共謀罪
島袋美和の母親はぼくたちを責めなかった。
むしろ、美和は仕事が減った頃から精神的に追い詰められていて、とうとう自死に至ったのだと自分に言い聞かせながら、それでも助けようとしたぼくたちに感謝の言葉を述べた。
疲れ切った顔に、少し安堵したような、肩の荷が下りたような色が見えた。
警察や病院関係者に話すことを話したぼくと燈子は逃げるように病院を出て、少し周囲を彷徨った。
その間の会話もまた言葉数少なく、
「まだ日差しも強いですし、喫茶店に入りませんか」
「大丈夫です」
といったやりとりだけだった。
陽は傾いているが、その西日が目に痛い。ぼくらは木陰を求めて住宅街の小さな公園のベンチに座った。
自動販売機でお茶を二つ買い、一つを燈子に渡す。彼女は軽く会釈し受け取った。
昼下がり、はしゃぐ子どもの声、布団を叩く音、蝉の鳴き声がどこからともなく響いてくる。日光を照り返す白い砂利、公園を囲む緑、夏の青い空。平和そのものだった。
こんな日に、島袋美和は命を奪われた。
今度は自分が美和を支えなければ。
燈子がそう決意した直後に起きたからこそ、事象は色濃く、グロテスクに刻まれただろう。
きりきりとペットボトルの蓋を回し、燈子は勢いよく喉を鳴らすと軽やかに息を吐いて向き直った。
「吉瀬さん。頼ってくださったのに弱気になってすみません。こんなことをしている場合ではありませんね。大丈夫です。すぐにでもあいつのことを調べないと――」
「いいえ」
ぼくは話を遮った。
燈子は押し黙る。人形になる。
「燈子さんはいま、大丈夫ではありません」
当然、表情など読み取ることはできないが、いまの燈子は泣き縋りたくて彼女を探したぼくと同じでもおかしくはない。彼女自身が懺悔とともに語った通り、メビウス症候群を盾にいい子を装っているだけだ。
いい子の境界線の向こうに追いやられたのが、悔しかった。
「あの、ぼくも頭の中がぐちゃぐちゃで。少し考える時間をください」
ぐちゃぐちゃどころか、ぼくの状況などもはや焼け野原同然だ。
せめて燈子には自分のことを考えてほしい、と気遣ったつもりだったが返事はない。
長い沈黙。ただ、夏の風景を見ていた。
あの化け物と、『自殺アパート』などとかかわらなかったら、ぼくは今頃、倉庫で小道具づくりをしたり、中西の無理難題に頭を抱えたり、それこそ河童だ海坊主だで川や海に投げ込まれていたかもしれない。
燈子は大学生になって初めての夏だ。とっつきづらそうだが、そういうのが好きな男だっている。年相応の色恋沙汰だってあっただろう。
それが、なんでこんなことに……。
ぼくの溜息が撃ち落としたかのようなタイミングだった。
ぼとり、と燈子の足元に黒い小さな塊が墜落した。蝉だ。彼女はそれをじっと見つめていた。
ぼくでさえ、ついさっき落下死した美和の姿が脳裏に浮かんで離れない。
いつまでも見ていたくない。見せるわけにいかない。
ぼくはそれを拾い上げる。指の間でジジジっと短く鳴いてそれきりの蝉を、花壇の土の上に置いて再びベンチに戻った。
「吉瀬さん……ありがとうございます」
「いいえ」
燈子はもう一度、勢いよくペットボトルを傾けると、唐突に言う。
「わたし、泣けないんです」
「ああ……メビウス症候群の影響ですか?」
「はい。涙は全部、喉のほうに行ってしまうんです。どんなに悲しくて辛くても、いつもと同じ顔なんです。どうせ、わたしの気持ちなんて誰にもわからない。伝わらない。だから、吉瀬さんも誤魔化せると思ったんです」
それから、燈子は何度も呼吸を整えては、喉を鳴らし、あっという間に五○○㎖を飲み干した。押し流した、が正しいだろう。
水位の差がつきすぎていたので、ぼくもペットボトルの蓋を開き、喉の奥に押し込んだ。空っぽの胃に水分が着地する。
熱気と眠気にぼんやりとする頭を冷やすため、ボトルを火照った首に押し当てた。冷たい水滴がシャツの中に走るがすぐに生温い汗に混じる。
いつまでもここに座っていたら熱中症になりそうだ。
燈子への慰めになるとは思えなかったが、自分の状況を口にした。つまり、一緒だと、共感していると言いたかった。
「ぼくは、化け物から逃れて番組を完成させれば何か変わるのかもしれないって、期待していたんです。美和さんもぼくの上司も、それぞれの理由でそれぞれに頑張ろうとしていた。でも……もう全部、取り返しようがなくなってしまいました。なにも、できなくなりました……」
いざ口にしてみれば、状況は絶望的だった。
ぼくには、命が一個余っているだけ。この余った命も、ゆっくりと人間社会に搾取され、奪われるのを待つだけだ。どん詰まりだ。
ぼくの意図は功を成したのか、燈子は深く頷いた。
「わたしも……同じです。頑張りたいこと、失くしてしまいました。ここにいても独りぼっちで、帰るところなんてないのに。恩を返すこともできなくなってしまって……」
認めたくはないが、ぼくたちはしてやられた。燈子は美和を奪われ、敗北を喫した。命からがら助かったと思った矢先に、である。
わずかな希望さえも磨り潰すような仕打ちに、ぼくらはいままさに、無力感に叩きのめされている。
着々と『どうせいつか死ぬの』に追い込まれている。
「吉瀬さんは『ゴドーを待ちながら』という演劇をご存じですか?」
唐突な話だった。
ぼくはこれにも共感を求めるつもりで話を合わせた。
「ええ。いろいろと解釈があって面白いですね」
興味深かったのは事実だった。
ウラディミールとエストラゴンという二人の男が、『ゴドー』という存在を待ちながら人生をただ浪費する話だ。『ゴドーを待ちながら』というタイトルではあるが、待つ以外に何もしていない、そんなナンセンスな物語である。『ゴドー』が何者かは一切説明がなく、一説には『ゴドー』とは『God』を現しているとも言われている。そう受け取るならば、何もせずただ神の救いを待つ二人の話になるだろう。
演劇には詳しくないが、『ゴドー』の正体が明言されておらず、解釈と考察だけが広がっていくのはオカルトの性質にもよく似ていたので、一度聞きかじっただけのぼくの記憶にも残っていた。
「わたし、あれ大嫌いなんです」
どうやら選択を間違えたようだ。
だが、ぼくの返答などどちらでもよかったのか、燈子は唱えるように続けた。
「二人は自殺しようとするじゃないですか。それも失敗に終わりますけれど。でも、待つだけで、言われたままで、考えもせず……自分の存在意義を、存在しているかもわからない誰かに預ける行為こそ、自分の首を絞めるような行為で……。あ、ごめんなさい、自分でも何を言いたいのかわからなくなってしまいました」
手ひどく叱られている気分だった。
まさしく、ぼくはゴドーを待っていた。誰かが悪夢から救い出してくれるヒーローを。それが燈子だと、勝手に思い込んでいた。
だがそうではなかった。燈子は呉越同舟――たまたま泥船に乗り合わせてしまった、ぼくと同じ遭難者だ。
燈子は続けてぼそぼそと呟く。
「わたし、ゴドーを待ちたくありません。理不尽から誰かが救ってくれるのを待てません……。自分の気持ちくらい、わかります。許せないんです。憎いです。あの化け物こそ、苦しんで、後悔して、死ねばいいのに……。ごめんなさい、本当はこういう人間なんです。直情的なくせに、陰湿で……」
返答に困った。
たしかに陰湿かもしれない。
だが、その陰湿な言葉が、燈子の口から出たことにぼくは内心喜んでいた。黒三角の人形じゃない、感情的で色鮮やかな燈子が戻ってきた。
「頼りにしてくれているのに、こんなこと言い出されたら困りますよね。話したら、少し落ち着いてきました。吉瀬さん、安心してくださいね。わたしが――」
助ける?
燈子がぼくを助ける?
ぼくは燈子に助けられる?
いまさらだが――いまだからこそ、その構図に強烈な違和感があった。
東雲先生、それどころか中西にさえ見放され、番組も作れない。孤立無援になり、燈子を頼った。ぼくは助かりたかった。誰かに助けてもらいたかった。燈子に助けてほしかった。
しかし、美和がいなくなった。
燈子はそれを、悲しんでいる。いや、『苦しんで、後悔して、死ね』と、怒り狂っている。
ぼくのことなど放り出して、いますぐにでもあの化け物を切り刻みたいに違いない。
それに比べてぼくはなんだ。
ただ待っていた。待ちすぎた。
その間に、化け物がやってきて滅茶苦茶にされた。
それでもまだゴドーを、都合のいい救いを――燈子が「吉瀬さんを助けます」というのを待っているのか?
自分の気持ち。
ぼくの気持ちは……絶望していて、自分の命なんてどうでもよくなっていて――あと、物凄くむかついている。
ということは……。
「は、へへ……」
思わず笑い声が漏れた。
奇妙に思われただろうが、ぼくは畳みかけて言った。
「やり返しましょう」
そしてここに、ぼくたちの目的は一致していた。
「……え」
「ぶっ殺しましょう。あ……ぶっ殺し、直しましょう。あいつら、死んでるからって調子に乗りやがって。後悔させてやりましょう」
次から次に起きる怪現象で、気がおかしくなっていたのかもしれない。
中西という宿主がいなくなって、とうとうぼく自身が暴走しているのかもしれない。
助かったと思われた美和が殺され、逃れられないのだと諦めたのかもしれない。
「奪われるくらいなら、ぼくの命一個を使い潰しましょう。報復に使いましょう」
ともかく、ぼくの何かは、このときすっかり壊れてしまった。
目の前に広がる夏空のような、晴れやかな気分だった。
燈子はぼくの顔をじっと見たままだった。
呆れているのかもしれない。ドン引きしているのかもしれない。
自分で口にしたことを反芻して、苦笑いで訂正した。
「すみません、なんだかずいぶんと捻くれて、拗れて、恥ずかしい言い方でしたね……。いや、つまり……ぼくの安全はともかくとして、どうにかしてあれを消す方法を――」
かなりの時間差を経て、彼女はやはり人形のように視線ごと首を縦に振る。
「そうですね。この手で報復しなければなりません。そのために、やはり生きねばなりません。わたしのも余っているので、必要ならばそのときはどうぞ。殺しましょう。殺し直しましょう」
「燈子さん……」
「呆れていますか? 引いてしまいましたか? いまさら遅いですよ。吉瀬さんが言ったんです。わたしはわたしの意思で乗っかりました。共謀罪ですからね。だめですよ、吉瀬さん。置いていかないでください……」
捲し立て言い切ると、額を手の甲で拭う。炎天下にさえ白かった頬が熟れた桃のようだった。
燈子も燈子なりに、恥ずかしいことを言ったと思っているのだろう。
「あの、だから……こんなときに情けないんですけど……実は昨日から何も食べてなくて、すっごくおなかが空いているんです。やっぱり喫茶店に寄りませんか?」
いまになってオーバーにぐったりとした様子を見せる燈子。
無表情で強がりを認めた彼女をつい笑ってしまった。
「そこは笑うところではありません」
「ちょっと和んだだけです」
「騙されませんよ」
こうして、ぼくと燈子は救済ではなく、報復を企てることにした。
相手が生きていないから法に裁かれないというだけで、ぼくらには明確に殺意があった。ゆえに、殺害計画といったほうが正しい。人の道を踏み外したともいう。
ともかく、ぼくらは共犯者になった。
あの化け物に裁きの鉄槌がくだらないなら、自分の手で下す。
ゴドーなんて待たない。
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