鉄槌


 まさか。

 まさか。

 ぼくさえ、その光景を見たくなくて結論を頭が拒否していたにもかかわらず、燈子が言ってのける。


「どうですか。あなたたちのが、大嫌いな"世の中"に蹴散らされる様は」


 ばきん、とひときわ大きな音が響いた。

 姿鏡の中央から、見事な亀裂が入ったのだ。


「あなたたちは伝説なんて綺麗なものでも強いものでもありません。土にも還れない惨めなです。臭くて汚いです」


 暗がりから肉と、骨と、血と、汚物がはじけ飛んだ。

 鼻の奥、喉さえ焼きつくし、胃をぎゅうぎゅうと絞るほどの臭気が部屋を満たしていた。

 ありとあらゆる手段で体から水分が逃げようとする。吐き気にえづきながらも、なんとか嘔吐をやり過ごした。

 連中の都市伝説を押し付けられていたぼくと違って、燈子は最初から、正しくが見えていて、正しくを嗅いでいたに違いない。

 酷なことをさせてしまった――などという思いは、報復のために一心不乱にハンマーを打ち下ろす彼女の姿の前に、一瞬にして消え去った。


「よく言いますよね。お化けより、生きている人間のほうが怖いって。そういうことですよ。生きている人間のほうが、怖くて強いんですよ。生きてるほうが強くて偉いんですよ」


 それが悲しみなのか怒りなのか、はたまた笑っていたのかはわからない。彼らをハンマーでたたき壊し、あまつさえ足で蹴りとばす燈子の顔は、報復を果たす者のそれだったに違いない。正気の沙汰ではなかった。


 慄くぼくの背後から、今度は歯ぎしりが聞こえる。 

 次第にそれは、聞き覚えのある声を模倣した。美和だ。


「ぎ、ぎぎ……と、とう、こ。燈子。やめて。いたい、いたい。また夕飯作ってよ。この間のさ。燈子。助けて、許して。死にたくない……」


 燈子は無視しているのか、聞こえないのか、顔すら向けない。


 ぶっ殺し直しにきた。

 それはぼくの言葉だったが、まさしくその有様だ。

 ぼくはただ、そのを鏡に見せつけ、同時に見せつけられていた。


「燈子。やめて。やめて。ぐ……ぎぎ、ぎぎ……汚い、そんなのあたしじゃ――壊さないで、いたい、いたい――あたしじゃない、壊さないで、あたしじゃない」


 ビシッ、ビシッと、さらに丸鏡が悲鳴を上げる。市販の安物には荷が重いと言わんばかりに表面が一気に蜘蛛の巣状にひび割れた。

 関節を不気味に鳴らしながら、灰色の手が迫ってくる。

 耳の裏を、生臭い吐息が撫でる。

 ぼくの手から、丸鏡の表面がぼろぼろと零れ落ちていく。

 足首が掴まれた。体は後ろ倒しになる。

 視界の両脇から、五本の長い指が伸びてくる。

 薄明かりを灯す液晶画面の向こうから、誰かの顔の、くぼんだ穴がじっとこちらを見ていた。


「……燈子さん」


 自分でも思ってもみないほど情けない声が出た。

 危機――いや、自分の死を伝えようとしたが、その先の声さえ灰色の肉に押さえつけられる。


「認めなさい。自分が無抵抗な腐肉だと。現実から目を背け、報復さえも自分の手で成せない、腐り果てるだけの肉だと……!」


 液晶の中で燈子が暴れている。

 姿鏡に、さらにもう一つ大きな亀裂が走った。

 その攻防を、化け物の指の隙間、暗視モードの小さな液晶ごしに見ることしかできなかった。

 ぼくの手からは、丸鏡の破片がぼろぼろと零れていく。止めようもない。

 骨と筋肉が悲鳴を上げ、喉の奥から血と苦みがせりあがってきている。口も鼻もふさがれて呼吸がままならない。小さな赤子の手が、狭い視界、ぼくの眼球を掴もうと指を伸ばしてくる。

 のを、待つだけだった。


「この……! 誰かがどうにかしてくれるのを待つだけの、諦めて腐った肉が……!」


 咆えるような燈子の言葉。

 それが、ぼくの聞く、最後の言葉――なのか?


 目の奥が痛む。水分がぎちぎちと涙腺を這いあがってきた。

 おぼろげになる視界の中でも網膜に焼き付くのは、異臭の中で、恐怖し、それでも文字通り鉄槌を振り下ろす黒三角の人形。

 この状況下でぼくが抱いたのは、実に子どもじみた感情だった。


 怒られたくない。

 嫌われたくない。

 あの怠惰と諦めを打ち壊すハンマーは、きっとぼくの顔面も狙っている。

 いままさに自分をねじり殺そうという化け物よりも、ぼくは燈子が恐ろしかった。


 ぼくの思考は、飛躍した。迂回だったのかもしれない。道筋なんてどうでもよかった。酸素がまわらず、混乱していたともいえる。


 ぼくの手で報復しなければ。

 ぼくの意思で反逆しなければ。

 ぼくはやつらの仲間じゃないと示さねば。


 そのために、ぼくに必要なのは――真実を見せつけ、腐った肉を怯ませる鏡だ。


 しかし、アンティークの丸鏡はもう何も映し出せない。

 他の。

 鏡。鏡。鏡……!

 雪崩れ込むように、ロケ日の記憶が蘇る。美和がいたずらっぽく歯を見せて笑っていた。

 ――カメラさん、特等席ですね。良かったですね。


 左手に持ったハンディカメラに、右手を伸ばす。

 体中に冷たく生臭い肉が絡みついて自由を妨げた。


 祈りながらもがく。

 酸素が回らず、意識が薄くなる。

 決死の思いで右手を振り上げる。


 右手が握っていた鏡の、アンティーク調のフレーム、その先端がハンディカメラの液晶画面にカツンとあたり、くるりと背面を向けた。


 目の前の光景をレンズが捉え、それを液晶画面が見せる。鏡の役割を果たしていた。美和が撮影前に身支度を整えたのと同じ要領だ。

 これで――。


「あ、ひ……ああ……ち……あ……」


 首の後ろから低くしわがれた声が呻く。同時に、絡まっていた肉の蔦が緩んだ。とにかく鏡にカメラを向けなければと左腕を前へ突き出したまま、ぼくは後ろ倒しになり、尻もちをつく。

 朦朧とした意識の中で、ようやく空気にありつく。呼吸を整えながら立ち上がり、正面を見据えた。

 突き出したハンディカメラの淡い光が、目の前にあるものを照らしているだけだった。

 それは、もはや鏡とはいえぬ代物。


 白骨だ。

 誰のものともわからない白く丸いしゃれこうべと、どこの部位ともわからない数本の白い棒が、天井の梁から垂れさがった麻縄に絡めとられているだけだった。床に落ちた麻縄の先端はために円が結われている。


 そのみすぼらしさ、哀愁にぼくは魅入ってしまい――しかし、燈子のハンマーがしゃれこうべの側頭部を容赦なく打ち抜いた。


 次の瞬間、音の圧が四方八方から身体を打った。滅茶苦茶に揉まれた。立ち上がることすらままならなかった。座り込んでいるのか、倒れているのかすらわからなかった。

 振動を伴う野太い声。

 鼓膜を劈く高い声。

 どれもが、おぎゃあ、おぎゃあと原初のままに叫んでいた。

 この部屋全体が赤子の口の中であるかのように、産声に満たされる。

 意識が暗い穴の中へ落ちていく。


 ふと、保坂さんの話を思い出した。

 三〇一号室には、若い男女が住んでいた。赤ん坊が生まれるからといって出ていったが、実際には女は精神病院に入れられていた。

 赤ん坊なんていなかった。産まれてこれなかったのか、そもそも存在しえない状況だったのかもわからない。とにかく、いなかった。

 いないものを信じて期待して待ち続けた。いないものを待ち続けた末に、産み、崇め、己も他人も捧げた。

 その行為をオカルトでは――。


「どうせ死にます。殺しにいきます。かならず」


 産声の津波の中で、恐怖の大王の声がした。


 その声が、化け物に対する報復者の声なのか、ぼくに対して呪詛を吐き続ける燈子ではない燈子の声なのか、ぼくにはわからないままだった。

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