増した。

 不自然に曲がっていた。背中を内側にして曲がって、捩じれてもいた。

 死の臭いが漂った。

 白い患者服に、灰色がかった肉の蔦がいくつも絡まっていた。


 あ――。

 思考する間もなく、美和の身体が奪い取られて宙に放り出される。

 不自然な滞空だった。

 ぼくたちの視線より高く、美和の身体が舞い上がる。子どもが人形を扱うような、ぞんざいな放物線で。

 夏の青空の中に患者服が、まるで白球のごとくまぶしく光る。

 ぼくは、美和の目を見た。まだ自分の身に起きていることが把握できておらず、安堵している――そんなふうに見えた。


 やがて、午後の日常音に紛れて、どさっと異質な響きが駆け上がってくる。

 音の出どころを覗き込むと、駐車場のコンクリートの上でひしゃげた白い塊から赤黒い液体がじんわりと広がっていくところだった。


「美和!」


 駆け寄る母親の声に我にかえったぼくは必死に彼女を止めた。

 代わりに、燈子が底を覗き込む。


 ぼくは彼女のメビウスの目の奥にあった生気の光さえ失われ、黒三角人形になっていくのをただ見ているしかなかった。

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