夜明け


 ピピー、ピピー、ピピー、ピピー――…………。


 それが何の音なのか、無意識のうちにわかっていたが身体が動かない。

 ぼくはうつぶせに倒れていた。床は冷たく、湿っぽい。草木と土の臭いにむせ返った。

 顔や手に擦り傷があるようだが、なによりも全身が着なれない服のようにごわついていた。関節を動かすとぎちぎちと軋む。

 なんとか身体を仰向けに転がすと、薄っすらと白み始めた夜空に灰色のコンクリートの壁が聳えていた。どうやらアパートの入り口で転がっているようだ。


 ポケットからスマートフォンを取り出して掲げた。

 画面には白くひびが入っているが、液晶にも機能にも問題ない。時刻は四時過ぎ。三時間近くも野ざらしになっていたというのだろうか。

 見たことのない電話番号がぼくを呼び続けていた。


 相手が誰であろうと、ぼくにはもう恐れるものなどなかった。

 ざらついた画面をタップする。耳に当てると、鼻で笑う声が聞こえた。


『生きてたの?』


 田邊だ。


「……どうしておまえが、ぼくの番号を――」


 喉ががさついて言葉にならない。

 それを笑い、田邊は自分の話を押し付けてきた。


『アパート行ったんだろ? いやあ、君たちの死体くらいは発見してあげようと思ってさ、警察呼んであげたんだ。若い男女が不法侵入の上に心中しようとしているから保護してあげてくださいって』


「おまえ……」


『怒るなよ。万が一、生きてたらと思ってこうして教えてあげたんじゃないか。感謝してくれよ』


 ぼくたちが化け物に敗れ、死体が見つかれば『自殺アパート』は広く知られる。

 田邊はそのシナリオを期待していたのだろう。

 だが。


「あの鏡は壊した。呪いはもう――」


『終わってない』


 田邊は断言した。


『残念だったね。終わってないんだよ、吉瀬くん。終わらないんだよ。呪いじゃなかったら、にはならないだろう』


「あんなこと……?」


 不安がよぎる。

 あれから三時間は経っているはずで――燈子は?


 身体に無理をいって立ち上がり周囲を見渡すと、ちょうど彼女がとたとたとアパートの階段を下りてきたところだった。特大の安堵の溜息が零れる。

 少なくとも燈子のことではないらしい。

 ならば、中西……。


『そうか。知らないのか、まだ山奥にいるなら知らないよね。すぐにわかるよ。呪いを解く方法なんてないんだ。諦めて悪魔からのギフトを受け入れろ。他人の人生に影響を与えられるってのは、いい気分だぜ? 正義の執行者にもなれる。たしかにあと何日逃げられるのかわからないけどさ、暴れてやりゃあいいだろ。人間、どうせいつか死ぬんだしよ』


 燈子が駆け寄ってきて、空が白む方向を指した。

 薄闇の中にちらちらと二つのライトが動いている。


「吉瀬さん、だれか来ます」


 警察だろう。

 ぼくは頷き、田邊との話を切り上げた。


「話はそれだけか」


『チッ、かっこつけやがって。あーあ、おまえはこっち側に来れると思ってたのにな。……終わらせはしねえぞ』


 通話は向こうから切れた。


 ぼくは燈子に警察が来ていること、どうやら呪いは解けていないということを話した。

 いずれにも驚きはないようで燈子は静かに頷く。


「とにかく、ここを離れましょう」


 踏み出すぼくに、燈子が首を振る。

 いったい何のことかと呆然としていると、彼女は進むどころか一歩下がった。


「燈子さん……? もしかして、どこか怪我でも?」


「いいえ、ご心配なく。私は……もう、大丈夫です。私は私の意思で正しいと思うことをしましたので」


「どういう意味ですか……?」


「吉瀬さんは、吉瀬さんが正しいと思うことをしてください。わたしに報復を選ばせてくれたように、それがどんなに捻くれて、拗れて、恥ずかしくても。いまの吉瀬さんなら、きっと、うまくいきますから」


 燈子の意図がわからない。純粋な喜怒哀楽さえ、メビウスの表情に阻まれていた。

 警察のライトは着々とアパートに向かってきている。時間が無い。


「吉瀬さん。今度こそ、お開きにしましょう」


「……燈子さん」


 あの遺骸の山が見つかれば大事になる。それこそ田邊の思惑通りだ。話を上書きする人間が必要だ。だが、警察に捕まれば――死体損壊は免れないだろう。

 いったいどう話をおさめるのか見当もつかない。


 信じるほかない。いいや、そもそもぼくは角守燈子を信頼している。

 恐怖の大王様にはきっと考えがあるに違いない。


「わかりました。とにかく、落ち着いたら連絡してください」


 再び踏み出したものの、かっこう悪いことにたたらを踏んで早口に言った。


「あ、あと! いま言うことじゃないかもしれませんが。お誕生日おめでとうございます」


 燈子はやはり、白む空を見つめたまま呟くように言った。


「……ありがとうございます。吉瀬さん。ありがとうございます」


 造形物めいた無機質な横顔を、夜明けが照らす。

 その下にある極彩色に見蕩れてしまわないよう、一息に背を向け、暗がりに駆け込んだ。


 次に会うときは、うんざりするほどオカルト話を浴びせかけてやろう。

 そう胸を弾ませてさえいた。


 *


 山道に停めていたワゴン車は見つかっていなかったようだ。

 ぼくは来た道を引き返して東京方面へ戻った。


 ――にはならないだろう。


 田邊の言っていたことが気になり、ラジオをつけたが、それらしいニュースは耳に入ってこなかった。

 正しくは、ニュースを耳にする前にぼくがこの目で現場を見ることになったのだ。


 本社に戻ったのは朝の六時だった。

 ラッシュには早く、人の行き来もまばらなはずの時刻だが、車の流れ、通りを行く人の数がいつもより多い。

 車を置こうと思っていた地下駐車場前にはパトカーと消防車が並んでいた。誰もが雑居ビルの上部を見上げ、指差している。


 まさか……。

 フロントガラスを覗き込むと、五階建てのビルの四階が黒々と塗り潰されていた。


「……え」


 声が漏れた。

 動揺しながらも目の前を通り過ぎ、数十メートル離れたところに車を停める。青々とした銀杏の葉に妨げられながらも、黒焦げた四階が見えた。窓を開けると、燃焼実験後のようなケミカルな臭いが舞い込んできた。

 爽やかな夏空の中に打ち込まれた禍々しいコントラストを、誰もが忌諱の目で見上げており、立ち止まる野次馬をパトカーのスピーカーがたしなめる。


 田邊の口ぶりはずいぶんと思わせぶりだと思ったが、どうやら誇張ではなかったようだ。

 まさしく、あんなことが起きている。


 問題は、誰が起こしたのか。

 ぼくの脳裏には、自然と中西の姿が浮かんだ。


 その時――まるで、ぼくの脳内を見計らったようなタイミングだった。

 助手席に放り投げていたスマートフォンが着信音をかき鳴らす。


 亀裂の向こうには『中西栄吾』と表示されていた。

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