キヲク探偵 1st Mystery「消えた恋人」

島崎町

 1st Mystery「消えた恋人」


   1


「お入んなさい」


 階段をあがってノックをすると、やさしい声が聞こえてきた。

 緊張しながらドアを開けると、声のとおりのニコニコしたおばあさんが座ってて、


「まあ、かわいいお嬢さんだこと! さ、入って、寒いでしょ」

「は、はい!」


 わたしは言われるがまま部屋に入る。


 暖かな空気につつまれながら、ゆっくり見まわすと、そこは暖炉のある洋風の部屋。照明を落として、昼間だっていうのに雰囲気たっぷり。


 落ち着いた家具、座り心地のよさそうなソファー、パチパチとはぜる暖炉がこっちに来いと呼んでるみたい。


 ニコニコおばあさんは暖炉の横で、ソファーに座って微笑んでる。

 さあ、なにごともはじめが肝心だ。わたしは息を吸って、


「助手のバイトの面接に来ました三日月みかづきかおるです! 一六歳、高校一年生! 特技は鼻の上で――」

「はいはい、まずはコートを脱いでくださいね」

「ああっ! すいません!」


 あわてて脱いで、ドア横のコート掛けへ。落としきれなかった雪が、コートの肩で早くも水滴になってこぼれ落ちていく。


「そこに座ってね」

 おばあさんはテーブルをはさんで真向かいの、もう一つのソファーを指さした。


「は、はい!」

 ソファに座る。スカートがふわりと舞って、少し短すぎたかな、なんて思いながら、


「あの、わたし、助手の募集見て昨日連絡ました! えーと、冬休みの間だけなんですがここで――」

「じゃ、今日から働いてもらいますね。よろしくね」

「い、いいんですか! そんな秒速で!」

「大歓迎。やる気もあるし、かわいいし」

「あ、どうも……」

「早くみつかってよかった。みんなすぐやめちゃうから困ってたのよ。前の人は二日、その前の人なんか一日、早い人は会ってすぐなんだから」


 おやや? 不安がわきあがる。どうしてそんなに早く?

 ふふふ……と老婆が笑う。


「さ、そろそろ起きてくるころね」

 おばあさんが部屋の右に目をやると、黒いドアの奥から物音が聞こえてくる。


「この時間にようやく起きるのよ。だから仕事は午後だけね」

 ゆっくり立ちあがるトコトコと、おばあさんはわたしの横を通りすぎていく。


「行っちゃうんですか?」

「わたしの役目はもうおしまい。ここからは若いふたりにまかせましょ、ふふふ……」


 笑ってる場合じゃないよ。いったいどんなバケモノが出てくるかわからないのに、ふたりだけにしないで!


「そうそう」

 ドアを開けておばあさんはふり返り、


「先生、寝起き悪いから気をつけてね」

 きゃっきゃっとうれしそうにドアを閉めた。


 やばいことになった。なにげなく応募したバイト、冬休みの間だけでもできればいいや、それくらいの気持ちだった。だってこんな変わったバイトはない。助手なのだ。噂に聞く、あの仕事の。


 そのとき、ドアが開いた。

 来た!


 わたしは固まったまま、じぃっとドアを凝視する。

 ドア向こうの暗闇から、その人はゆっくりと、不確かな足どりで出てきた。

 ラフに着た白いシャツがまぶしい。さらりと伸びた黒髪を、憂鬱そうにかきあげて、起きたばかりの顔をわたしに向ける。


 体が震えた。

 なんて美しいんだろう。

 人は美しいものを見ると体が震えるのだ。


 透明な瞳が、わたしを見ている。

 かあっと体が熱くなる。暖炉が燃えてるけど、そのせいじゃない。


「きみは、だれだ」


 繊細なんだけど、芯の通ったたしかな声だった。真実を探求する、人の声。

 この人が、キヲク探偵。



   2


「あ、あの……」


 わたしがモゴモゴ言ってるうちに、その人――これからは先生と呼ぼう――は、のろのろとソファーに座り、テーブルに本を置いた。


 威厳がありそうな黒い表紙。白い手書きの文字で、なにか書いてある。

 なんて書いてあるんだろうと首を伸ばすと、


「ブラック」

「は?」


 なにか言ったよ。

 先生は暖炉に手をのばし、ぬくぬくと温めている。


「なんで……しょう?」

「ブラック」

「どういうこと? ですか?」


 先生は暖炉の手を引っこめて、

「きみはここにコーヒーを置く」

 細く白い指で、コツコツとテーブルをたたく。


「先生あのですね、バカでもわかるように言ってもらえませんか?」

「きみは依頼人じゃない」


 先生は面倒くさそうに語りだした。


「依頼人なら、僕が入ってきたとき、ソファーに座りっぱなしはおかしい。頼みにきたのだから、立ちあがって迎えるはずだ。まあ、礼儀作法を知らない無礼な依頼人という可能性もあるが……」


 そう言ってわたしを見る。

 もちろんムッとする。


「依頼人でないなら大家か助手だ。僕が目を覚ましたとき、ふたつ声が聞こえた。ひとりは降りていったから大家、残っているのは助手だ。その態度からして今日が初日だろう。なにをしていいかわからないんだ。僕はいま起きたばかりで、こうしてぼやぼやしている。このあと依頼人がやってくるはずだから、それまでに目を覚ましておかないといけない。飲むならコーヒー、入れるのは助手、置くならここ」


 さっきたたかれた場所が、もう一度コンコンと音をたてる。


「そして、目覚ましのためならコーヒーは?」

「ブラック……」


 外で風が強く吹く。

 パチパチ薪が音をたて、暖炉が大きく火を灯す。


 先生が最初に言った言葉「ブラック」。その裏に、これだけの思考があったんだ。

 すごい……。


 わたしはただただ純粋に、その能力をうらやましいと思った。

 コンコン。またテーブルをたたく音。


「あ、はい!」


 あわてて立ちあがる。

 えーとどうしたらいいんだ?

 部屋の左側に灰色のドアがあるぞ。その左にキッチンがある!


「早くしたほうがいい、依頼人が来たぞ」

「え? どうして?」

「車が止まった。タクシーだな。ほら、玄関のドアが開いた」


 ホントだ、下から大家さんの声が聞こえる。

 あ、階段をのぼってくる音!


 早くしないと!

 あわててキッチンに駆けこむ。


 えーとコーヒー、コーヒー、コーヒーはどこ?

 そのとき、ドアがノックされた。


「どうぞ」


 招き入れる先生の声が聞こえる。

 ああ、どうしよう! 最初の事件だ!



   3


「インスタントしかなくて!」


 ふたり分のカップをテーブルに置いた。

 先生と女性が、テーブルをはさんで対面してる。


 先生が、眠そうな顔で口をつけた。

 女性は手をつけない。じっと考えこんで、


「ここに、キヲク探偵の先生がいらっしゃると聞きました」

「僕がそのようです」


 不思議な返事をして、先生はテーブルに置いてある本をひっくり返した。そうだ、表紙になにか書いてあったんだ。


「なくした記憶を、取りもどしてくれると聞きました。それで、わたし……」


 女性は二〇代後半……三〇歳かもしれない。地味な服を着て、大人しい感じ。どこかで会っても、気づかないような……。


「おい」

「なんですか?」

「依頼人がしゃべりにくい」


 テーブルの横に立ちっぱなしだった。


「すみません!」

 あわてて先生の横に座る。

 先生は露骨にいやな顔をしてるけど、強引だ。

「じゃあ、話してください」

 先生が目をつぶって言った。


「はい……。あの、わたしは、佐藤君枝きみえと言います。仕事は建設会社の経理です。子供のころから大人しいって言われてて……ずっと、目立たなくて、いまもそうです。ええと、両親は遠くに住んでいるので、わたしはアパートにひとり暮らしです。いつも家と会社を往復する毎日で……学生時代もおなじ電車に乗っていたので、ほんとにずっと、おなじような毎日がつづいています」


「ふあぁ」

 大きなアクビが聞こえた。

 先生!


 ハラハラしながら君枝さんを見る。

 君枝さんは表情を変えない。おなじ調子で先をつづけていく。


「わたしは、先ほども言いましたが、ひとり暮らし、のはずです。結婚もしていませんし、いっしょに暮らす人も……いません。もちろん付き合ってる人も……。だからわたしはいつも、自分が食べる分だけご飯を作ってきました。性格なんだと思いますが、ひとり分だけ作って、作り置きはほとんどしません。そのとき食べる分だけ作っておしまいです。なのに……」


 ひと呼吸おいて君枝さんは言った。


「いまのわたしは違うんです」

「ほお」

 横から興味ありげな声が聞こえた。


「おかしいんです。わたしはいま、二食分作っているんです。毎日、だれかのために食事を作って、テーブルに置いているんです。部屋にはわたししかいないので、きっとだれかの分で、その人のために作っているんです。でもその記憶がなくて、思い出せないんです。先生、教えてください、わたしはだれに作っているんですか? そして、その人はどうして、一度も現れないんですか?」


 しゃべり終え、君枝さんはガクリとうなだれた。


「なるほど、興味深い」


 先生が目を開けた。

 輝いてる。

 カップを手にとり、コーヒーを一気に飲み干した。

 たまらなくうれしそうな顔が、わたしには見えた。



   4


 それは「停電」と呼ばれていた。はじまったのは一〇年前とされている。ある日突然、記憶がなくなるんだ。パッと灯りが消えるように。


 原因はわかってない。食べ物のせいだって言う人もいるし、宇宙からの電波のせいだって言う人もいる。


 消える記憶は全部じゃなく、なにかひとつが消えるんだ。大事な記憶もあれば、そうじゃないものも。消えたことに気づかなくて、ふつうに生活してる人もいるけど、なかには、人生がおかしくなってしまう人もいる。


 そういう人がここに来るんだ。キヲク探偵のもとへ、一縷いちるの望みを抱いて、なくしてしまった自分の一部を、取りもどすためにやってくる。


「いつからですか?」

 先生が、空になったカップを置く。

 君枝さんが顔をあげた。


「いつからいつまでの記憶が欠けていますか?」

「えっと、定かじゃないんです。気がついたら……」

「気がついたのは?」

「おかしいな、と思ったのは半年くらい前です」

「それ以前の記憶が、すべて消えてしまったわけじゃないでしょう」

「ほかの記憶はあります。仕事に行ったり、母と電話したり、友人に会ったり」

「友人?」

「いえ、男性じゃなく……高校のときの友人たちです」

「たち?」

「えーと、集まることになって」

「頻繁に会うんですか?」

「いいえ。最近、一年に一回か二回集まることがあって。それって関係あるんですか?」

「あるかもしれませんね」


 わたしにはわからない。どうして先生はそんなことにこだわるんだろう? 君枝さんの友人が、秘密を握ってるとでも言うのだろうか。


「まあいいでしょう。つまりあなたは、食事を作っている相手のことだけを忘れてしまったと」

「はい、そうなんです」

「以前は自分の分だけ作っていましたね。ひとり分だけ作っていた最後の記憶はいつですか?」

「それが、おぼろげなんです。何年も毎日そうだったので……。変化のないおなじ記憶がずーっとある感じなんです。いつまでそうだったのか、明確な区切りがない感じなんです」

「区切りがない感じねえ。あなたが作ってるご飯、なにか特徴的なものを作っていませんか?」

「そういうものは特にありません。わたしが食べるふつうの料理です」

「量は?」

「ふつうです」

「んー」


 先生は腕をあげ、伸びをする。


「いっこうに見えてきませんねえ」

「そうなんです。記憶が完全に消えてしまって、わたしも、思い出そうとしても全然浮かばないんです」

「あっ!」

 わたしはひらめいた。


「電話の履歴とか、SNS的なものとか残ってませんか? そしたらわかるかも!」


 褒めてもらいたい犬みたいに、わたしはクンクン先生の顔を見る。

 先生は無表情で天井をながめてる。

 ちぇっ!


「わたしもそう思ってまっ先に探しました。だけどなんにも残ってないんです」

「なんにも?」


 先生が前に乗り出した。


「はい。あれば相手がわかります」

「でしょうねえ」


 なにかわかったんだろか。先生は美しい笑みを浮かべてる。


「あなたは半年前にその人がいないと気づいた。それから半年間、ふたり分の料理をずっと作っている。どうしてですか?」

「どうしてって……」

「おかしいと思いませんか?」


 君枝さんはじっと口を結んだ。

 パチパチと、燃える暖炉の薪だけが、部屋に音を響かせてる。

 そう言えばそうだ、どうして君枝さんは……


「助手のきみ」

「あ、はい」

「君だっておかしいと思うだろ、だれもいないのに作りつづけるなんて」

「ええ、そうですね!」


 先生に聞かれて、わたしはうれしくなった。助手として頼りにされてる?


「そう言われたら、ふつう、いる人の分だけ作りますね。わたしだったらきっと――」

「だっていつもどってくるかわからないじゃないですか! 作らなくなって、その日に帰ってきたらどうするんですか! いつ来てもいいように、わたしは……その人のことをずっと、待ちつづけているんです……」


 君枝さんはハンカチを出して、目がつぶれてしまいそうなほど押しつけた。


「ごめんなさい!」


 ああ、なんてことを言っちゃったんだろう、バカなわたし!

 浮かれてベラベラしゃべって君枝さんを傷つけて。

 申し訳なくて、くやしくて、わたしも泣きたい気持ちだ。


「なるほどねえ」


 先生だけがうれしそうな顔をしている。

 目の前で依頼人が泣き、助手が謝っているというのに。

 まったくどういう神経なの?


「先生!」

「なんだ」

「先生はキヲク探偵なんでしょ!」

「おそらくね」

「そそ、その態度ですよ! なんですかそれ! もっと君枝さんのためになにか考えたらどうですか! 推理のひとつもしてくださいよ!」

「ひとつどころか僕は核心に近づきつつある」

「ホントですか!?」

「ホントだよ。あと少しですべてがわかる」


 先生が、自信たっぷりに髪をかきあげた。サラサラと絹のように髪が流れる。


「じゃじゃ、じゃあ!」

「興奮しなくていい。えーと君枝さん」

「はい……」

「あなたがはじめて、『おかしい、ふたり分作ってるな』と思ったとき、あなたはどこにいました? 家ですか?」

「えーと、はい」

「キッチンですか?」

「いいえ。ご飯を作ったあとだと思います。たぶんテーブルに持っていったときに……」

「キッチンからテーブルは見えますか?」

「いいえ」

「なるほどね」


 先生はうれしそうだ。


「あなたの家にテレビはありますか?」

「は?」「へ?」


 君枝さんとわたしは珍妙な声を出した。

 いっぽう先生は涼しい顔で、


「どうですか?」

「テレビは、ありません」

「やっぱり」


 もう我慢できない!


「先生! テレビの話なんかどうでもいいんですよ!」

「そうともかぎらない」

「そんなこと聞いたって、なくした記憶にはたどりつかないですよ。君枝さんはだれにご飯を作ってるのか、それを探しているんですよ!」


 コンコン。

 テーブルの上から音が聞こえた。


「助手のきみ」


 先生が、ゾッとするほど落ち着いて、刺すような眼差しでわたしを見た。

 そうして体を寄せてきて、息が届くほどの距離で言った。


「もうすべて、わかっているんだよ。失われた記憶の全貌が、僕には見える」


 ああ……

 その瞳に打ち抜かれる。

 気絶しそうな意識の中、声が聞こえた。


「ブラック」



   5


 キッチンでお湯を沸かしながら考える。

 あやうく気絶するところだった。

 あの目であの距離で見られたら危ないぞ。


 先生は、すべてわかったと言った。

 君枝さんがだれにご飯を作っているのか。


 顔をあげると、暖炉の部屋が見えた。

 あれ? 君枝さんのうしろ姿は見えるけど……


 先生がいない。

 君枝さんの向こうに空のソファ。

 君枝さんはひとり、ソファーに座ったままで。

 暖炉の火が、肩に赤い稜線を作っている。


 さびしそうだ。

 毎日、ふたり分のご飯を作って、ひとりで食べているんだ。

 その人はどうしていなくなってしまったんだろう? 着信履歴やSNSも消して。


 消して? 消したのはその人? それとも君枝さん?

 君枝さんが忘れたことって、君枝さん自身が、記憶から消してしまいたいことだとしたら……


 ヤカンがグツグツ音をたてる。

 先生、わたし、わかりましたよ。

 悪いですけど、わたしも言わせてもらいます。

 失われた記憶の全貌、わたしにも見えちゃったりして。


 ヤカンがピーと音をたてた。



   6



 ドアには「喫煙室」と書いてあった。キッチン横の部屋。

 イスが三脚とテーブルがひとつ。それだけでいっぱいになってしまう、小さな部屋。

 だけど狭さは感じない。二面の壁のほとんどが窓になっていて、光りがいっぱいに差しこんでくる。


「ブラックです」


 長方形の小さなテーブルに置いた。

 先生はここにいた。イスに座り、顔を横にして外を眺めている。


 窓の外は一面の雪だ。黒い建物と白い雪しかない。二階の窓だからよく見える。

 「喫煙室」というより「眺望室」だ。


 反応がない。

 見ると先生は、うつらうつらしてる。


「先生! コーヒーですよ! ブラック!」

「ん? ああ、助手くんか」

「そうですよ。これ飲んで目を覚ましてください。それからわたしの推理を聞いてください。わかったんですよ、失われた記憶の全貌、わたしにも見えちゃったんです」


 ふぁあ、と大きなアクビをしつつ先生はコーヒーをグビグビ飲みだした。

 わたしの言葉なんて聞いてないぞこれ。


「先生、聞いてください!」

「聞いてるよ、見えちゃったんだろ」

「そうなんです、君枝さんのなくした記憶、わかりました」


 そこまで言って、ハッとしてドアの向こうを見た。

 大丈夫、君枝さんまで声は届いてないようだ。

 暖炉の部屋で、ソファーに座ってじっと炎を見つめてる。


「あのですね、メールかSNSかわかりませんが、消したのは君枝さんなんですよ。きっとやりとりはあったんですよ。でも消したんです、なぜなら!」

「なぜなら?」

「ふたりは別れたんですよ。どっちがどっちを振ったとかはわかりませんが、悲しい別れがあったんですよ。だから別れた相手からの着信もSNSも消した。そのとき『停電』が起こった!」

「停電?」

「記憶が消えることですよ」

「比喩か?」

「なに言ってるんですか、みんなそう言ってますよ」

「まあいい、それでどうした?」

「えっとだから、『停電』が起こって、君枝さんは付き合ってた人のことも、その人と別れたことも忘れてしまったんですよ。で、目の前にはふたり分のご飯が残された!」

「ふん」


 わたしの完璧な推理を鼻で笑った!


「ふんってなんですか!」

「ふふ……。悪くはないという意味だよ。正解ではないが」

「どうして!」

「つまりきみが言いたいのは、その男のために……まあ仮に男とするが、料理を作って男を待っていたら、携帯に別れの連絡が来て、やりとりを全部消したところでちょうど記憶がなくなった、ということか?」

「そそ、そうですよ!」

「では男の手掛かりが部屋にまったくないのはなぜだ? 同棲していなかったとしても、なにかは残っているだろう」

「君枝さんはきっときれい好きだから、全部処分したんですよ! そこで『停電』に!」

「じゃあ会社の人も友人も、男のことをまったく知らないのはなぜだ? そいつらの記憶も処分したのか?」

「う、うう……先生のいじわる!」

「泣くな。推理は間違いだが、悪くはないと言っている」

「ホントですか!」

「だれもその男のことを知らない、メールにもSNSにも出てこない、部屋に痕跡すらない、そこまでいけば結論はひとつだろう」

「なんですか?」


「そんなやつは、はじめからいなかったんだよ」



   7


「どど、どういうことですか?」

「落ち着くんだ」

「落ち着いてられませんよ!」

「彼女の話を聞いて、男がいないことはすぐにわかった。痕跡がなさすぎるからね。ということは、彼女がなくした記憶は、男に関するものではない。では、なにを忘れたのか?」

「なんですか?」

「ふぁあ」


 返事はあくびだ。


「先生!」

「この事件の本質は、『だれ』ではなく、『なぜ』なんだよ」

「えーと、全然わかりません!」

「だれのために作っているのか、じゃなくて、なぜ作っているのか、だよ。僕が彼女にした質問、覚えてるかい?」

「覚えてますよ、変なのばっか。友人のこと聞いたり、キッチンからテーブルは見えるのかとか、テレビはあるのかなんて」

「肝心なのを忘れている」

「なんですか?」


「ふたり分作っていると気づいたとき、どこにいたかだ」

「たしか、ご飯をテーブルに持っていったとき、でした」

「そう。彼女はトレーかなにかにご飯を乗せ、テーブルに持っていった。そこで『おかしい、ふたり分作っている』と思った。つまりテーブルにはすでに、ご飯が用意してあったということだ」

「どういうことですか? 僕にはさっぱりわかりませんよ!」

「つまり彼女の記憶から失われたのは、『ご飯を作った』という記憶なんだ」


 衝撃が突きぬける。まさか、そんな……。


「彼女はいつものようにご飯を作り、テーブルに置いて、キッチンにもどってきた。おそらく性格からして、先に後片付けをしたんだろう。そこで、きみの言うところの『停電』が起こった。料理したという記憶が飛んだんだ。気がつくときれいなキッチンにいる。ちょうどご飯どきだ。なにをするか、一択だ」

「ご飯作り……」

「そう」

「だから先生、キッチンからテーブルが見えるか聞いたんですね! テーブルが見えるなら、もうご飯を作ってるってわかる!」


 落ちかけてる先生のまぶたが開いた。


「冴えてるな」

「へへへ……先生の助手ですからね。でも、テレビがあるのかって質問は?」

「単なるお遊びだよ。推理の遊戯にすぎない。テレビのある部屋で食べるとき、座る場所は決まってるだろう。テレビの正面か、見やすいところだ。料理を置くならそこだ。『停電』が起こり、もう一食持っていったとき、いつもの場所に料理があれば、だれかの分とは思わずに、自分の分がもうひとつあるとわかるだろう」

「でも、君枝さんの部屋にはテレビがないから……」

「座る場所は決まっていなかった」


「そんなことでだれかいると思ったんですか? その人のためにご飯を作ってるって?」

「そうだ」

「でも君枝さんは、いまもふたり分作ってるんですよ、半年間ずっと待ちつづけているんですよ、どうして……」


「ときに疑問と答えが一致する場合がある。いまがそうだ。だれもいないのになぜ? だれもいないからだ。どうしてそんなに待ちつづけるのか? そんなに待ちつづけるほどの人間だからだ。ずっとひとりだった彼女は、だれかいてほしいと願った。記憶が失われてできた空白を、埋める材料がすでにあったんだ。彼女は友人たちに会ったと言っただろう」

「はい、あれはいったい?」

「最近、年に一、二回の集まり。あのくらいの歳なら、友人の結婚式がつづいてもおかしくない。余興か贈り物の相談で、友人たちで集まるわけだ」

「それが何度もつづいて……」

「さびしさをかきたてられてもおかしくない。たえずひとりで、孤独に慣れているとしても……」


 ドアの向こうに、君枝さんが見える。

 カップを持って、落っこちそうなほど、のぞきこんでる。


 暖炉の火がゆれる。

 君枝さんが、わたしの視線に気づいた。

 顔をあげ、こっちを見て、ほほえんだ。


 顔の灯りが、ゆらゆらとゆれる。

 そのたびに、表情が変わって見える。

 笑顔と泣き顔が、交互に、ゆらゆら。


「事件は解決だ」

 先生の眠そうな声が聞こえた。



   8


 君枝さんは泣いた。

 ハンカチに顔をうずめて。


 先生は3杯目のコーヒーを飲んだけど、夢の世界にまっしぐら、ソファーの上でうつらうつらしている。


 真正面に座る君枝さんにわたしは、

「ごめんなさい」

 と言った。自分が残酷な現実の共犯者になった気がした。


 なくした記憶を取りもどすキヲク探偵……。

 だけど、取りもどさなくてもいい記憶が、あるのかも。

 なくしたまま、いつわりの記憶を埋めこんで、悲しい現実から逃れられるなら。


 君枝さんが顔をあげる。

 あれ?

 涙はまだ流れてる。だけど……


「もう、待たなくてもいいんですね」

「え?」

「現れない人のために、ご飯を作らなくても」

「……」

「わたしはこれで、前に進めると思います」


 そう言って、ニコリと笑った。

 涙で悲しみが洗い流されたような顔だ。


「いいんですか、ホントに」

「わたし、疲れていたんです、待ちつづける生活に。どこかで待つことをやめなければいけないのに、ずっとそれができなかったんです。だって、もしかしたら明日来るかもしれないし、来なかったとしても、明後日かもしれないし、そうやってズルズルと、気がつくと半年もたってしまって……もう限界だったんです、だから、ここに来たんです」


 君枝さんはすーっと息を吸った。


「ありがとうございます。待つのは、今日で終わりです。いまからわたしは、生きていきます。わたし、これから、なんでもできるような気がするんです」


 笑顔に暖炉の火が灯る。

 いくらゆらめいても、表情は変わることがない。

 ずっと、笑顔のままで。

 君枝さんは帰っていった。


 

   9


「おはようございます!」

 階段を駆けあがりながら大家さんに声をかける。


「おはよう。あなたにとっては二日目ね」

 階段の下から声が聞こえる。


「がんばります!」

 そう言ってドアを開ける。


 暖炉に火が入ってるけど、先生はまだ寝てるみたいだ。

 わたしはキッチンに駆けこんで、持ってきたコーヒー豆とコーヒー道具をカバンから出した。


 助手二日目。もう先生にインスタントなんか飲ませない。

 今日からは美味しいコーヒーを入れてあげるんだ。


 ガサゴソやっていると、物音がした。

 先生、起きてくるぞ。


 暖炉の前まで走っていって、待つ。

 黒いドアが開いた。

 昨日とおなじように、先生はゆっくりと、不確かな足どりで出てきた。


 本を手に持ち、のそのそ歩いて、わたしを見つめる。

 なんて美しいんだろう。


 今日一日、これだけでかんばれる気がした。

 先生は、眠そうな目でわたしを上から下までじーっと見つめて、言った。


「きみは、だれだ」

「え?」

「わたしですよ、助手ですよ!」


 その言葉にも、思い出す様子はない。

 寝ぼけてるわけじゃない。本当に、わたしのことを知らないその表情……

 やばいことになった。


「先生、もしかして『停電』が……記憶がなくなったんですか……」


―― つづく ――

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